レオパルディ『古代人に共通の錯誤について』第1章の試訳|
https://www.stromateis.info/interpr/Leopardi/Err_Pop01.html
レオパルディ『古代人に共通の錯誤について』第1章の試訳|
https://www.stromateis.info/interpr/Leopardi/Err_Pop01.html
Zibaldoneの翻訳にあたっては,イタリア語以外(希,羅,仏等々)の引用が多数含まれそれらをどう処理するかという問題,またイタリア語と英語との間に一対一の対応は当然存在しないが,レオパルディ自身の語彙体系も必ずしも一貫しているわけでないために訳語選定に大変な苦労があった.
電子版の方は全文を対象に検索がかけられるほか,対応する手稿の画像も見られるようになっていてとても便利.欄外から付け足された箇所,取り消されたり置き換えられた箇所は色分けされていて見やすい.また文献表にはレオパルディが所蔵していた本の情報も載っていて,インデックスも充実している.
https://twitter.com/ncrt035/status/863707889315098624
若きレオパルディがフォルチェッリーニのラテン語辞書を好んで読んでいたという話は「おおっ」と思うものがありましたね.彼の文献学者としての活動に興味があったら是非読まれたし,とティンパナーロの名前も出されていました(持ってるんだけど読むのをサボっててゴメンナサイ……)
https://twitter.com/ncrt035/status/863710196828221440
『古代人の錯誤…』について,《解放への欲求を表す》(esprime il desiderio di liberazione)作であるという評が印象的でした.
古代人の持っていたような詩的想像力は真理によって破壊されてしまうという悲観主義にばかりついつい眼が向いてしまっていたが,厳しく閉塞的な家庭環境の中で,レオパルディが「逃避」した先が古代世界であったという面も考えておかなくてはいけない(+レオパルディの形成における教会の重要性も忘れてはいけない).
あと,この作品はまだちゃんとしたエディションがないらしい.うちのサイトに載せた試訳はI meridiani所収のものに基づいて作ったのだけれど,註を見るとテクストは1940年のFlora版にから再録とのこと.
https://twitter.com/ncrt035/status/863711836582985732
そういえばこのとき書かなかったですがレオパルディを題材にした映画Il giovane favolosoはD'Intino先生もお勧めしておられました.
https://it.wikipedia.org/wiki/Il_giovane_favoloso
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都会と地方というと,この前ギリシア数学史の斎藤先生の講演でチラッとそんな話にもなった.
アルキメデスがシュラクサイから当時の学問の中心地アレクサンドリアへ証明を送る際に,定理だけを先に送り他の人が証明を試みるのを期待したが,期待に反して誰も証明をしない(できない)ので,わざと間違った定理を送ったりもしたということから,アレクサンドリアの学者たちへの対抗意識か? というような話(厳密に論じるというよりカジュアルな論題).
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@ncrt035 古代ギリシアの数学者の出身もいわゆる中心地の人は少ない.
また現代のギリシア数学研究者も北米・欧州(+アラビア語圏)に占められているが,なかでもデンマークやハンガリーといった小国出身者に優れた学者が目立つのが面白い,とも.
この一方で非dockerでMastodonもう一個チャレンジしてみたさもあるのでどうしよっか考え中(他に考えるべきことが山積しているのでは?) https://twitter.com/ncrt035/status/968771096010002432
Mahoney, A.(2002), `The Saturnian Lullaby in Pascoli's "Thallusa"', Humanistica Lovaniensia 51: 311-321.
ジョヴァンニ・パスコリ(1855-1912)晩年のラテン語詩『タッルーサ』はキリスト教を主題とする作品.その殆どはhexameterで書かれているが,詩の最後でタッルーサが歌う子守唄はsaturnianという古い時代の韻律で書かれている.現存しているこの詩形のラテン語作品(紀元前3世紀)とパスコリのそれとの違いの検証を通し,両詩形の対照が元来のローマの信仰とキリスト教徒との衝突・葛藤というこの詩の核心を形成していることを論じる.特に韻律的な不規則・イレギュラーが,パスコリの訂正するつもりであった未推敲箇所ではなく積極的な意味を持つものとして解釈される.