ひぇ〜、とうとうキリル文字オンリーワールドに来てしまったようで、恐れおののいていますね。
1963年の地震で部分的に残った鉄道駅の建物を再利用したМузеј на Град Скопје(スコピエ都市博物館)で、ローマ帝国時代からの悠久の歴史を有するらしいСкопје(スコピエ)のお勉強としますね。
1963年のСкопје(スコピエ)地震の時は、Маршал(元帥)と一緒に親分国?の同志も視察に来られたようですね。
Скопје(スコピエ)、明らかにトルコからと思しき観光客が多いですね。
偉大なるΜακεδονικό βασίλειο(マケドニア王国)の偉大なるἈλέξανδρος ὁ Μέγας(アレクサンドロス大王)の末裔を自任する国家で無くても歴史に対する冒涜と言いたくなりそうな風景が広がっていますが、現在のギリシャ共和国の領土に住んでいる人々もはるか北方の森林やはるか東方の草原でウロウロしていた先祖の末裔が多そうですので、五十歩百歩と思われますね。
とはいえ、Скопје(スコピエ)は20世紀はじめまでオスマン帝国の支配下にあったという事実は否定できないようで、Вардар(ヴァルダル川)の北岸には1963年の地震で被害を受けたにもかかわらず低層の建物で再建された旧市街がありますね。
Скопје(スコピエ)旧市街はトルコ料理のお店が目立ちますが、トルコ人観光客と思われる来客が多いカフェに入ってみますね。
Скопје(スコピエ)旧市街のこちらのカフェ(Class Toast Fast food)、Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)ならぬTürkçe Nostalji(トルコノスタルジー)な店内ですね。
Скопје(スコピエ)旧市街のこちらのカフェ(Class Toast Fast food)では、Köfte(キョフテ)とÇay(チャイ)のひとときを過ごしますね。
偉大なるΜακεδονικό βασίλειο(マケドニア王国)の本拠地とされるΘεσσαλονίκη(テッサロニキ)周辺は、Скопје(スコピエ)と同様、20世紀はじめまでオスマン帝国の下、トルコ系などのイスラム教徒や、イベリア半島をルーツとするユダヤ教徒以外に、セルビア王国やブルガリア公国が自民族化しようと働きかけていた民族意識が曖昧なスラブ系のキリスト教徒が多く住んでいたようなんですね。
ギリシャ内戦は、強制同化政策を取るギリシャ政府と、北部に多く住んでいたスラブ系やアルバニア系などの少数民族との戦いの側面もあったようなんですね。
バルカン半島のエルサレムと呼ばれていたらしいΘεσσαλονίκη(テッサロニキ)をはじめ、Скопје(スコピエ)を含めたオスマン帝国内にはイベリア半島をルーツとするユダヤ教徒が多数住んでいたとのことで、えらい立派な建物のМеморијален центар на холокаустот на Евреите од Македонија(マケドニアホロコースト博物館)に入りますね。
Меморијален центар на холокаустот на Евреите од Македонија(マケドニアホロコースト博物館)、入場料の安さのわりに洗練されたインタラクティブな展示が多く(撮影は入口付近除いて禁止)、ルーツであるイベリア半島を含めてホロコーストまでは大変参考になる展示なんですが、特定政府か特定政府を支持する個人や団体の支援があるのか、終わりの方は特定政府礼賛な展示になっていますので注意が必要ですね。
Музеј на македонската борба(マケドニア独立闘争博物館)に入りますが、何といいますか、「マケドニア民族」の物語を何とかかんとかして作り上げようという意思だけは感じることはできますね。
Скопје(スコピエ)は日曜閉まっているスーパーマーケットが多いですので開いているところで買い物をして、生きて宿泊アパートに帰着。昨日大変お世話になったトルコからの男女二人組に偶然お会いしてお茶しましたが、昨日別れた後宿泊予定のアパートが存在しなかった!とのことで4時間路上で過ごし通りがかりの親切な方に郊外のアパートを紹介してもらったとのことで、別れる前に連絡先を交換しておけば良かったですね…
Скопје(スコピエ)の宿泊アパート、料金のわりにえらい快適で外出する意欲が薄れるのと、10月からのどこを回るかの検討ということで、昨日は完全休養日としましたね。
昨日は夕方から散歩ということで、オスマン帝国の支配が終わる直前にアルバニア系カトリック教徒の家に生まれ、オスマン帝国→セルビア王国→ブルガリア王国→ユーゴスラビアと目まぐるしく体制が変わるСкопје(スコピエ)で育ったAnjezë Gonxhe Bojaxhiu(マザー・テレサ)の小さな博物館(Спомен-куќа на Мајка Тереза)に赴きましたね。
Скопје(スコピエ)市内はハンバーガースタンドをよく見かけますが、昨晩は宿泊アパートの近くにあるこちらのお店(Fresh Burger House)で作りたてのハンバーガー&ポテトを美味しく頂きましたね。
今日は近隣都市にお出かけですね。Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)そばにあるバスターミナルから出発するバスに乗り込みますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)に隣接するバスターミナルでは、チケットカウンターでの購入時にクレジットカードが使えるのと、カウンターの一角に両替所があり営業時間が長く便利ですね(バスキャンセルで結構余ったセルビア・ディナールの両替で利用)。
こちらの都市間バスは、すぐに高速道路に入らず、Скопје(スコピエ)市街で止まってこまめに客を拾うようですね。
Скопје(スコピエ)西部郊外から高速道路に入るようですが、アルバニア系イスラム教徒が住むエリアなのか、集落にモスクが見られますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から1時間ちょっとで、Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)市街地の外れにあるバスターミナルに到着のようですね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)のバスターミナルそばには鉄道駅の駅舎がありますが、発着する旅客列車は無いようですね。
国家の威信をかけて?良くも悪くもいろいろな建築が作られているСкопје(スコピエ)と異なり、Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)はオスマン様式からいきなりモダニズムに飛んでいてその中間が存在しないように見えますね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)中心市街地に程近いШарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)に到着のようですね。こちらのモスクは1438年に建てられ、1833年に現在ある建物に建て替えられたとのことですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)、これほどまでに個性的な装飾のモスクは初めてですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)に描かれている都市の風景画、モスクの掃除をされていた方によると、イスタンブール(現トルコ)、コルドバ(現スペイン)、モスタル(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)、プリズレン(現コソボ)を表しているとのことですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)は、猫さんのお食事場所ともなっているようですね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)市街には、1538年に作られたアルバニア方面のスーフィズムであるベクタシュ教団の施設?(Арабати баба-теќe/Teqeja e Baba Harabatit)もありますね。
ひぇ〜、Salomonのクイックレースの靴を何世代か使っていますが、初めて紐が切れてしまい、歩行に支障が出ていますね…
へぅ〜、何とかТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)中心市街地の広場にたどり着きましたので、こちらのおしゃれカフェ(Trenditional House)でハンバーガーの昼食としますが、Северна Македонија(北マケドニア)ではおしゃれカフェでもАјран(アイラン)やТурско кафе(トルコ・コーヒー)を愉しめるようでいいですね。
マケドニア系(スラブ系)よりアルバニア系の住民の方が多いらしいТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)ともお別れですね。中心市街地は溢れる自動車でカオスとなっていますし、大阪府内かと思うほどに横断歩道の白線が消えていますし、うどん県民かと思うほどに横断歩道の歩行者知らんぷりの運転手が多いですので、命の危険を感じつつ横断歩道ステージを次々クリアし、何とか生きて再びバスターミナルまでたどり着けて良かったですね。
へぅ〜、自動車に惹かれず、生きて宿泊アパートに帰着。Скопје(スコピエ)市街には今風のショッピングモールがいっぱいあって、Salomonのブランドを扱うスポーツ用品店もありましたが、心なし日本より高めのような気がしますので、他所のブランドのお店で安めのウォーキングシューズを調達しましたね。
たいへん良く清掃されていて、外出したくなくなるほど快適なひとときを過ごしたСкопје(スコピエ)の宿泊アパートを出発ですね。ただ、新築間もないと思われる物件にもかかわらず、一部箇所が壊れていたり、壁が薄いようで隣室の人の声がよく聞こえていましたね…
Скопје(スコピエ)市内はUKから流れてきたとおもわれる二階建てバスがいっぱい走っていて乗車したかったんですが、Београд/Beograd(ベオグラード)の公共交通運賃支払いアプリと異なり、当地のアプリはなぜゆえか電話番号の登録を求めてきて、楽天モバイルはローミング外ですし他にSMS送受信可能なSIMがありませんので断念しましたね。
今日はМЖ(マケドニア鉄道)の旅ですね。1963年スコピエ地震後の復興都市計画において、丹下健三氏によるマスタープランの数少ない実現例であるЖелезничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から出発しますね。
同じ丹下健三氏による旧香川県立体育館と同じく、メンテナンスがされず廃墟化が著しいですが、違うのはЖелезничка станица Скопје(スコピエ中央駅)の方は未だ閉鎖されずに使われていることですね…
マケドニア民族の高揚のために作られる?変な建物や変な銅像に費やす費用の一部でも、公共交通の高揚のために充てられないんですかねえ…
乗車中のМЖ(マケドニア鉄道)の列車、トイレが閉鎖されているようで、JR四国さまの普通列車と同じく、ヴィンテージな?駅のトイレで済ませねばならぬようですね…
平原に出てきたようですが、ハンガリー平原あたりと比べて、ほったらかしの土地が多いような気がしますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から約4時間程度でЖелезничка станица во Битола(ビトラ駅)に到着のようですね。
へぅ〜、重い荷物の下敷きにならず、生きてホテルにチェックイン。宿泊料金の安さで選んだようなものですが、鉄道駅やバスターミナルからはちょっと遠いですね。
涼しくなったとはいえ10月に入ったばかりで陽射しは未だ強いのに、もう樹木が紅葉しかかっていて、脳がバグりますね。
Битола(ビトラ)、1912年までのオスマン帝国統治期にはバルカン半島支配の拠点としてСкопје(スコピエ)を上回る人口を有していたようで、街路が曲がりくねった昔ながらの市街が広大ですね。
Битола(ビトラ)市街、19世紀から20世紀前半に建てられたと思しき洋風の家屋が点在していて、昨日訪問したТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)とは明らかに異なりますね。
Обединета Македонија(統一マケドニア)主義者のお宅なのか、Северна(北)が付加される前のかつてのМакедонија(マケドニア)で一時期国旗として使われていたСонце од Кутлеш(ヴェルギナの太陽)を掲げているようですね。
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の南の方に来ますと、偉大なる?古代マケドニア王国の領土に入ってくるようで、Александар III Македонски(アレクサンドロス大王)のお父上のФилип II Македонски(ピリッポス二世)の頃に建設された古代都市の遺跡であるХераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)に到着のようですね。
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)、劇場がきれいに復元されていますが、出土された中世初期の様子を見ますと劇場が宅地化?されていて、いかにも文明の崩壊といったところですね。
Хераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)初期に建てられた大聖堂のモザイクが売りのようで、日本語ソースでは敷地に入り放題モザイク踏み放題とのことでしたが、少なくともモザイクについては進入禁止のようですね。
Хераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)は犬さんや猫さんの憩いの場となっているようですが、彼らについては敷地に入り放題モザイク踏み放題なんですかねえ…
1847年にオスマン帝国の陸軍士官学校(Manastır Askerî İdadisi)として設立された建物を利用した博物館(НУ Завод и Музеј Битола)で、オスマン帝国統治時期にはManastır(マナスティル)と呼ばれヨーロッパ各国の領事館が置かれたことからKonsoloslar Şehri(領事の街)とも呼ばれた当地Битола(ビトラ)の歴史のお勉強としますね。
おやや、Битола(ビトラ)のこちらの歴史博物館(НУ Завод и Музеј Битола)、オスマン帝国の建物を利用しているのに、中世からいきなり19世紀後半のマケドニア民族云々に飛んでいて、オスマン帝国は完全スルーのようですね…
オスマン様式に由来する当地の伝統建築に関する展示が充実しているのに、オスマン帝国については完全スルーのようですね…
政府の出資を受けているのか、ここだけトルコ共和国が乗り移ったかのような、オスマン帝国陸軍士官学校(Manastır Askerî İdadisi)卒業生であるMustafa Kemal Atatürk(ケマル・アタチュルク)のコーナーがあるのに、オスマン帝国については完全スルーのようですね…
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の博物館において、Маршал(元帥)はお約束の登場人物のようですね。
Битола(ビトラ)の中心市街地にある南北約1kmの歩行者天国(Широк Сокак)、トルコ語(Şirok Sokak)で広い通りを意味するようですが、かつてはМаршал(元帥)の名前を冠した通りだったようですね。
Битола(ビトラ)の歩行者天国(Широк Сокак)、19世紀〜20世紀前半の豪華絢爛な洋風建築が断続的に建っていて、昨日のТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)とは全然違いますね。
今は取り壊されてしまったのもありますが、Битола(ビトラ)の古の映画館はえらい魅力的ですね。
オスマン帝国統治時期にKonsoloslar Şehri(領事の街)とも呼ばれたБитола(ビトラ)、現在でも10か国程度の領事館が現役で存在しているようですね。
いやはや、Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の鉄道を利用するついでに一泊ということで訪問したБитола(ビトラ)でしたが、エモい建築がいっぱいで全然見足りませんね…
パルチザンの襲撃に倒れず、生きてホテルに帰着。オスマン帝国統治期のБитола(ビトラ)は、陸軍士官学校以外にも、トルコ語やギリシャ語、ブルガリア語やルーマニア語など、各言語の学校が集まる地となっていたようで、かつてのトルコ語学校がМаршал(元帥)の名前を冠した地域の名門高校(СОУ „Јосип Броз - Тито“ - Битола)になり、未だそのままの名前で君臨しているようですね。
Битола(ビトラ)の方は地域猫活動ならぬ地域犬活動が盛んなのか、耳に何か付けている犬さんが多いですね。
Битола(ビトラ)はТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)ほどでは無いですがアルバニア系の住人が多く、オスマン帝国統治期末期にアルバニア語の正書法を決める会議の舞台になるなどアルバニアの歴史上重要な都市のようで、オスマン帝国の有名な建築家ミマール・スィナンによって作られたモスク(Ајдар Кади Џамија)もアルバニア系イスラム教徒によって現役で使われているようですね。
オスマン帝国統治期のバザールに由来する伝統市場(Градски Пазар)に来ましたが、もう少し遅い時間帯に来た方がいいんですかねえ。
Битола(ビトラ)、目抜き通りのШирок Сокак(シロック・ソカック)だけでなく、Стара Чаршија(スタラ・チャルシヤ)の建物もまた魅力的ですね。
Битола(ビトラ)のСтара Чаршија(スタラ・チャルシヤ)の朝早くから営業している老舗と思われるレストラン(Гостилница Бриони)で朝食を頂きますね。
慌ただしくБитола(ビトラ)市街の宿泊ホテル(Хотел Булевар)をチェックアウトしますが、もう1泊すれば良かったですね…
バスターミナルから宿泊ホテルまで結構遠かったですので、宿泊ホテルの人に呼んでもらったタクシーでバスターミナルワープして、都市間バスに乗車しますね。
Битола(ビトラ)のバスターミナルから約1時間30分でОхрид(オフリド)に到着のようですが、Битола(ビトラ)のと比べますとえらい新しいターミナルですね。
他国行きの都市間バスは、Охрид(オフリド)バスターミナル周辺のバス会社の建屋で買わねばならぬかと思いましたが、ターミナル内のカウンターで購入できるようで良かったですね。
猫さんに見とれて自動車に惹かれず、生きてОхрид(オフリド)中心市街地に程近い宿泊レジデンスに到着ですね。
Битола(ビトラ)と異なり、Охрид(オフリド)はハイパー一般的な観光地のようで、欧米系団体観光客を見かけますね。
偉大なる古代マケドニア王国のフィリップ2世によって作られたと主張されていて、これまた偉大なるОхрид(オフリド)を拠点とするСамоилово Царство(サムイル王国、ブルガリア視点では第一次ブルガリア帝国)のСамоил(サムイル王)によって現在の形になったと主張されているСамоилова тврдина(サムイル要塞)に来ましたが、20世紀初めの写真を見ますといかにもオスマン帝国な雰囲気の要塞で、今世紀になってからの修復で上部のギザギザが付加されているようなんですね。
Самоилова тврдина(サムイル要塞)、輝かしき時代に合わせて修復された?上部のギザギザのおかげで景色が見にくいですね…
Самоилова тврдина(サムイル要塞)、予算が足りないのか、上部のギザギザが復元?されていないところがあったり、要塞内部はほったらかしのようですね。
古代マケドニア王国から?の悠久の歴史を有するОхрид(オフリド)は、中世には正教会が林立し、キリル文字が発明された地と言われるなどバルカン半島における文化の中心地になっていたようですが、オスマン帝国の時代には一時期キリスト教徒が激減し正教会が廃墟となっていた時期があったようですね。
Охрид(オフリド)の大聖堂の遺跡であるПлаошник(プラオシュニク)に到着のようですね。
Охрид(オフリド)のПлаошник(プラオシュニク)、Битола(ビトラ)の都市遺跡Хераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)と同じく、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代のモザイクが発掘されているようですね。
Плаошник(プラオシュニク)の一角にあるЦрква Свети Климент и Пантелеjмон(聖パンテレイモン修道院)、どうもオスマン帝国時代に廃墟になった後に同じ場所に建てられたモスク(İmaret Camii)が取り壊され、2002年に輝かしき時代に合わせて?復元されたもののようですね。https://kulturenvanteri.com/tr/yer/imaret-camii-ohri/#17.1/41.112461/20.790924
https://x.com/karatasgokhan_/status/1109133587620786178
Плаошник(プラオシュニク)の一角にあるモスク建設の助成者であるSinan Çelebiの墓だけが、オスマン帝国時代の唯一の痕跡のようですね。
Охрид(オフリド)のСвета Софија(聖ソフィア教会)もオスマン帝国時代にモスクになっていたようですが、廃墟になった時期が無く取り壊されていないのと、スルタンの御慈悲かイスタンブールと同じくフレスコ画を蹂躙せず白く塗って保護したおかげで?現在でも古めかしいフレスコ画を拝むことができますね。
Охрид(オフリド)の旧市街、Eskişehir(エスキシェヒル)のようなオシャレリノベーションオスマン様式の街並みを想像して来ましたが、新築も混ざっているような気もしますが建物がえらい高いですね。
ややっ、お昼を食べていなくお腹ペコペコですので、Охрид(オフリド)旧市街のレストランに入りますが、国際観光地なのにクレジットカードアウトで現金のみとのことで困りましたね。
Охрид(オフリド)旧市街のこちらのレストラン(Вива Ксантика кај Танја)、観光地のど真ん中なのにお手頃価格で、手持ちの現金でСеверна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)のお豆のスープであるТавче гравче(タフチェ・グラフチェ)とギリシャやトルコなどの周辺諸国にもあるМусака(ムサカ)を美味しく頂けてしまいましたね。
犬さんに見とれて自動車に惹かれず、生きて宿泊レジデンスに帰着。Охрид(オフリド)の夜景は美しいですが、ライトアップはもうちょっと慎み深く出来ないんですかねえ…
身体がGaziantep(ガズィアンテプ)を求めているのか、Охрид(オフリド)旧市街北部のイスラム教徒向けのお店が多い通りにAntepというお店を見つけ、持ち帰りしたバクラヴァの朝食ですね。
Охрид(オフリド)は昨晩から風が吹いていましたが、今日も生ぬるい南風が強く、午後からは風雨のようですね。
昨晩はОхрид(オフリド)旧市街北部のイスラム教徒向けのお店が多い通りに繁盛したレストラン(Ќебапчилница Вкусно)をチェックしていましたので、今日はそちらで昼食としますが、欧米系観光客も入ってくるようですね。
こちらのお店(Ќебапчилница Вкусно)のЌебап(チェバプチチ)、お手頃価格なのに肉がえらいようけ入っている上にえらい美味ですね。
先程のレストラン(Ќебапчилница Вкусно)のお向かいにトルコオーラを放つお店(İstanbul Çay Ocağı)を見つけ、午後のチャイとしますね。
1912年バルカン戦争の結果、Охрид(オフリド)周辺を含めオスマン帝国領土に住んでいた多くのトルコ系などのイスラム教徒がMuhacir(難民)として現在のトルコに避難したようですが、Охрид(オフリド)ではトルコ系の人々が少数民族として暮らし続けているようで、トルコからの旅行者がトルコ系店主のチャイ店(İstanbul Çay Ocağı)に集っているようですね。
今日も猫さんに見とれて自動車に惹かれず、生きて宿泊レジデンスに帰着。オシャレリノベーションされた家屋にも住んでいる人がいるようで、おっさんの歌声が聞こえてきますね。
今日も今日とて、Охрид(オフリド)にお住まいの犬さんや猫さんに見とれて、自動車に惹かれぬよう気をつけねばなりませんね。
今日は朝早くから欧米系団体観光客がОхрид(オフリド)市街に繰り出していますが、皆さん中世の第一次ブルガリア帝国…サムイル王国を栄光の時代に、オスマン帝国の支配を暗黒時代に仕立てたマケドニア民族の物語に耳を傾けているんですかねえ。
Скопје(スコピエ)のみならずОхрид(オフリド)でも多数見かけるトルコ人団体観光客に対しては、オスマン帝国悪者の物語は通用しないと思われますが、どういう説明をしているんですかねえ。
業者が合同して30分〜1時間おきくらいに各港を自由に乗降できる航路を作ればいいのに、各業者がバラバラで似たりよったりのクルージングツアーをやっていて、1日1回朝出発のみ料金が高い上に自由が無いという困った状況になっていますね。
昨晩は雷雨が続いていて宿でパンしか食べていなくお腹ペコペコですので、一昨日訪問して美味しかったОхрид(オフリド)旧市街のこちらのレストラン(Вива Ксантика кај Танја)にまた来てしまいましたね。
Телешка Чорба(子牛肉のスープ)に、トルコではTürlü(トゥルル)と呼ばれているТурли тава(野菜のシチュー)を美味しく頂きますね。
今日はユーロ紙幣を携えていますので、アルバニアやトルコではTrileçe(トゥリレチェ)と呼ばれているТрилечеやТурско кафе(トルコ・コーヒー)も美味しく頂きますね。
一般的な観光地とはいえ、高台からの眺めがいいですし、湖の透明度は抜群ですし、各種トルコの食べ物飲み物を頂けますし、猫さんはいっぱいいますし、Охрид(オフリド)はいいところでしたね。
Сонце од Кутлеш(ヴェルギナの太陽)の旗がはためくОхрид(オフリド)の住宅街にある宿泊レジデンス(Резиденција Крстаноски)をチェックアウトですね。超破格な宿泊料金なのに部屋は清潔で、別棟ですがキッチンがあってお外で食べられますし、洗濯機も有料ですが使わせてくれますし、長期滞在にもいいかと思われますね。
Охрид(オフリド)のバスターミナルから、何の前触れもなく運休にならずにちゃんとやって来たこちらの都市間バスに乗車しますね。
北方のセルビアや東方のブルガリアは政府や正教会がスラブ系の人々を我が民族にしようと工作してきましたし、南方のギリシャは栄光なる古代ギリシャの領土を取り戻そうとしてきましたし、西方は西方で言語が全く異なるアルバニア系の人々が我が領土を求めてきましたし、そもそもスラブ系の人々がマケドニア民族としてユーゴスラビア政府に認定されて正書法や独立した正教会が作られたのが第二次世界大戦後ですし、同情できなくはないですが、Скопје(スコピエ)に変な建物や銅像をいっぱい建てて公共交通ターミナルをほったらかしにしたり、地方都市の博物館に少数民族の展示がほぼ無いなど余裕の無さを感じましたね。
