rhetoricaタグ,思ったほど書いてなかったのでメモ的にちょっとずつ足していきたい
rhetoricaタグ,思ったほど書いてなかったのでメモ的にちょっとずつ足していきたい
adynaton 無理誇張
ある事柄の不可能性を強調するために,他の不可能な事柄を比較に持ち出す技法.
alta prius retro labentur flumina ponto,
annus et inversas duxerit ante vices,
quam tua sub nostro mutetur pectore cura:
sis quodcumque voles, non aliena tamen. (Prop. 1.15.29-32)
海から深き川が遡り流れ,
一年が逆の順序で過ぎるだろう,
私の胸の内でお前への想いが変わる前に.
何でも望みのものになるがよい,だが他の男のものにはならないでくれ.
ἀλλὰ μήνって声に出して読むとなんかちょっとえっちだ/// (疲れてる)
figura etymologica
語源的あや,また同族呼応とも言われるものだが,実際に語源的な関係性のない,いわゆる民間語源に基づくケースなどもあるので地口や洒落の類と厳密に区別するのは必ずしも容易ではなさそう.
Hanc propter subterque pedes quos diximus ante
Orioni' iacet leuipes Lepus. (Cic. Arat. 120-121)
これ(=おおいぬ座)の傍,そして先に述べたオーリーオーンの足元に
軽やかな足の兎がいる.
※lepusとleuipesの間に本当の語源的関係はないが,ウァッローによると足の速さと兎の名前の由来を関連づけた人がいたようである(L. Aelius putabat ab eo dictum leporem a celeritudine, quod levipes esset. (cf. Var. RR 3.12.6)).
#rhetorica
ゆるキャン△抱き枕(http://www.curtain-damashii.com/event/c94/#yurucamp )両方ベッドに並べて自分は床で寝るやつやりたい
grammaticalというよりphilologicalな用語だからかもしれない.
ところでobelusについては人文主義者の用例にもobelo confodireという言い方がBeroaldoにあるとRizzo, Il lessico filologico degli umanisti: p.285.
『漢文脈の漱石』こんな本出てたんだ.これは買わなくては.
漱石の漢詩はたしか岩波文庫にも入っていて,日本人の作としては例外的に中国人の鑑賞にもたえる高い水準のものだったはず.
翰林書房 -WEB-
http://kanrin.co.jp/book/02_201803_kanbunmyaku.php
翰林書房 -WEB-
http://kanrin.co.jp/book/02_201803_kanbunmyaku.php
何か,19-20世紀人でありながら古典の言語で詩を書いて,なおかつ只の模倣や継ぎ接ぎにはならず独自の詩的世界を構築する水準まで到達した,というとイタリアの詩人ジョヴァンニ・パスコリ(1855-1912)のラテン語詩なんかも思い浮かべてしまう.
Mahoney, A.(2002), `The Saturnian Lullaby in Pascoli's "Thallusa"', Humanistica Lovaniensia 51: 311-321.
ジョヴァンニ・パスコリ(1855-1912)晩年のラテン語詩『タッルーサ』はキリスト教を主題とする作品.その殆どはhexameterで書かれているが,詩の最後でタッルーサが歌う子守唄はsaturnianという古い時代の韻律で書かれている.現存しているこの詩形のラテン語作品(紀元前3世紀)とパスコリのそれとの違いの検証を通し,両詩形の対照が元来のローマの信仰とキリスト教徒との衝突・葛藤というこの詩の核心を形成していることを論じる.特に韻律的な不規則・イレギュラーが,パスコリの訂正するつもりであった未推敲箇所ではなく積極的な意味を持つものとして解釈される.
何かこう,宿や列車の予約に代表されるような,やればすぐ終わる作業になかなか着手できずギリギリまで延ばしてしまうの,そういう一瞬で終わる作業はしかしそれが一回限りであるがゆえに日々のルーティンの中にイレギュラーを発生させてしまうという点で自分のような人間には負荷が大きいんだろうな,と思いました.