入国を拒否されて荷物と一緒にバスからほっぽりだされず、生きてСеверна Македонија(北マケドニア)からShqipëri/Shqipëria(アルバニア)に入国できたようですね。
乗車中のバスは山中のロードサイドカフェに入り、運転手はテラス席で暫しコーヒーのひとときを過ごすようですね。
目的地間近だというのに、乗車中のバスはまたロードサイドのお店に入り、運転手のコーヒーのひとときかと思いましたが、ちょうど目的地方面から同じ会社のバスがやってきて、そちらのバスでСеверна Македонија(北マケドニア)に帰るようですね。
ということで、乗車のバスはTerminali Lindor i Autobuseve Ndërqytetas(ティラナ東バスターミナル)に到着のようですが、郊外型ショッピングモール(Tirana East Gate)のそばのようで真新しいですね。
ややっ、無神国家の時期があったせいかは不明ですが、神の御心に従わず、ぼったくり手数料を取る銀行ATMばかりですので、ショッピングモール(Tirana East Gate)内の両替店でこれから乗車する路線バス代+αの現地通貨ALLを手に入れますね。
他所のヨーロッパ諸国の都市では、NFC対応のスマホでタッチ決済とか、独自のスマホアプリでチケットを購入してカード決済とか、スマホ時代に対応した公共交通運賃支払いを実現しているのに、一国の首都だというのに運賃収受員が車内を回って現金支払いオンリーとか、何時の時代のヨーロッパなんですかねえ…
Tirana/Tiranë(ティラナ)の夜の街に消えず、生きて宿泊アパートに到着ですね。Terminali Lindor i Autobuseve Ndërqytetas(ティラナ東バスターミナル)では旅行会社巡りをして次の目的地行きのバスを予約しましたが、女性による呼び込み攻勢が激しく?何時の時代のヨーロッパなんですかねえ…
昨晩は降車したバス停に程近い24時間のビザ…ピッツァやさん(Bar Pizza Paris)で夕食を摂りましたが、Tirana/Tiranë(ティラナ)都心の一等地なのに日本のぼったくり米帝ピザよりかなり相場が安い上にえらい生地が美味しいですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)は、トルコのパイ生地のパンであるBörekのShqipëri/Shqipëria(アルバニア)バージョンのByrek(ビュレック)のスタンドが多いようで、こちらのスタンド(Furre Buke Thethi)で持ち帰りしたので朝食としますね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)は昨晩から断続的に雷を伴うにわか雨が降っていますが、神の御心に従った銀行ATM(または神の御心に従った両替所)と昼食を求めて市内散策としますね。
アルバニア系住民が多数の北マケドニアのТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)である程度覚悟はしていましたが、Tirana/Tiranë(ティラナ)の道路交通のカオス度は更に上回っていて、一うどん県民でも横断歩道を渡るのに苦労しますね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)は、1912年バルカン戦争を経てShqipëri/Shqipëria(アルバニア)として独立した直後には人口1万人程度しかいなく、その後の都市計画により旧市街は存在しないに等しいですが、オスマン帝国時代に建てられたこちらのモスク(Xhamia Et'hem Bej)は無神国家時代にも取り壊されず今も残っているようですね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)のШарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)もですが、アルバニア系のモスクは装飾が美しいですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)のビザンツ帝国〜オスマン帝国時代の要塞(Kalaja e Justinianit)は壁だけ残っているようで、内部はオシャレ飲食街のようですね…
現金が足りませんので、クレジットカードで食事ができる場所を求めて、真新しいショッピングモール(Qendra tregtare Toptani)の地元民が食事しているブッフェに入りますが、こちらに来ている皆さんは富裕層なのか結構高いですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)中心部の真新しいショッピングモール(Qendra tregtare Toptani)の地下にあるスーパー(CONAD)で、久しぶりにレンジでチンな野菜スープとサラダ用の生野菜を見つけて歓喜していましたらかなり高かったですが、どうもイタリア資本のスーパーのようでイタリア直輸入であることを売りにしているようですね。
クレジットカードでTirana/Tiranë(ティラナ)のハイパー一般的な観光が出来るスポットということで、核戦争に備えた地下壕を改装した博物館(Bunk'Art 2)に行っておきますが、ガイドツアー爆弾を投下されたようで、地下壕の内部は阿鼻叫喚となっていますね…
人間の錯覚は、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)に限らず、独裁の有無に関係なく、長期政権の維持に利用されうるということですかねえ…
へぅ〜、どこかしらの核攻撃により行き倒れせず、生きて宿泊アパートに帰着。今日はぼったくり手数料の銀行ATMしか見つけられず疲れましたが、神はあわれな偶像崇拝者をお見捨てにならなかったか、Tirana/Tiranë(ティラナ)の一等地にレートが良くてかつ手数料を取らない神の御心に従った両替所を見つけましたので、明日のお出かけで途方に暮れぬよう手持ちのEURをALLに両替しておきましたね。
あらためて見ますと、発想が平将門の墓とそっくりですね… https://social.vivaldi.net/@tecogonaz/113270017574077583
偉大なる中華民族の国家のような中進国における近隣都市の日帰り旅行は、経験上行きはよいよい帰りがこわいことが多いですので、早めに起きて出かけますが、Tirana/Tiranë(ティラナ)市内は昨日からの雨は止んだようで良かったですね。
Google Mapsさまのご啓示に従い、バス停のマークしか存在しないバス停で一昨日とは異なるバスターミナルへの路線バスを待ちますが、一昨日の路線バスとは異なり、系統番号の表示が全く無い車両がやってきますね…
運賃収受員の言う通り、乗車した路線バスはTerminali i Autobusave të Jugut dhe Veriut(南&北バスターミナル)というよく分からない名前の国内都市向け都市間バスターミナルに到着しましたが、ヨーロッパのバスターミナルとは思われませんね…
目的地の掲示があるバスを見つけ、そこらへんにたむろしているおっさんに確認して乗車しますが、バスの変更があるようで移動させられますね…
バスを移動させられた後も延々待たされ、もしや乗客がいっぱいにならないと出発しないパターンでは…と思う頃にようやく出発しますね…
ようやくバスが出発したのはいいんですが、道路の作り的にバスターミナルから直接幹線道路に入れず、一旦別の道を通ってラウンドアバウトで折り返してバスターミナルそばの交差点まで戻らねばならぬようで、渋滞にハマってバスターミナルそばまで戻るのに30分も要してしまいますね… 戻ったところで客を乗せればいいのに、それはしないようですね…
Tirana/Tiranë(ティラナ)のバスターミナルから約2時間30分も要してBerati(ベラト)のバスターミナルに到着ですね。
川沿いに市街が形成されたBerati(ベラト)市内の路線バスは1系統しかないようですが、需要に対して供給が足りないようでバスの車内はハイパー密となっていますね。
Berati(ベラト)、日本語のWebサイトやSNS投稿を見て、限界旅行者御用達の辺境の地という先入観を持っていましたが、公共交通で来るのが大変なだけで、観光バスで来ていると思われる欧米系団体観光客がいっぱいいますね。
へぅ〜、Berati(ベラト)はローマ帝国以前からの悠久の歴史を有しているようで、ビザンツ帝国やオスマン帝国などで使われていた城塞Kalaja e Beratit(ベラティ城)に登ってきましたが、各国欧米系観光客の巣窟となっているようですね。
Kalaja e Beratit(ベラティ城)の城壁内は観光地化されつつも高台集落となっているようですが、皆さんキリスト教徒のようで、モスクはオスマン帝国時代の廃墟しか無いようですね。
Kalaja e Beratit(ベラティ城)への登りでは登山口を見つけられず車道を使いましたが、城と川沿いの旧市街を行き来出来る登山道があるようですので、そちらを下ることにしますね。
断崖絶壁から滑落せず、断崖絶壁からの落石に見舞われず、上空を悠々と舞う鷹さんのブランチにならず、何とか生きて中腹にあるアルバニア正教会を経由して下界にたどり着いたようですが、登山口の案内が全然無く予備知識無しでは登れそうにありませんね。
Berati(ベラト)には、歩行者天国沿いに立地するオシャレなピザ…ピッツェリアのみならず、えらい庶民的な雰囲気の個人経営のピッツェリアもあって、Tirana/Tiranë(ティラナ)より更に相場がおかしいですね。
Berati(ベラト)への行きは怖い怖い…でしたが、Tirana/Tiranë(ティラナ)への帰りは更に怖いかもしれませんので、早々にバスターミナル行きのぎゅうぎゅうのバスに詰め込まれますね…
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)は今回の旅行のメインと外れていますので、欧米系の人にとっては一般的な?観光地と思われるBerati(ベラト)は日帰りで済ませましたが、カフェがいっぱいありますし相場がおかしいピッツァやさんもありますので、慌ただしく観光するよりのんびりしに行くのにいいところかもしれませんね。
Berati(ベラト)のバスターミナルに着いた時に確認していましたが、Tirana/Tiranë(ティラナ)への最終バスは16時ちょうどとえらい早く、他国と同じ感覚で目的地でのんびりしていますと路頭に迷ってしまいますので注意が必要ですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)へのバスの運転手は、他の運転手と一緒にカフェのひとときを過ごしているようですが、いつになったら発車するんですかねえ…
Tirana/Tiranë(ティラナ)へのバスが発車したのはいいですが、路上の人を拾うためか路肩をゆっくり走り、時々路上に知り合いを見つけて扉を開けて話をしたり、なかなか先に進みませんね…
前半の遅れは後半のアグレッシブな運転で取り戻すのかと思いましたが、あちこち警察が張っているようで、Google Mapsに取り締まり情報が表示されますね。
スピード違反で警察に摘発されて他の乗客もろとも路上にほっぽり出されず、何とか生きてTirana/Tiranë(ティラナ)のバスターミナルまで戻ってこれましたので、ちょっと遠回りになりますが、今朝乗車したバスターミナルから一周ぐるっと回るバス系統に乗車しますね。
ややっ、変なところで降ろされてしまいますが、どうも車両交換のようで信号を渡った先に停まっている別の車両に乗り換えなければならぬようですね…
交通事業者の都合で乱暴にバス乗り換えさせられたのに、運賃収受員が再度運賃を徴集するのは納得いきませんね…
へぅ〜、行き倒れせず、生きて宿泊アパートに帰着。Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)の社会はいろいろと問題が多いといえども、市街地は歩行者天国や公園が整備されて人々が憩い、市街でも郊外でもカフェのひとときを大切にする人々が多いようで、羨ましく感じるところもありますね。
郊外の住宅街にある宿泊アパートの至近距離に24時間営業のピッツェリアがあるとのことで、朝うどんならぬ朝ピッツァに来ましたが、店主は24時間勤務で時折意識を失うのか、カウンターに誰もいませんね…
これまで訪問した国と異なり、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)はGoogle Mapsのアルバニア語の口コミが異様に少なく、ピッツェリアの向かい側にも登録が全くないお店があって、年配の人々がカフェのひとときを過ごしているようですね。
ピッツェリアの店主が起きてくる?気配がありませんので、少し歩いてこれまた24時間営業の菓子店(Furrë buke & Pastiçeri A&G)で、朝食になるか昼食以降になるか分かりませんがByrek(ビュレック)を調達しておきますね。
Byrek(ビュレック)を抱えてピッツェリア(La Fortuna)に戻ったところ、店主の意識が戻ったのか?いらっしゃいますので、看板よりちょっと高くなっていますがALL350の相場がおかしいマルガリータを注文して、ALL150のカプチーノを飲みながら待ちますね。
ややっ、こちらのピッツェリア(La Fortuna)のマルガリータ、生地からこねていたのか30分近くも待たされますが、生地が讃岐うどん的というかモチモチしていて味わいがあって、あっという間に消滅してしまいますね。
やはり、Un paradiso abitato da diavoli(悪魔の棲む楽園)と呼ばれているらしいピッツァの本場に行かねばならぬですかねえ… https://social.vivaldi.net/@tecogonaz/113278943997297903
えらい広大で設備が充実していて掃除が行き届いていた宿泊アパート(Brilant Apartament)を出発ですね。とはいえ、洗面所の排水管の施工が甘いのか、水が流れると水滴が滴り落ちていて、運用(受け皿を排水管の下に置く)でカバーしていましたね…
おやや、Tirana/Tiranë(ティラナ)では、路線バスの運転手も乗客そっちのけでカフェのひとときを過ごすのかと思いましたが、さすがにカフェのテーブルでは飲まず、車内に紙コップを持ち込んで飲むようですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)もСкопје(スコピエ)に負けず劣らず民族主義的なメッセージに溢れる首都でしたが、セルビアやブルガリアのスラブ系国家がオスマン帝国の領土を侵食してきて、Ниш/Niš(ニシュ)のようにアルバニア系住民の地区を焼き払って追い出したり、オスマン帝国が多宗教多民族共存の国家からトルコ系国民国家に変質してアルバニア系の運動や文化を弾圧したり…という歴史的背景がありますので同情できなくはないんですね。
Tirana/Tiranë(ティラナ)は何もない首都とか退屈な首都とかさんざんな言われようのようですが、高松もそうですがダメな都市かわいさといいますか、ダメダメな中に魅力的な要素があるとそれを愛おしく思ってしまう、そういう都市でしたね。
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)国外向けのTerminali Lindor i Autobuseve Ndërqytetas(ティラナ東バスターミナル)は、統一されたバスチケット売り場が無く、やたらいっぱい並んでいるツアー会社巡りをして予約購入せねばならぬ困ったバスターミナルですが、乗車当日はツアー会社に荷物を預けて併設の郊外型ショッピングモール(Tirana East Gate)でのんびりできるという利点もあるんですね。
バスターミナル併設の郊外型ショッピングモール(Tirana East Gate)は、各国欧米資本やトルコ資本のファッションブランドがテナントとして入っているようですね。
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)のショッピングモールは富裕層向けなのか、相場が高いようですね。
乗車中のバスの運転手はカフェのひとときより運転のひとときを愛しているのか、一回も休憩をとらず、Kosovës/Косово(コソボ)、セルビア的にはСрбија/Srbija(セルビア)に入国するようですね。
ややっ、運転本数が多いのには罠があったのか、市街のバスターミナルではなく、高速道路を出たところでほっぽり出されてしまいますね。
タクシーの運転手と料金トラブルになって見知らぬ山中にほっぽり出されず、生きてPrizren/Призрен(プリズレン)旧市街のゲストハウスに到着ですね。タクシーに同乗した地元の男性のご親切により、バスターミナルでなく宿泊ゲストハウス近くの路上までタクシーを案内下さり、なぜ故かグーパンチでお別れしましたね。
Prizren/Призрен(プリズレン)では、普通に馬さんが運搬手段として使われているようですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)の一角に、JICAからの贈り物が展示されていますね。
今日はAutobuska stanica Prizren(プリズレン・バスターミナル)から都市間バスの旅ですね。こちらのバスターミナルは、番線ごとに行先が記載されていていいですね。
下道をチンタラ走る都市間バスのようですので、適当な路上で人を乗せるようですし、適当な路上で人を降ろすようですね。
今日のKosovës/Косово(コソボ)はあちこち雲が発達しているようで、乗車しているバスも雨に見舞われますね。
Kosovës/Косово(コソボ)、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)と異なり?ヨーロッパ先進国の真似をして、まちなかでは制限速度を落としハンプをいっぱい設置して交通静穏化に努めているようですが、横断歩道で自動車が歩行者に道を譲るかというとまた別の話のようですね…
Prizren/Призрен(プリズレン)のバスターミナルから2時間20分も要して、ようやく今日の目的地であるPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)に到着のようですが、Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)との間に鉄道が通っていて1日2便あるようですね。
Kosovës/Косово(コソボ)、Србија/Srbija(セルビア)のНови Пазар/Novi Pazar(ノヴィ・パザル)と同じくらいか、それ以上に子供&若者が多いような気がしますね。
カトリック教会(Kisha e Shën Katarinës)が見えてきましたが、扉を閉めているようですね。
KFOR(コソボ治安維持部隊)でなく地元警察と思われる検問にパスポート不所持で連行されず、生きてПећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)に到着のようですね。
地元警察によるПећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)の牛さん他もろもろの防衛ご苦労さまですね。
Пећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)では観光バスを見かけますが、よくよく見ますとHISのツアーのようですね。https://tour.his-j.com/02A_10/TI-KLC0019
Пећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)そばを流れる川は清流ですが、下るにつれてだんだん怪しくなるような気がしますね…
Пећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)からPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)市街に戻って、こちらのQebapa/Ћевапчићи(チェヴァプチチ)やさん(Qebabtore Te Zhara)で遅い昼食としますね。
こちらのお店(Qebabtore Te Zhara)には猫さんがいっぱいいますが、どうもQebapa/Ћевапчићи(チェヴァプチチ)を狙っているようで、取られぬよう防衛に励まねばなりませんね。
工事後に大変きれいな歩行者専用道になるのはいいんですが、工事中もちょっとはきれいに出来ないんですかねえ…
Çarshia e Pejës/Пазар у Пећи(ペヤ・バザール/ペーチ・バザール)に来ますと急に木造建築が並ぶ通りになりますが、観光客向けのお土産店やカフェとかで無く、地元民向けの日用品のお店が並んでいて壮観ですね。
Çarshia e Pejës/Пазар у Пећи(ペヤ・バザール/ペーチ・バザール)、1943年イタリア占領時と1998年コソボ紛争時に完全に破壊されているようで、そのたびに木造で復興されたようですね。
Çarshia e Pejës/Пазар у Пећи(ペヤ・バザール/ペーチ・バザール)の裏手の方に行くと、1998年コソボ紛争前からと思われる古い木造建築を少しながら見かけるようになりますね。
ほな、Peja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)のバスターミナルからPrizren/Призрен(プリズレン)に帰りますね。バスターミナルの時刻表にあった最終のバスで帰りますが、時刻表が古くて早々に逝かず時刻通りに発車するようですね。
どうも、名前を言ってはいけないかもしれないあの疫病の変異株が蔓延しているのか、これまで訪問した国・地域と比べて明らかに繰り返し咳をしている人が多く、乗車バスのすぐ前の席でもノー○○○で咳き込んでいる人がいましたので、香港のドラッグストアで購入した減少病毒99.9%を謳うカナダ製の鼻スプレー(VirX)で応急処置をして離れた席に逃げますね。https://virx.hk/
へぅ〜、行き倒れせず、生きてゲストハウスに帰着。日々やっていることではありますが、各種感染症予防のため、帰着後は十分にシャワーを浴び、歯磨き、喉うがい、鼻うがいを念入りに行いますね。
これまで見てきたところでは○○○をしている(かつちゃんと装着出来ている)のはほぼ東アジア系観光客の女性で、極々極々たまに現地の人が○○○をしていてもほぼ鼻出しで、ティラナではN95相当のごついのを装着しているのに鼻出しの人を見かけて卒倒しそうになりましたね…
Kosovës/Косово(コソボ)はアルバニア語圏でありながら、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)のようなイタリアの影響が相対的に少なく、その分オスマン帝国の影響が大きい上に現在もトルコ系住民が少なからずいるとのことで、Prizren/Призрен(プリズレン)のオシャレカフェではアルバニア発祥のケーキであるTrileçe(トリレチェ)にKafja turke(トルコ・コーヒー)の組み合わせを愉しむことが出来ますね。
今日もAutobuska stanica Prizren(プリズレン・バスターミナル)から、昨日と同じ行先&発車時刻の都市間バスの旅ですが、昨日と異なり朝から晴れていますね。
昨日もでしたが、乗車中のバスは、日本語のWebサイトやSNS投稿によりますと小京都とか飛騨高山とか○○宿な風景が広がっているというGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)を通過しますが、果たしてほんまなんですかねえ…
昨日の目的地であるPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)の手前、Deçani/Дечани(デチャニ)で降車しますね。
昨日のПећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)と異なり、地元警察でなくKFOR(コソボ治安維持部隊)が配備されているようで、比較にならないほど警備が厳重ですね。
Манастир Високи Дечани/Manastiri i Deçanit(デチャニ修道院)では、KFOR(コソボ治安維持部隊)にパスポートを押収されてしまいますが、ニセ軍人が紛れていて盗難されぬことを祈りますね。
外部からの手榴弾や流れ弾に倒れず、パスポートをニセ軍人に盗難されて途方に暮れず、何とか生きてПећка патријаршија/Patrikana e Pejës(ペーチ総主教修道院)をあとにしますが、KFOR(コソボ治安維持部隊)による牛さん鶏さん他もろもろの防衛ご苦労さまですね。
お腹ペコペコですので、Deçani/Дечани(デチャニ)から都市間バスでGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)に移動しますね。
オスマン帝国時代に由来するGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のÇarshia e Madhe/Стари пазар(バザール)に到着したようですが、南北1kmに渡るようで、ヨーロッパでは最大と言われているバザールのようですね。https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Bazaar_(Gjakova)
Peja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)の地元民向けの小売店が並ぶバザールと異なり、Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)の北の方はオシャレカフェバー通り?となっているようですね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のオシャレカフェバーバザール?お店にもよるでしょうが、地域・地区の伝統的建造物に流れる思想を理解せず、現代的な要望のみに基づいた익선동(益善洞)な感じのリノベーションに見えなくもないですね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のオシャレカフェバーが並ぶ通りから少し外れると、昔ながらと思われる小売店が点在する通りになりますね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のバザール、南の方は閉まっているお店が多いようですが、この地区の木造建築を事細かに観察したり、建築の思想を垣間見たりできそうですね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)、オスマン帝国時代には銃器や銀細工に代表される各種手工芸品の生産と交易の中継地として栄え、そのことが現在に通じる伝統的な木造建築の厚みにつながっているようですね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のバザールは、一角にあるモスク(Xhamia e Hadumit)もまた美しいですね。
Gjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)では木造の隊商宿が多く作られたようですが、16世紀末期のオスマン帝国時代に建てられた当地で最も古い建物の一つ(Hani i Haraçisë)を改装したレストランで昼食兼夕食としますね。