μυοτακισμόςなる謎い語について(要調).「m音が連続して音調が悪くなること」のようだがドーナートゥスの用例で表記に異読があって揺れるのでHoltzの新しいエディションを参照しないといけない.
https://github.com/ncrt035/lexiconGrammaticum/issues/33
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ラテン語の諺や諺的表現を調べる場合Otto, A.(1890), Die Sprichwörter und sprichwörtlichen Redensarten der Römer, Leipzigを見る.中世の諺だとTPMA (Thesaurus proverbiorum medii aevi = Lexikon der Sprichwörter des romanisch-germanischen Mittelalters)という大きな書物がある.
ギリシア語でそれ関連は何を見るのがいいのかあんまりよく知らない.
ギリシア・ローマの動物(生態)関係の諺:Köhler, C.S.(1881), Das Tierleben im Sprichwort der Griechen und Römer: Nach Quellen und Stellen in Parallele mit dem deutschen Sprichwort. [https://archive.org/details/bub_gb_cd8fHI8RAgIC ]
プラトーンにおける諺的表現:Grünwald, E.(1893), Sprichwörter und sprichwörtliche redensarten bei Plato [https://archive.org/details/4768568 ]
ギリシア語エピグラムにおける諺:von Prittwitz-Gaffron, E.(1912), Das Sprichwort im griechischen Epigramm.[https://archive.org/details/dassprichwortimg00prit ]
Twitterは知り合いかもしれない利用者とか言ってbioがめちゃくちゃ強い研究者を推してくるので厳しい
絵であれ音楽であれはたまた技術系の何かであれ広い意味でものを作る志向・嗜好のオタクが周囲にいない非文明環境に育ったので,インターネットで神々が仲良く戯れているのを見ると羨ましくて死にそうになってた.
電子辞書をウッカリ机から落としてしまったが何ともなかったので誉めてあげた(辞書を)
仕事で使うクローズドなWikiを立てる必要があったのでかねてより興味のあったCrowiを導入してみた.
午前中から延々サーバの設定をしていて自分が何屋さんなのかわからんくなってきたが,先ほどアイスキュロスを読むことにより心の平静を取り戻した.
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む|「動くサービスを提供するとずっとメンテしないといけなくて大変だから、動かさなくていい部分をなるべく切り出してデータとして公開するのがよい」https://twitter.com/knagasaki/status/1014124208798879744
「こういうのあったらいいな」とか「こういう動かし方してみたい」というのがないと着手できない上に具体的に何か作るのに興味がある人間なのでデータだけ公開とかだと楽しさが半減というか食指が動かない感じがなくはない
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enimは文頭に立たないというのは概ね正しいが喜劇を読んでいると文頭にenimが出ることがある.
ルクレーティウスあたりを読んでいて出てくる特殊な形(それこそ第1変化名詞単数属格の-aiレベルから)や語法について何見たらいいですかと訊かれてはたと考え込んでしまった.
ルクレーティウスに限った話ではC.Baileyの3巻本の注釈書の前書きがGrammar-Syntaxの説明にページを割いていてよく網羅してあるのでそれが手軽ではある.
そういえばA.Ernoutもルクレーティウスのテクストと注釈(L.Robinと共に)を出していて,ErnoutはA.Meilletと共にラテン語語源辞典を編集してもいるしMorphologie historique du latinのような本も書いているから言語学的な説明となるとそちらの方面を見にいくのもいいかもしれない.
「関係者各位」と書いておきながら「※対象者以外にも送っています」とかいう謎の添え書きと共にメールが送られてくるの地味にストレスが溜まる
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本当に関係のある人間のみ選んで送るという労力を節約しつつ,必要な事務が行われなかった場合には受信者側の確認不足という責任に出来る便利な手段だ.
やはり第2ソナタが一番好きかもしれない.
コンパクトにまとまっていて,モダンな音の運びの中に,どうやったら思いつくんだというくらい綺麗な響きがちりばめられている感じ.
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Ottoの本には補遺があった.
Szelinski, V.(1892), Nachträge und Ergänzungen zu "Otto, die Sprichwörter und sprichwörtlichen Redensarten der Römer", Jena.
https://books.google.co.jp/books?id=Ww8-AQAAMAAJ&hl=ja&pg=PA1#v=onepage&q&f=false
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東海道新幹線が遅れて途中参加だったり疲れがあったが「国際シンポジウム デジタル時代における人文学の学術基盤をめぐって」(http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/kibans/sympo2018/ )に行ってきたので一晩明けて振り返り.