Peja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)と同じく、1998年コソボ紛争で被害を受けて復元された木造建築も多いらしいGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)ともお別れですね。バザールのオシャレカフェで遅くまでのんびりしたいところですが、幹線なのにPrizren/Призрен(プリズレン)への終バスが18時30分とえらい早いですので、路頭に迷う前に帰りましょう。
乗車バスを間違えて、終バスが出払ったPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)のバスターミナルにほっぽり出されず、生きてPrizren/Призрен(プリズレン)のゲストハウスに帰着。どうも、Trileçe(トリレチェ)にハマってしまったようで、今夜も街角の菓子店で頂いてしまいましたね。
今日も今日とてAutobuska stanica Prizren(プリズレン・バスターミナル)から、都市間バスの旅ですね。首都Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)のバスターミナル乗継で行きますが、首都発だから終バスは遅いだろうという希望的観測はもろくも打ち砕かれそうですので、暗いうちから出発しますね。
Prizren/Призрен(プリズレン)から首都Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)までは高速道路でささっと行ってくれるだろうとの希望的観測はもろくも打ち砕かれ、下道をチンタラ走行し、適当な路上で乗降扱いし、給油ついでに煙草休憩するようですね…
Prizren/Призрен(プリズレン)から下道をチンタラ走り渋滞にはまり、約2時間で首都Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)のバスターミナルに到着のようですね。
Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)のバスターミナルのチケット窓口の人曰く、次の目的地のバスは4番で待てとのことで待ちますが、他の番号の乗り場は頻繁にバスの出入りがあるのに、4番の方は30分待ってもバスが来ませんね…
Kosovës/Косово(コソボ)では、バスの経路上で待って手を挙げれば乗れるというテクニックがありますので、確実に通過するであろうポイントまでと思い歩いていますと、何の目印もないところで目的地へのバスが客待ちしていて、煙草休憩している運転手曰くターミナルには止まらないとのことですね…
へぅ〜、やっとこさ今日の目的地であるMitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)のIbër/Ibri/Ибар(イバル川)南側のバスターミナルに到着しましたが、Prizren/Призрен(プリズレン)から4時間もかかってしまいましたね…
Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)南側のアルバニア系の市街地を歩きますが、街の写真を撮っていますとこれも撮れと絡まれてしまいますね。
Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)南側は1998年コソボ紛争で壊滅的な被害を受けたとのことですで、Peja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)やGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)のような木造建築のバザールは無いようですが、高層住宅が立ち並ぶ中心市街地があるようですね。
KFOR(コソボ治安維持部隊)が警備するIbër/Ibri/Ибар(イバル川)を渡る橋を渡りますね。
セルビア系のIbër/Ibri/Ибар(イバル川)北側では、当然のことながら、セルビア正教会が閉鎖されていたり警察やKFOR(コソボ治安維持部隊)が警備したりしていませんね。
Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)北側の高台には、Jugosllavia/Југославија(ユーゴスラビア)時代の1973年に建てられたSpomenik(スポメニック)がありますが、アルバニア系・セルビア系関係なく炭鉱労働者が協力してファシストに立ち向かった歴史は顧みられぬようですね。https://www.atlasobscura.com/places/mitrovica-miners-monument
高台のSpomenik(スポメニック)は、これまでもこれからも、紛争と分断を見守り続けるんですかねえ…
Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)は、Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)南側だけでなく、北側にもバスターミナルがありますが、外国人に対する案内の分かりづらさは五十歩百歩のようですね…
建物は心なし古めに見えますが、Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)のIbër/Ibri/Ибар(イバル川)北側も活気はありますね。
Србија(セルビア)の食べ物恋しさか、Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)北側にいるうちにこちらのお店(Restaurant Duo Grill)で昼食としますね。幸い、ユーロの現金は使えるようですが、英語は通じませんね。
再び、KFOR(コソボ治安維持部隊)が警備するIbër/Ibri/Ибар(イバル川)を渡って、北側から南側に戻りますが、カフェ客業?の人の多さや耳に何かをつけた保護犬?の多さ、10代の学生グループの生態は、五十歩百歩のようですね。
Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)の南側の方がショッピングモール等の商業集積が多いせいかは不明ですが、Ibër/Ibri/Ибар(イバル川)の橋を渡っている人は結構多いですね。
ということで、近年もIbër/Ibri/Ибар(イバル川)北部でデモに伴う衝突が起きているMitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)ともお別れですね。
Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)〜Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)間の都市間バスは柔軟な?運用が大好きなのか、バスターミナルから中心市街地の歩行者天国のところまで進んで、前方で待っている別のバスに乗り換えさせられますね…
Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)〜Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)間の都市間バスは柔軟な?走行が大好きなのか、渋滞にハマると路肩を走行して前方の自動車を追い抜くようですね…
Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)、幹線道路の交差点をラウンドアバウトで処理しようとするのも微妙ですが、それ以前に鉄道や路面電車、BRTなどの中量〜大量輸送の公共交通の整備を怠って道路交通のみに頼った反面教師の都市に見えますね…
Mitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)〜Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)間の都市間バスは柔軟な?乗り場設定が大好きなのか、Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)側ではバスターミナル手前の適当なところで客を降ろし、バスターミナルの所定の乗り場には入らず適当なところで客待ちするようですね…
時間があればPrishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)市街を散策と思いましたが、渋滞でMitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)から2時間以上も要してしまいましたし、バスターミナルから中心市街地に向かうまともな市内バスはないようですし、ちょうどPrizren/Призрен(プリズレン)に向けて出発するところの都市間バスがありますので、そちらに飛び乗って再度渋滞見物の旅としますね…
Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)〜Prizren/Призрен(プリズレン)はやたら多数の交通事業者が参入していて本数は多いんですが、交通事業者によって経由するルートが微妙に違うようで帰りの便は一部高速道路経由ですが、行きは乗れたのに帰りはルートが違って降りれなくて途方に暮れるとかないんですかねえ…
3日連続バスの旅疲れにより行き倒れせず、生きてPrizren/Призрен(プリズレン)のゲストハウスに帰着。身体がGaziantep(ガズィアンテプ)を求めているのか、Antepという名前のお店でお持ち帰りしてしまいますね。
Kosovës/Косово(コソボ)では、Prizren/Призрен(プリズレン)を拠点として近隣都市をバスで巡ってきましたが、国外行きバスの全貌を把握できず次の行先が決まっていないのと、拠点都市を全然見ていないことに気づきましたので、旅の纏め時間確保を含めて宿泊ゲストハウスを1泊延泊しますね。
宿泊ゲストハウスからバスターミナルの間にあるБогородица Љевишка/Virgjëresha e Ljevishkës(リェヴィシャの生神女教会)、2004年コソボ暴動で大きな被害を受けたとのことですが、扉はずっと閉じられたままですね。
第一候補の国外行きバスが実在するかを確認するのと運転手orその取り巻きに質問攻めするため、Prizren/Призрен(プリズレン)のバスターミナルに来ましたが、こちらの犬さんに惹かれたか、ずっとついてきて困りますね。
へぅ〜、第一候補の国外行きバスの行先が記載された乗り場で待っていたところ、客引きからここから出ないからと旅行会社の事務所に拉致され、その場で明日のチケットを買わされ、明日は事務所の前から出るからと言われて解放されますね…
Богородица Љевишка/Virgjëresha e Ljevishkës(リェヴィシャの生神女教会)に戻って周りをうろうろしていたところ、24時間警備している地元警察の人が手招きしてきて、神父ではなさそうですが教会関係者が扉を開けてくれるとのことで、写真撮影禁止ですが内部を鑑賞できますね。
自分が入ってから暫くしてスカーフをした女性が入ってきて、イスラム教徒ながらも彼女も見学者かと思っていましたが、扉を開けてくれた教会関係者の男性との会話が妙に長いと思って見てみると、仲睦まじい関係のようなんですね… もしや、教会関係者はアルバニア系の人!?と思いましたが、会話はスラブ系言語のようなんですね。
ということで、教会をあとにしますが、先程のスカーフの女性は、扉の鍵を持った男性により閉じ込められてしまったようですね…
СПЦ Саборни Храм Светог Ђорђа/Katedralja e Shën Gjergjit(聖ゲオルゲ教会)、今朝は扉が開いていて内部を観覧できますが、週末のためかセルビア系と思われる家族連れが来ていて、小さなお子さんの写真撮影会場となっているようですね。
今日は宿泊ゲストハウスの近くで道路工事をやっているようで水道を止められて困っていますが、休み休み工事が進められているようで復旧するまでお外で待つしかなさそうですね…
Prizren/Призрен(プリズレン)、昼間はトルコ がメインと思われるイスラム諸国からの観光客が多いようですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)のXhamia e Sinan Pashës/Синан пашина Џамија(シナン・パシャ・モスク)に限らず、バルカン諸国のモスクはトルコ政府からの援助を受けて修復されているようですね。
Kalaja e Prizrenit/Призренски град(プリズレン要塞)からは、Prizren/Призрен(プリズレン)の街並みを一望できますね。
同じ山脈を挟んで麓に位置するPrizren/Призрен(プリズレン)とСеверна Македонија(北マケドニア)のТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)、直線距離ではかなり近いようなんですね。
Kalaja e Prizrenit/Призренски град(プリズレン要塞)、肝試しが多いようですね…
Prizren/Призрен(プリズレン)の高台にあるKisha e Shën Spasit/Црква Светог Спаса(聖なる救い聖堂)のように、2004年コソボ暴動時の被害から復旧できていない正教会もあるようですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)には、カトリック教会Katedralja Katolike e Zojës Ndihmëtare/Католичка катедрала Госпе Помоћнице(聖母大聖堂)もあるようですね。
トルコのチャイ文化はコーヒーが入手困難になったトルコ共和国初期からのはずでオスマン帝国由来ではないはずですが、なぜ故かPrizren/Призрен(プリズレン)にもトルコグラスのチャイやさんがありますので、構わずチャイのひとときを過ごしますね。
地域鉄道を存続させるにも相当の国力が必要と思われますが、美麗なる南の島の高雄方面のように鉄道駅跡を線路そのままで公園化し、ゴミだらけでなく綺麗に維持管理するのは、更なる国力が必要なんですかねえ…
中進国でもというより、むしろ中進国だから?新しい建物の外面がやたらいいような気がしますが、文字通り馬脚を現している建物も多いようですね。
国によっても都市によっても違いはあるとはいえ、ヨーロッパでは先進国になるほど都市計画的に公共交通システムや自転車走行インフラが整備され郊外商業抑制と併せて自動車交通が抑制される傾向がある一方で、中進国になるほど自動車交通一辺倒、郊外商業開発一辺倒な傾向があるように感じますね。
とはいえ、ショッピングモールの中に入りますと、今ヨーロッパの何処にいるのかを覆い隠す匿名性のようなものはあるんですね。
グローバル化の象徴であるところのショッピングモールにおいても地域性は現れますので、おかげさまでモール内のオシャレカフェでTrileçe(トリレチェ)を美味しくいただくことができますね。
Prizren/Призрен(Prizren)の郊外は、屋内型ショッピングモール(ABI Çarshia)だけでなく屋外型のモールもあるようで賑わっていますね。
ヨーロッパの何処にいるのか分からない煌びやかなショッピングモールから一歩外に出ますと、Prizren/Призрен(プリズレン)の現実が待っていますね。
食い倒れせず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。食文化の類似性は、民族間の和解をもたらしませんね…
需要ゼロと思われますが、Kosovës/Косово(コソボ)のPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)バスターミナルの時刻表ですね(たぶん国外は含まれていない)。
需要ゼロと思われますが、Kosovës/Косово(コソボ)のPrizren/Призрен(プリズレン)バスターミナルの時刻表ですね(たぶん国外は含まれていない)。
需要ゼロと思われますが、Kosovës/Косово(コソボ)のGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)バスターミナルの時刻表ですね(国外も全部ではないにせよ入っていると思われる)。
需要ゼロと思われますが、Kosovës/Косово(コソボ)のMitrovica/Mitrovicë/Косовска Митровица(ミトロヴィツァ/コソヴスカ・ミトロヴィツァ)の南側(アルバニア系)バスターミナルの時刻表ですね(たぶん国外は含まれていない)。尚、北側(セルビア系)のバスターミナルは時刻表無しでしたね(ベオグラード行きの存在は確認)。
Prizren/Призрен(プリズレン)、Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)やGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)にあるような独特の木造建築が無いわけでは無いんですが、オスマン帝国時代に地域政治の中心だったせいか、Северна Македонија(北マケドニア)のБитола(ビトラ)と同様に洋風建築に置き換えられているところが多いようなんですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)、Marashという地区のようにオスマン帝国時代の建築が多く残っていて修復されたところもあるようですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)は、アルバニア語正書法の会議が開かれた現Северна Македонија(北マケドニア)のБитола(ビトラ)と同様、アルバニア本国含めてアルバニア系の歴史では非常に重要な都市のようで、現Србија/Srbija(セルビア)のНиш/Niš(ニシュ)などでアルバニア系の人々が追放されているさなかの1878年にオスマン帝国側について帝国の下での自治を目指す政治団体Lidhja e Prizrenit(ブリズレン連盟)が発足した地のようですね。
昨日からSarajeva/Сарајево(サラエヴォ)が呼んでいるのか、昨晩のQebapa/Ћевапчићи(チェヴァプチチ)やさん(Qebaptore Sarajeva)に続いて、今朝はByreku/Бурек(ブレク)やさん(Burek Sarajeva)に吸い込まれてしまいますね。
お手頃価格なのに清潔な部屋で快適なひとときを過ごせましたので、結局5泊もしてしまったPrizren/Призрен(プリズレン)の宿泊ゲストハウス(Guesthouse Hotel My Home)を出発ですね。えらいイケメンおっさんなオーナーさんは世界中を渡り歩いてきたようですが、赤い星印の衣装を常に着用しているところを見ますと、Jugonostalgjia/Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)な人だったりするんですかねえ。
こちらの方は、トルコの地方都市やパレスチナの都市の人々が愛おしく思えるほど、○ン○ャン○ン○ャン喧しい子どもの集団がいたり、一人では何も話しかけられないのに集まると気が大きくなって冷やかし気味に挨拶してきたりするティーンエイジャーの集団がようけいますが、日曜のせいかそういう素朴な?集団がたむろしてなくて歩きやすいですね。
Prizren/Призрен(プリズレン)のバスターミナル14番乗り場…ではなく、お近くの旅行会社(Atmaxha Trans)から出発するCrna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)のUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)行きに乗車しますが、Prishtina/Prishtinë/Приштина(プリシュティナ)発のようで結構混んでいますね。
一人だとジロジロ見ることくらいしかしないのに集団になると挨拶してくるティーンエイジャーに対して好意的に受け取れなかったのは、アルバニア系でもセルビア系でも無い外見的にKosovës/Косово(コソボ)のエスニックマイノリティ、Ashkalitë/Ашкалије,Hashkali/Хашкалије(アッシュカリーまたはアッシュカリーヤ)、egjiptianët ballkanikë/Балкански Египћани(コソヴォ・エジプシャン)に見える人に対し、あからさまな挑発や冷やかしの態度を取っていたのを見ていたからなんですね。
勿論、一人で挨拶してくる大人も複数いらっしゃいましたし、日本語WebサイトやSNS投稿などでKosovës/Косово(コソボ)を旅行した人が語る親切なエピソードもたくさんありましたが、子供やティーンエイジャーの社会は大人の社会の(ある意味露骨な)鏡であり、そういう側面もあるということではないかと…
アルバニア系の地区のみならず、セルビア系の地区でも同様でしたし、セルビア本国でも頻度はかなり少なくなりますがベオグラード以外の地方都市ではありましたね(北マケドニアやアルバニアでも同様かと思いきや全く無し)。https://social.vivaldi.net/@tecogonaz/113309475348121699
少なくとも、コソボ紛争は決して過去の出来事では無く現在進行形の事象であり(どういう形であれ)現状の変更はありうることだけは分かりましたので、今のうちにСрбија/Srbija(セルビア)やKosovës/Косово(コソボ)に行けたのは大変有意義であったと思いますが、とりあえずKosovës/Косово(コソボ)、セルビア的にはСрбија/Srbija(セルビア)を出国してShqipëri/Shqipëria(アルバニア)に再度入国しますね。
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)の高速道路の休憩所は巨大なガソリンスタンドのような外観ですが、レストランやバー、スーパーやホテルがあって充実していますね。
下手な街路樹よりも高い雑草が繁茂するShqipëri/Shqipëria(アルバニア)の平野部に戻ってきましたね。
事前に確認して聞いてはいたものの、Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)行きのバスは非情にもShkodër(シュコドラ)の市街地に入らず、ヴェネツィア共和国時代の城塞の麓でほっぽり出されてしまいますね。
ほっぽり出された皆さんは、ぼったくり?タクシーの誘惑を振り切って歩いているようですので自分も歩きますが、路線バスのバス停掲示も無いようですし歩いて正解のようですね。
Shkodër(シュコドラ)は1979年の地震で市内の大部分が破壊されたとのことで、幹線道路沿いは防火建築帯のような街並みが広がっていますね。
Shkodër(シュコドラ)の中心市街地の建物は復元と思われますが、えらい立派な洋風建築が並んでいて驚きですね。
へぅ〜、重い荷物を背負って50分も歩いて、何とか生きてゲストハウスに到着ですね。何といいますか、街を行き交う人々の雰囲気がKosovës/Косово(コソボ)と同じアルバニア系とは思われませんね。
次の目的地へのバスについて調べようと思ってShkodër(シュコドラ)市街に繰り出すも観光案内所も旅行会社も日曜定休のようで途方に暮れていますと、アルバニア語なので正直何を言っているのかは分かりませんが、旅行会社そばの売店のおばちゃんがあっちのホテルに行けば目的地行きのバス停が…みたいなことを大変親切に教えてくれますね。
Shkodër(シュコドラ)、市街をよくよく歩きますと結構朽ちた洋風建築があって木が茂っているのもありますが、1979年の地震で壊れてそのままという建物もあるんですかねえ…
Kosovës/Косово(コソボ)と異なり、良くも悪くもイタリアとの関係が深いShqipëri/Shqipëria(アルバニア)ですので、地方都市のShkodër(シュコドラ)でも相場がおかしい焼き立てピザ…ピッツァを愉しめますね。
当地の犬さんや猫さんのように路上で眠りにつかず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。夕食は歩行者天国でなく裏通りにあるレストラン(Traditional food)で頂きましたが、Kosovës/Косово(コソボ)で飲みそびれた軽い味わいのPeja/Pejë/Пећ(ペヤ/ペーチ)ビールも美味しくいただきましたね。
Shkodër(シュコドラ)は1泊しかしない予定ですが、思ったより見どころがありそうなのと、宿泊ゲストハウスも含めて居心地がいいですので、もう1泊することにしますね。
Shkodër(シュコドラ)中心部にあるこちらのモスク(Xhamia Ebu Beker)、真新しいのは1979年地震の被害によるものでは無く、無神国家時代にオスマン帝国時代に建てられたモスクが破壊されたからのようですね。
Shkodër(シュコドラ)中心部にあるこちらのカトリック教会(Kisha Katolike Françeskane)も、モスクと同じく無神国家時代に破壊され、後に復元されたもののようですね。
Shkodër(シュコドラ)中心部にあるこちらのカトリック教会(Kisha Katolike Françeskane)、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)の歴史に基づいた?宗教画が多いですね。
1858年のオスマン帝国時代に建てられたShkodër(シュコドラ)で最も大きいカトリック教会(Katedralja e Shën Shtjefnit)は、無神国家時代にはスポーツ神殿にされたとのことで破壊を免れたようですね。
こちらのカトリック教会(Katedralja e Shën Shtjefnit)では、共産党政権の時代に殉教したと思われる神父が祀られているようですね。
Shkodër(シュコドラ)市内各地にかつて存在した共産党政権時代の収容所の一つを利用した博物館(Vendi i Deshmisë dhe Kujtesës)を訪問しますね。
Shkodër(シュコドラ)、オランダ・デンマークなどのヨーロッパ自転車先進国の都市並みとはいかなくても、高松並みには自転車の利用が多いように見えますね。
需要ゼロと思われますが、Shkodër(シュコドラ)市街の路上にあるアルバニア国内都市行きバス乗り場の時刻表ですね。
Shkodër(シュコドラ)は、オスマン帝国時代の建物は著しく少ないようですが、全くないわけではないようですね。
昨日売店のおばちゃんに教えてもらったところに行ってみましたら、明日の目的地の時刻表が書かれたバス停があって、明日の目的地行きのバスの運転手に時刻表が合っていることと毎日運行することを確認しましたので、一旦宿泊ゲストハウスに帰りましょう。
おやや、高松も自転車カオスですので他所さまの都市をとやかく言える立場ではありませんが、さすがに歩行者天国では自転車には乗りませんね。
今度こそShqipëri/Shqipëria(アルバニア)最期…最後の夜ですので、お昼に訪問した博物館(Vendi i Deshmisë dhe Kujtesës)隣りにあるレストラン(Restorant Temali)でTasqebap(タスチェバプ)を頂きますが、焼肉料理の一種かと思いきや煮込み料理のようですね。
酔っ払って夜の街に消えず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。繁華街から外れますと、街灯が黄色みを帯びていて建物がえらい映えますね。
単なる住宅地のように見えても、カウンターだけのByrek(ビュレック)のお店や一つ窓の売店、露店があったりするんですね。