Crane先生の講演(`Philology 2.0, the Smart Edition and The Future of Work')が文献学とは何かという冒頭の問いでA.Boeckhの「古代全般にわたる歴史的・哲学的認識universae antiquitatis cognitionem historicam et philosophicam」という定義から始めているのが面白かった.
「認識されたものの認識」というBoeckh的な文献学理解の枠組を当てはめると,この「(一度)認識されたもの=人間の精神的営為の表れ」という研究対象が,情報技術の進歩によって大きくその形態を変化させているのが現在の状況と言えそう.
過去の文献学が被った根本的な変化3点として(1)「古典古代学Altertumwissenschaft」の発展,(2)キリスト教文献研究と古典文献学の分離,(3)「文芸共和国Res Publica Litterarum」から各国のナショナリズム的競争への推移,が挙げられ,それと部分的に対応する形で文献学のこれからの変化3点として(a)デジタル空間で可能になることに照らしての文献学的手法の再発明,(b)宗教的文献と非宗教的文献の再統合,(c)ギリシア・ラテン語以外への古典の拡張,が示唆されていた.自分の関心というか普段携わっている範囲から行くと(a)に特に気を配って行くべきなんだろーなーという感じ.
公開された研究データを収集しミッシングリンクを埋め,分野に応じて束ねていく知識基盤の存在(この辺りが実際にどういう風に構成されているかについては大向先生のお話)は,先のBoeckh的枠組みをもう一度思い浮かべるとにおける「認識されたもの」としてのデジタルデータを整備するという,これからの時代の人文学を支える重要な役割を担っていることになる.
……ただ,データを整理したりツールを用意することと何か研究を興していくこととはスパッと分けられる(分けるべきである)とは思わないし,況して上下関係にあるなんてことはないと思うんだよな.支えるというより何か相補的なものと考えておいた方が良さそう(こう感じるのは20世紀初め頃の「哲学と文献学の不幸な対立」について調べ物をしたからかもしれない).
ビザンツ時代のギリシア語版オウィディウスの断片.P.E. Easterling and E.J. Kenney (1965), Ovidiana Graeca : fragments of a Byzantine version of Ovid's amatory works.
これ、ほんとにそう思う。先日、70近いIT企業社長と話したとき、ご専門でもないのに、インフラ系の最新動向から機械学習・ディープラーニングの本質についてまでよく理解されてて、継続的な勉強の大切さをあらためて思い知った。
https://twitter.com/shikichee/status/1014821691493699584
新しい技術に対応していくか否かは個人の自由だけども,対応できずまたする気もない人に限って色々権力のあるポジションに就いているので,表面化しない形で下の人間が不便・不合理を被らされるケースは多い…
Biblioteca Medicea LaurenzianaのDigital Repositoryが長らくメンテ中で使いにくい旧版しか提供されてなかったが,復活していたようだ.
http://mss.bmlonline.it/
ET VERTICE (FIGE)RE CRISTAS
[Memo: ウェルギリウス『アエネーイス』10巻701行(M=Mediceus Laurentianus lat. plut. XXXIX, 1, 185r; 5世紀頃).行間にFIGEの修正が見える.直前のTICEがFIGEと見た目上似ているので飛ばして写してしまったものと思われる]
このもう3行後(Aen.10.704)でpr(a)egnansというMの読みにMˣでpraegnasとなっている旨G.B.Conteの新しいTeubner版では報告されているがちょっと確認できない.
プロメーテウスが人間のためにしてやった発明の中で「数」と「文字」は並べて挙げられている.
καὶ μὴν ἀριθμόν, ἔξοχον σοφισμάτων,
ἐξηῦρον αὐτοῖς, γραμμάτων τε συνθέτεις,
μνήμην ἁπάντων, μουσομήτορ' ἐργάνην.
更にまた数――工夫のうちでも至高のもの――を
彼らのために案出してやった.それから詩(ムーサ)を生み出す匠なる,
全てを記録する文字を組み合わせる技術もだ.
『縛られたプロメーテウス』459-461行
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論文の要約とかをざっとフォローするみたいな作業を最近あまりしていなかったので気になったあたりをl'annee philologiqueから眺める.
Gaerner, J.F.(2014), `Law and Roman Comedy', in The Oxford Handbook of Greek and Roman Comedy, 615-633.
ギリシアの法律の翻案とプラウトゥスやテレンティウスにおける法律用語の用い方に着目.
Karakasis, E.(2003), `Legal language in Plautus with special reference to «Trinummus»', Mnemosyne Ser. 4 56(2): 194-209.
プラウトゥス『三文銭』(Trinummus)に特に焦点を当てて,詩人が当時の法律用語や実践を自らの喜劇の目的に合わせてどう用いているかを考察する.婚姻解消に関する言及を検討した後,mandatum, sponsio, dosというこの劇の中心になる3つの法的問題を取り上げる.
Carey, C.(2000), `Comic Law', Annali dell'Università di Ferrara. N.S. 1: 65-86.
アリストパネースの喜劇に繰りかえし現れる法律用語や主題が,法律への懐疑的・敵対的な態度を表すものであること,そうした態度が一部では喜劇というジャンルに相応しい奔放で祝祭的な雰囲気から,他方では同時代のアテーナイの社会的状況から説明される.
Nuti, A.(2010), `Having something that you don't own : «apud» possessive constructions in Latin and a comparison with locative possessive sentences in Irish', Studies in Classical Linguistics in Honor of Philip Baldi, Leiden, Brill: 57-74.
ラテン語では所有は普通habeo hoge《私はhogeを持っている》やmihi est hoge《私にはhogeがある》で言うが,プラウトゥスやキケローあたりにはapud me est hoge《私のところにhogeがある》式の表現も見られる.この偶然的な,法律上のものではない所有を表す言い方についての研究.apudを用いるとlocative的な表現をすることになるが,今日のアイルランド語でも同じような意味合いで同種の表現をするらしい.
なんか「大地にくまなく敷物を拡げることはできないが靴を履けば同じ効果が得られる」というような趣旨の格言を読んだ記憶があるがどこでかしらん
あったあった『ヒトーパデーシャ』だった.
「心の満てる者にとり,
すべては幸に充ち充てり.
靴を穿きたる足にとり,
大地は革もて覆われつ.」
(岩波文庫,金倉・北川訳.p.59)
これenim単独の話と考えずenimveroも含めるとなかなか難儀な話になってくる.
enimveroは大抵文頭にくる(遅れることももちろんある)もので,明らかにenim + veroだから二語にわかち書きするとenimが文頭にくることになるケースが増える.
コリントの信徒への手紙2(12.4)にあるἤκουσεν ἄρρητα ῥήματα ἃ οὐκ ἐξὸν ἀνθρώπῳ λαλῆσαι《人間には口にすることのできない言い表しえない言葉を聞いた》もoxymoronだ.#rhetorica
個々最近何度かラテン語学関連で名前を出しているフランスの言語学者アントワーヌ・メイエの『ヨーロッパの言語』は去年の秋に岩波文庫に入っている.結局持ってないので今度買う.|ヨーロッパの言語 - 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b309287.html
@plinius
原書が1928年で結構前なので「何故今これを?」と最初思ったのですが紹介文を見ると社会言語学の先駆けと位置づけているようでなるほどという感じですね(比較言語学に比べると此方はずっと新しい分野ですから).
姿勢が悪いので座ると却って疲れるのと書棚との頻繁な往復があるので立ち机いいなーという気持ち(なお置ける場所はない)
メール,事務的なものでも疲弊するのに,専門的知識を要する問い合わせへの対応となると時間に羽根が生えて飛んでいく🤔
恋声チャレンジ非適合者と明らかになった場合には悲しみのあまりもはや人間の姿をとどめていられなくなりそうなので二の足を踏む
古代文学における盗み・剽窃の研究っていうのもなかなか面白そうなテーマではある
このあたりの話はThill, A.(1979), Alter ab illo : recherches sur l'imitation dans la poésie personelle à l'époque augustéenne, Parisにいくらか書いてあった(読んだのが結構前なので手許にメモしか残っていない).