大変よく掃除されていて広くて快適な滞在だったShkodër(シュコドラ)の宿泊ゲストハウス(Guest House Zadeja)を出発しますね。
ということで、1日3便(毎日運行)の時刻表が記載されたバス停より、Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)のPodgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)行きに乗車しますね。
中心市街地でも自動車が平気で高速走行し、歩道やアーケード商店街に追いやられている高松より、自転車利用者にとっては走りやすそうな環境のように見えますね。
Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)に入国して、Skadarsko jezero/Скадарско језеро(シュコダル湖)を左手に見ますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の社会主義リアリズムな団地が見えてきたところで、バスターミナルに到着のようですね。
行き倒れせず、生きてPodgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)のバスターミナル近くのアパートに到着ですが、昔からの集落があった地区のようで道が狭いですし一軒家が多いですね。
前回の旧共産圏中〜北部の旅行ではロッカーやトイレチップ、ごく一部の店くらいしか現金を使わなかったのに、今回はやたら現金を求められてユーロ金欠状態になっていますので、Kosovës/Косово(コソボ)と同じく勝手にユーロを流通させているCrna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)でクレジットキャッシングしたいところですが、ぼったくり両替レートでの引出を求めてきて、拒否するとカードを差し返されてしまいますね…
やむなく、ドル・ユーロなどの複数通貨口座を持てるデビットカード(Wise)を使って、比較的ましなレートで円口座からユーロ口座に資金を移し、再度引出を試みたところぼったくりレート引出は無くなりましたが、ATM手数料を取られるのは変わりないようですね… とりあえず、引き出した現金で、クレジット決済不可のバスターミナルで明日のバスチケットを購入しますね…
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)、誰が言い出したか、欧州で一番醜い首都と言われているようですが、変な銅像や建物をいっぱい建てていて歴史の冒涜たる?Скопје(スコピエ)や、モスクの背後に変な建物を建てていてこれまた歴史の冒涜たる?Tirana/Tiranë(ティラナ)よりはマシな気がしますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の中心市街地を流れる川、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)のヨーロッパとは思われない土砂だらけの濁った川と異なり、満々と水をたたえていて清流ですが、さほど距離が離れていないはずなのに何が違うんですかねえ。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)では、中心市街地そばでも渓谷美を愉しめるようですね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)は、1878年までオスマン帝国による直接支配を受けていたということで、要塞跡(Ribnica/Рибница)が残っていますね。
オスマン帝国時代に地域の中心として栄えたShkodër(シュコドラ)と異なり、Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)は辺境の要塞に付随する小さな町だったようですが、オスマン帝国時代の旧市街は単なる集落となっていてモスクが残されていますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)のオスマン帝国時代の旧市街も壁画が多いですね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)で一番大きいと思われるショッピングモール(Mall of Montenegro)に来ましたが、えらい空きテナントが多くて薄暗いモールですね…
ショッピングモール(Mall of Montenegro)に隣接する伝統市場(Tržnice i Pijace)の方がまだテナントが埋まっているように見えますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の鉄道駅(Željeznički prevoz Crne Gore)に来ましたが、Kosovës/Косово(コソボ)やShqipëri/Shqipëria(アルバニア)と比べますと、鉄道が機能しているように見えますね。
需要ゼロと思われますが、Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の鉄道駅(Željeznički prevoz Crne Gore)の発着時刻表ですね。
Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)最初にして最期…最後の夜になるかもしれませんので、Podgorica/Подгорица(Podgorica)のバスターミナルに程近いレストラン(Roštilj Nino Janković)に入っておきますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の名物をと思いきや無いとのことで、明日訪問する都市の名物?を美味しく頂きますね…
行き倒れせず、生きて宿泊アパートに帰着。ちょっと絡んでくる大人もいないわけではありませんが、少なくとも当地の子供やティーンエイジャーは文明市民として?洗練されているように見えますね。
Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)のバスターミナルから程近い集落にある宿泊アパートを出発ですね。設備が充実している上にオーナーのお母さまが掃除した部屋は大変清潔で、1泊だけするのがもったいないくらいでしたが、お隣の鶏さんは朝2時3時から起き出すようで、その元気な鳴き声にうなされていましたね…
今日は移動日ですね。Podgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)のバスターミナルよりマイクロバスに詰め込まれ出発しますね。
Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)出国ですので、絶景の中で睡眠に勤しんでいた他の乗客も強制的に起こされますね。
Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)からBosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に入りますね。
Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)入国を拒否されて山中に取り残されず、生きてセルビア系主体のРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に入ることが出来るようですね。
Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に入ってから急に道が悪くなり上下左右揺られますので、絶景でないのに皆さん起きてなければなりませんね。
エンストが治らずФоча/Foča(フォーチャ)の街に放り出されず、生きて代車に乗ることが出来るようですね。
ぎりぎりРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に位置するAutobuska stanica Istočno Sarajevo/Аутобуска станица Источно Сарајево(東サラエボバスターミナル)に到着のようですね。
需要ゼロと思われますが、ぎりぎりРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に位置するAutobuska stanica Istočno Sarajevo/Аутобуска станица Источно Сарајево(東サラエボバスターミナル)の時刻表ですね。
案内表示がなく、いつの間にかРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)からFederacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)に入ったようで、バス乗り場から最新鋭のトロリーバスに乗車しますね。
どうも、前回も含めてこれまで訪問した都市と異なり、スリさんがうようよしているようで注意が必要のようですね。
へぅ〜、スリさんに惹かれず、生きて少し高台にあるゲストハウスに到着しましたが、オーナーさんからゲストハウスの案内やおすすめの飲食店や観光スポットについて20〜30分くらい熱心な説明を受けてしまいましたね。
Sarajevski ćevapi(サラエボ式チェバプチチ)の本場に来ましたので、夕食は宿泊ゲストハウスのオーナーさんのおすすめに従って超有名らしいお店(Ćevabdžinica Petica Ferhatović)で美味しくいただきましたが、今までさんざん旧Jugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)諸国で食べてきて大変美味しいお店もありましたので、うどん県内の大変美味しいうどん店のように他県の讃岐うどん店でさんざん食べてきても感激するようなことは果たしてあるんですかねえ…
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)到着時点で未だKosovës/Косово(コソボ)の旅の纏めも終わらぬ体たらくでしたので、昨日は大変居心地のいい宿泊ゲストハウスで旅の纏めに専念しましたが、今日も専念まではいきませんが旅の纏めに励むことになりそうですね。
とはいえ、腹が減っては旅の纏めができませんので、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)旧市街に降りてきてBosanska Kafa(ボスニアン・コーヒー)という名前の実質Turska Kafa(トルコ・コーヒー)のひとときを過ごしていますね。
昨晩はこちらのチェバプチチやさん(Ćevabdžinica Kastel)で大変美味しく頂きましたが、どうもベオグラードでも頂いてこれまた大変美味しかったBanjalučki ćevapi(バニャ・ルカ式チェバプチチ)のお店のようで、これは本場に行けとの神の御心ですかねえ。
午前中はShkodër(シュコドラ)やPodgorica/Подгорица(ポドゴリツァ)の旅の纏めを行っていましたが、Bufferで同時投稿を行っているせいもあるかもしれませんが、Threadsさまは時間あたりの投稿数が多いと勝手にスパムと判定して削除しにいくようで困っていますね(MastodonさまとBlueskyさまは問題無し)…
今日も宿泊ゲストハウスのオーナーさんのおすすめに従って、旧市街のこちらのブッフェ(ASDŽ Aščinica)を伺いますね。
ややっ、お肉を葉野菜で包んだ料理を頂きますが、オーナーさんの言う通りファーストフード感が全く無くて味わい深いですね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)、東側のオスマン帝国時代の旧市街と、西側の1878年以降のオーストリア=ハンガリー帝国時代に作られた旧市街が対称的で、イスタンブール以上に東と西が出会う街感が強いですね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)、第二次世界大戦前は人口の五分の一を占めるほどのユダヤ人人口を有していたとのことで、旧市街にはシナゴーグが残っていますね。
ヨーロッパな市街地にあるオシャレカフェでも、Bosanska Kafa(ボスニアン・コーヒー)という名前の実質Turska Kafa(トルコ・コーヒー)のひとときを過ごすことが出来ていいですね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)旧市街を更に西に歩きますとMaršal/Маршал(元帥)の名を冠する通りに至り、次第に社会主義リアリズムな新市街に変わり、東と西と元帥が出会う街?となっていますね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)の新市街は社会主義リアリズムな建物ばかりでなく、真新しい建物もありますね。
ややっ、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)新市街のこちらのスーパー(Crvena Jabuka)、ヨーロッパ(特に旧共産圏)のスーパーによくあるような退廃した雰囲気が全く無く、サラダのパッケージがたくさんあるのと各種バーが充実していてびっくりですね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)よりはましですが、Glavna željeznička stanica u Sarajevu/Жељезничка станица у Сарајеву(サラエボ中央駅)もJugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)の時代で止まっているかのようですね。