この本の最初の方にはラテン文学における「模倣imitatio」の顕著さ・重要性,それが辿った諸段階についてよくまとめてあった筈.
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ここすき “仕事している上でそんなに利用しないだろうという判断のものだが、笑顔と困っている顔に制限されたアバターで勤務するのはだいぶディストピアっぽい” https://mzp.hatenablog.com/entry/2018/07/12/115644
ギリシアというおよそ何の分野についても圧倒的な先達を前にしていわば「永遠の二番手」であることを強いられてきたローマの文学が「模倣imitatio」に対して見出していた意味の大きさはなかなか俄には捉え難いものがある.
週末Pleromaチャレンジやるか,来週以降はもう土日がうごけなくなっていくので.
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サラッとすごいこと書いてある……「追い出し、追い込み、ぶら下がりはみなさん普通に使っています。どの本にもあります。でも僕は廃止するようにしています。句読点が行頭に来ないように書けばいいだけですから」|京極夏彦氏が一挙公開、ルビと禁則処理の法則 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53512
お土産をもらうと「旅先でわざわざ…」とありがたいと同時に,自分がどこかへ出かけることが滅多にない上に出かけるときはこの世の終わりのような気持ちで行くので何かお土産を買って帰るみたいな余裕がなく申し訳ない気持ちになる.
池田亀鑑『古典学入門』復刊したのでもう持ってるけどもう1冊買うか(不可解な発言)
https://www.iwanami.co.jp/news/n25556.html
この前半蔵門線乗ったとき思ったけどアルファベットで書かれると謎のギリシア語っぽさある(Hanzomon, Ἁνζὠμων)
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doneとかいっといて今入ろうとしたらログインできなくなっておる.パスワード間違えたかと思ってgenerate_password_resetしたらどうもデータベースに繋げなくなってるっぽい.
ふーむ,もう1個アカウント作ってみたがやはりログイン周りがおかしい.一回停止しといたほうがよさげか.
眼球はよく使うものなんだからもう1セットくらいつけてくれても良かったと思います
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ふむっ|女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56526
サーバにリソース制限がかかってしまったため一時的に停止していました.
一応回復しましたが色々カツカツなので何らかの対応を考えなくてはね…
普通にdocker-compose upするとエラーが出て止まるのでsudo service docker restartしてからだと一応通ったんだけどmastodon_redis_1がRestartingのままうんともすんとも言わなくなったので色々迷走してた.
このケース(https://codenote.net/vm/docker/3622.html )はmastodon_web_1で問題が発生したというものだけど概ね同じ方法で対処できた.
否定辞のうちοὐの系列は「否定ἀπόφασις, ἄρνησις」μήの系列は「禁止,拒絶ἀπαγόρευσις」で説明されている.
https://archive.org/stream/dionysiithracis01merxgoog#page/n198
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あとで読む|
百合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー|Hayakawa Books & Magazines(β)
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
正確には、追加の教育が必要ないほど高度な専門性と教養を備えて、さっさと趣味に生きたい
Possanza, M.(1990), `The Text of Lucretius 2.1174’, Classical Quarterly 40.2: 459-464.
nec tenet omnia paulatim tabescere et ire
ad capulum spatio aetatis defessa uetusto.
そして全てのものが少しずつ衰えて,生涯の長い期間に
疲れ果てて墓場へ向かうということを理解しない.
今日ad capulumというVossiusの修正案が受け入れられているが,写本の「破滅(lit.岩礁)へとad scopulum」を保守しようという議論.実際Vossiusの案がHavercampによって取り入れられるまでは難船の比喩から「岩礁scopulum」が「破滅,死」と理解できるというLambinusの解釈などもあった.
Vossius案を支持する人の根拠として,capulumからscopulumという珍しい方から一般的な方への変化(Q写本の修正前は実際copulum)という古文書学的な議論と,ad capulumの方が詩的で文脈にも合っているという議論の二つがある.
しかし実はOやQでしばしばcの前のsが落ちる誤記が見られる(Merrillが多くの例を集めている)こと,さらにOとV(scopullum)の一致はそれらの派生元の写本でもscopulumであったことの証左と考えられることから前者の議論は揺らぐ.
意味の点ではscopulusを比喩的に「破滅,死」として使う例はラテン文献に広く見出せる(特にCic. de orat. 3.163でこの用法にコメントがある)ほか,文脈の点でも,単なる一生物ではなく世界というレベルでの盛衰も意味する文脈であること,「難船naufragium」のイメージのエピクーロス的διάλυσιςとの呼応,さらに「素材の大海materiai tanto in pelago 2.550」のような詩人本人の表現から,写本の読みが詩的にも哲学的にも適切であると結論される.
ズバッとうまい修正案を出すだけが本文批判ではなくて,不当に疑念を持たれてきた伝承本文の正当性を博引旁証と巧みな解釈により明らかにする研究ももちろんある.そういう論文を読むのは楽しい.
誤記や間違いの発生に至る尤もらしいストーリーをいろいろ考えるわけだけど,息をするように間違えまくる我が身を省みるに人間なんの理由もなく間違えるからな…
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いい加減部屋を片付けなくては…
売ったり処分したりはしないが当面のプロジェクトではもう使用しない資料を別の場所に置くようにするのが第一段階かな.
📰 コロッケ+ビールという幸福…!京都地元民の間でひそかに話題の四条河原町「西冨家コロッケ店」がすごく良かった話 - ぐるなび みんなのごはん http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/yulily4638 #京都 #kyoto
Crowi上でMarkdownであれこれ書いたものをローカルに持ってきてPandocでLaTeX形式に変換する.ラクチン!
「埃,塵」などを意味するpulvisが,特に算術や幾何学を行う際にものを書き付ける意味合いで使われる例についてForcelliniの辞書を御覧と言われたので見てみると(s.v. II 3),mathematici in pulvere formas suas describere solebant, ut si quid esset emendandum, delere possent, et rursus inscribere《数学者たちは,何か修正すべきものが出来た場合に消して書き直すことが出来るように,自分の図形を砂地のうえに描くのが常だった》と説明して,アルキメーデースが作図に夢中になってるうちに無名の兵士に殺された逸話を報告するリーウィウス(25.31)の一節が指示してあった.
なおOLDではこの意味は2 cにある.
日本名だとどうあがいても絶対ちゃんと覚えてもらえないので今後一切をギリシア名で統一する機運が高まったが一瞬で消えた
今年入ってからフォロワーと会見する機会がちらほらあるので「はい,私がニーケーラトスです」とかいう謎の自己紹介が発生してしまう.
†記号はうちの分野では校訂不能箇所を示すのに使うのでそれ以外の書物を読んでる時に出てきても一瞬その意味に考えそうになる
s/Gaerner/Gaertner/
Gaertnerの論文は19世紀以来なされてきた研究を手短に見た後,プラウトゥス,テレンティウス,その他の喜劇断片についてもとになった劇にあるギリシアの法制の受容,ローマ喜劇詩人らの扱っている法的な内容・言語について概観するもの.
Trinummusについては,Green, W.M.(1929), `Greek and Roman Law in the Trinummus of Plautus', CPh 24: 183-192というのもあるようだ.
そうか,単純にローマの劇を読めばローマの法について知れると思ってしまったけども,プラウトゥスもテレンティウスも大なり小なりギリシアのいわゆる新喜劇を模倣・翻案しつつ詩作しているわけでそこにはギリシアの法律の取り込みという観点も必要になるのねという気持ち.
少し古いが割りとズバリそのものなタイトルの文献が出てきた.
Costa, E.(1890), Il diritto privato Romano nelle comedie di Plauto, Torino, Fratelli Bocca.
「属人化」とは何か? 整理してみよう ~ 「あえてする」ものなの? 「排除しちゃだめ」なの? https://speakerdeck.com/opelab/20180228-person-dependancy
よく整理されていて面白かった.「みんな人類の非属人化努力の成果の上に生きている」というのはよい言葉だ.
「属人化」とは何か? 整理してみよう /20180228-person-dependancy - Speaker Deck
https://speakerdeck.com/opelab/20180228-person-dependancy
古書を買ったら前の持ち主だった学者がそこここにwrongとかunsuccessfulと手厳しいコメントを書き込んでいてその中に一箇所excellentと記しているところを見つけて感慨にひたるなどしました
ルーカーヌス『内乱』1巻8行(Luc. 1. 8)のquae tanta licentia ferriという何とも訳しにくい表現が大西先生の邦訳では《かくも激しき,何という剣の暴戻》と見事に表現されていて感激した記憶があります.
licentiaは《積極的な自由》というよりも,ちょうど「免許license」が「本来禁止されていることが免じて許されている」ことであるように,《箍が外れて出来る,許可されている》という感じなので否定的なニュアンスを帯びるとこういう感じになるのだと.
一例にカエサル『内乱記』(Caes. Civ. 1. 21. 2)でコルフィニウムを攻略しようとするカエサルは,しかし夜間に占領することを避けるのだけれども,その理由が《兵の侵入と夜という時の放縦さによって町が掠奪されることを恐れた》(veritus ne militum introitu et nocturni temporis licentia oppidum diriperetur)ため,という箇所などが挙げられそう.
この関連でlicentiaの意味の否定的な側面はlascivia《放縦さ》にかなり近づくんでないかと感じていたのだけれども,
nec Agricola licenter, more iuvenum qui militiam in lasciviam vertunt, neque segniter ad voluptates et commeatus titulum tribunatus et inscitiam rettulit. (Tac. Agricola, 5.1)
《アグリコラは,軍務を放蕩に変えてしまう若者の仕方で放縦に振る舞うこともなく,軍団司令官の肩書や自身の未経験を快楽や余暇のために用いる怠惰な振る舞いもしなかった》
などでlicenterがin lasciviamで説明されている辺りを見ると確信に変わってきた.
Poulsen, A.D.(2017), `The Language of Freedom and Slavery in Tacitus’ Agricola', Mnemosyne 70.5: 834-858.
タキトゥス『アグリコラ』は,ローマの支配に抗するブリタンニア側からの叙述とブリタンニアを支配しようとするローマ側からの叙述とが組み合わさってできている.それらが相互にどのような関係にあり影響しあっているかを,タキトゥスが用いている「自由」と「隷従」についての比喩的表現に着目し,認知言語学者ジョージ・レイコフのメタファ理論に基づきつつ分析するという論文.
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「観測範囲が偏っている可能性がある」と思いかけたが,今念頭に浮かんだ人たちは正しく京大生ではなかったな.
https://twitter.com/kamakama2215/status/1023082880820436992
紙に印刷されていた学術的なクリティカル・エディションがデジタル媒体という新しい場を得てどう変わっていくかという話.
過去のエディションは物理的・経済的に限度があるために原典に関して提供できる情報が選択的になってしまっていた(e.g. critical apparatusのような省略的で読むのに専門性を要する形)がその制約から解放されること,公刊されたテクストだけでなく其処に至るまでの階梯までも跡付けて評価の対象となるであろうこと,あたりが特に面白く重要そうな点かな.
DH in Practice: The Transformation of the Scholarly Edition from Print to Screen
https://youtu.be/cKkVCzms-Sk
ただ,「紙幅の都合」と言いつつも,大枠で物理的な制限があることで提供するテクスト批判資料が無限に増えることが避けられていたわけで(実際細かな正書法レベルの異同まで全て記録すればきりがない),何を記録し何を記録しないかということに編者の観点や方針があらわれてもいたのだとすれば,そうした制限がなくなることは必ずしも直截プラスにはたらくばかりではないのかもしれない.
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クリティカル・エディションというのは恣意性を一切排した,何か不動の客観的なものではなくて,編者の「判断」(ギリシア語κρίνωは「判断する,識別する」意味)を不可欠・不可避なものとして成り立っている.
仮に語句に疑問が出たとしてクリックひとつで写本や手稿その他の資料に飛ぶことが技術的に可能になれば,「クリティカル・エディション」というものの意義それ自体も問い直されざるを得ない.
そうしたときに例えば「批評なき批評版edizione critica senza la critica」に疑問を呈し,主観的要素の重要性を強調したミケーレ・バルビの議論はなおも示唆的であると言えそうである.
天野先生退職記念論文集をいただきました.
私も「イタリア文献学と古典文献学の間ーークローチェ,パスクァーリ,バルビの「方法」を巡る問い」という題で寄稿しています.
クローチェ,パスクァーリ,バルビらの間で交わされた1930年代イタリアの文献学を巡る議論についてはこの論文に書いた.
先の論文ではバルビやパスクァーリの議論の射程の広さと,そうした視野をある意味で触発したとも言えるクローチェの論争という,どちらかというとポジティブな側面を取り扱ったけども,あの時代にはナショナリズムに乗って振り切れた人々も居たわけでそういうネガティブな側面についてももっと調べて知っておくべきという気はしている.
figo《固定する》の完了受動分詞としてfictusが出てきているのに遭遇して「あれ,fictusはfingo《形成する》の方では」と思ったが,figoの完了分詞としてよく使われるfixusは類推によるものでfictusの方が本来的な形らしい.
ラテン語の完了受動分詞を作る接尾辞-tusは印欧祖語の*-to-からくるらしく,それならたしかにfigoから規則的に作るとfictusになる.この-to-は歯音の後だと-so-になる(e.g.「sentio感じる」*sent-to > sensso- > sensus )のが他のs完了の動詞でも類推的に適用されることがあり(cf. Weiss 2011: 437-438),おそらくfingoの場合と同形になるのを避けて区別するためにfixusが出てきたのだろう.
こう,「何もせずゴロゴロしてていいよ」って言われたら空調なしでもいけそうだけど何か仕事しようとすると涼しくないと無理.
Ellis, R.(1899), `The Literary Relations of ‘Longinus’ and Manilius', Classical Review 13,6: 294.
https://doi.org/10.1017/S0009840X00080549
『崇高について』第13章の記述とと『アストロノミカ』第2巻序歌における記述の類似(とりわけホメーロスを泉・源流に喩えて捉える点)は偶然のものではないとして,後者が前者を借用したと考え『崇高について』の成立年代を紀元後1世紀初頭かあるいはそれより前に位置づける論文.
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...intravitque animum militaris gloriae cupido, ingrata temporibus quibus sinistra erga eminentes interpretatio nec minus periculum ex magna fama quam ex mala.
そして彼(※アグリコラ)の心には軍事的な栄光への野心が入ってきたが,これは当時(※ネローの晩年に言及している)としては歓迎されないものであった――抜きん出た人物に対する心象が好ましからざるもので,悪評に劣らず好評から危険が生じる時代だったのだ.(タキトゥス『アグリコラ』5.3)
ところでタキトゥス『アグリコラ』は『ゲルマニア』と共に國原先生の翻訳がちくま学芸文庫(1996年)に入っていて,その「訳者あとがき」が非常に印象深い文章ですので少し長いですが引用.
「古典は洋の東西を問わず,俗受けしないし,一時的にせよ流行ったり廃れもしない.古典はいつの時代にも,僅かな,しかし熱心な読者に求められ読み継がれ,幽谷の泉の如く訪れる旅人の喉を潤してくれる.
「しかし古典を読み始めると,静かな孤独の書斎が俄に賑わってくる.ギリシアやローマの古典の場合,今世紀初頭からの,運のよいときは十九世紀の西欧の碩学の御来駕を仰ぐこともあり得るのである.
「数種類の校訂本,註釈本,訳書を手許におき,難解,疑義の教えを乞い,多様の解釈に驚き,同じ見解に安堵し,軽率な読みを窘められながら諸学者と対話していくとき,古典を読む醍醐味が味わえる.このような諸刊本の比較考証を書き留めた註記は,一般の読者に無視されて当然であろう.しかし読者の中に西欧の対訳叢書の一冊と拙訳を比較しながら読まれる方のあることを心の中で願っている」(pp.249-250)
「彼らはそもそも覚える気がありません」
LaTeXに限らずさまざまなことについて言えそうで引きつった笑いが出る…
https://twitter.com/h_okumura/status/1023785636203905025