需要ゼロと思われますが、Glavna željeznička stanica u Sarajevu/Жељезничка станица у Сарајеву(サラエボ中央駅)の時刻表ですね。どうも、10月上旬にBosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)南部で豪雨があったようで、Mostar/Мостар(モスタル)方面行きの列車が運休しているようですね。
Federacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)側のバスターミナル(Autobuska stanica Sarajevo)、時刻表の案内ほぼゼロの何事も窓口の人に聞けという修羅の世界のようですね…
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)でよく語られる建物の銃弾の跡、都市のシンボルとして旧市街など目立つ場所にごく一部だけ残しているというわけでは無さそうで、郊外でもあちこち普通に残っていますね…
ほな、スーパーでサラダ用葉野菜パックなどなど買い物を済ませましたし、路面電車で宿泊ゲストハウスに帰りましょう。バルカン半島の他所の国もそうですが、レストランのサラダは胡瓜が入っていることが多く怖くて頼めませんね。
路面電車の車内でスリさんに惹かれず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)旧市街のこちらのお店(Buregdžinica BosnaBurek)で、Burek(ブレク)の夕食を美味しく頂きましたね。
当地は神の御心に従わぬ輩が多いのか、スーパーに豚さんやアルコール飲料が普通に置いてあっていい?ですね。
トルコやアルバニアと同じく、神の御心に従わぬ銀行ばかりなのか、先の国々と比べても高額なATM手数料を徴収するところばかりで困っていましたが、複数通貨口座を持てるデビットカード(Wise)でEUR口座に資金を入れておきますと、指定レートでの両替(JPY→EUR,EUR→BAM)は発生しますがATM手数料はゼロになることが分かりましたので、そちらでキャッシングしますね。
1990年代だけが当地の歴史ではありませんので、Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)で人類の誕生からの当地の歴史のお勉強としますね。
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)、オーストリア=ハンガリー帝国時代の建物が壮麗ですし、展示品のディスプレイも洗練されていますね。
カトリックと正教会の布教の最前線となっていた当地では、中世ボスニア王国が存在している間、カトリック・正教会双方から異端とされていたボスニア教会やブルガリア発祥のボゴミル派が広く信仰されていて、そのことがオスマン帝国時代のイスラム教改宗の背景にあるようですね。
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)、他所のオスマン帝国の支配を受けた国々の博物館と同じく、オスマン帝国時代はほぼスルーのようですが、オスマン帝国時代の家屋が再現された空間があって衣装や調度品の展示がありますね。
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)にはオスマン帝国時代の装飾された銃器が展示されていますが、バザールの木造建築で知られる現Kosovës/Косово(コソボ)のGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)で多く製造され、当地Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)を含むヨーロッパ各地に流通していたようなんですね。https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Bazaar_(Gjakova)
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)には発掘品とその発掘風景の写真を展示するコーナーがありますが、19世紀後半〜20世紀初頭のオーストリア=ハンガリー帝国時代は皆さんちゃんと服を着て発掘作業にあたっているのに、1950年代以降になりますと上半身裸になる人が出てくるのはTitoizam/Титоизам(チトーイズム)の影響なんですかねえ…
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)近くに、Југославија/Jugoslavija(ユーゴスラビア)時代に設置されたものとは思われないSpomenik/Споменик(スポメニック)がありますが、2007年に設置された有名なもの(Spomenik međunarodnoj zajednici)のようですね。
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)観覧で疲れましたので、お近くのカフェ(Caffe Tito)に入りますが、近隣のJugonostalgija/Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)な人々?で賑わっているようですね。https://www.instagram.com/cafe.tito.sarajevo/
スタッフの募集広告がNezavisna Država Hrvatska/Независна Држава Хрватска(クロアチア独立国)のUstaše/Усташе(ウスタシャ)政権の通告を模していて、えらい手が込んでいますね。
お腹が空きましたので、Maršal/Маршал(元帥)の名を冠した通りにあるSarajevski ćevapi(サラエボ式チェバプチチ)のお店(Ćevabdžinica Zmaj Titova)でお昼としますが、こちらは観光客というより市民が多く集っているようで、Maršal/Маршал(元帥)の名に恥じない?味わいで美味しく頂きますね。
週末のSarajevo/Сарајево(サラエヴォ)は晴れ間も見えて、旧市街でも市民が多くカフェのひとときを過ごしているようですね。
当地Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)の過去の栄光であり、Jugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)にとっても最後の栄光だったと思われる1984年冬季オリンピックの記念館(Olimpijski muzej)に入りますね。
当時のSarajevo/Сарајево(サラエヴォ)市民の笑顔ほど、涙をさそうものは無いかもしれませんね…
どこかしらから放たれた銃弾により行き倒れせず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。そういえば、今日はカフェで休憩したところ店内から日本語が聞こえてきましたが、話していたのが東アジア系ではあるものの日本人オーラを放たない女性とスカーフをした明らかに現地の女性で、空耳だったんですかねえ…
部屋やバスルームがえらい広大かつ清潔な上に、共用部のキッチンやリビングルームも広大かつ充実していて、大変快適なひとときを過ごしたSarajevo/Сарајево(サラエヴォ)の宿泊ゲストハウス(Villa Old Town)を出発しますね。あまりにも快適すぎて、部屋の中で旅の纏めに専念していまい、肝心のSarajevo/Сарајево(サラエヴォ)観光は中途半端になってしまっていけませんね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)はトルコをはじめとするイスラム諸国からと思われる観光客と中華系観光客が多かったですが、偉大なる中華民族の国家だけでなく英語でガイドを受けるシンガポールorマレーシアからと思われる華人系の観光客も多そうでしたね。
Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)は経済水準的には中進国なんでしょうが、首都Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)は中進国の首都らしくないといいますか、人々の振る舞いが洗練されているように見えるのと、芸術のセンスを有する人が多くてパブリックアートやカフェの店内などにそれが反映されているように見えましたね。
行きと同じく、103系統のトロリーバスで終点に到着しましたが、終点で降りた皆さんはそのまま歩いてFederacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)からРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に入るようですね。
Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)にはまた戻ってくるかもしれませんが、これから地方都市?の旅ですね。ぎりぎりРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に位置するАутобуска станица Источно Сарајево/Autobuska stanica Istočno Sarajevo(東サラエボバスターミナル)からバスに乗車しますが、東方のВишеград/Višegrad(ヴィシェグラード)発のようで当地をスルーする乗客が多いようですね。
Аутобуска станица Источно Сарајево/Autobuska stanica Istočno Sarajevo(東サラエボバスターミナル)を出発したバスは、しばらくの間Federacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)内を走行しますが、完全スルーのようですね。
再びРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に入りますと、路上のバス停含めて客扱いを始めるようですね。
Република Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)の北の方はほぼほぼハンガリー平原と言いますか、なだらかな丘陵が続く風景に変わりますね。
Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)の地方都市というより、Република Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)の首都と言ったほうがいいかもしれないБања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)のバスターミナルに到着のようですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)の街を永遠に彷徨わず、生きて宿泊アパートに到着ですね。団地の中を彷徨っていますと、通りがかりの人がMay I Help you?と聞いてきますし、通りがかりのカフェからはハロー何かドリンクでもとの声が飛んできますし、そうこうしているうちに宿泊アパートのオーナーさんのお母さまに見つかってしまいますし、異邦人に対する監視の目は厳しいようですね。
Banjalučki ćevapi(バニャ・ルカ式チェバプチチ)の本場に来ましたので、昨晩は中心市街地に程近い有名店(Ćevabdžinica Kod Muje)で美味しく頂きましたが、日曜夜とはいえ客が全然いなかったんですがそんなもんなんですかねえ。
肉だけを食べる背徳感を和らげるために朝はお野菜サラダとしますが、たまたまなのか葉野菜パックがイタリア直輸入で高いですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)のバスターミナルで1日1本ある行先のバスチケットの購入を試みますが、Federacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)行きはうちでは扱っていませんと冷たくあしらわれず、問題なく購入できましたね。
バスターミナル近くにあるБања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)の鉄道駅、かつてはこちらからJugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)各地に行けたんでしょうが、今はSarajevo/Сарајево(サラエヴォ)にすら行けず場末感が漂っていますね…
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)の路線バス、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)のBAM1.8よりさらに高く(BAM2.3〜3.5)、日本の地方の公共交通ほどではないにせよ、当地の経済水準を考えますと運賃の相場が高めですね。
中世セルビア王国の王はセルビアの王、中世ボスニア王国の王はセルビアの王なんですかねえ。https://en.wikipedia.org/wiki/Tvrtko_I_of_Bosnia
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)はローマ帝国以前からの悠久の歴史を有しているようで、Тврђава Кастел/Tvrđava Kastel(カステル要塞)に来ましたね。
Тврђава Кастел/Tvrđava Kastel(カステル要塞)、現在残っているのはオスマン帝国時代の要塞なのに他所のオスマン帝国要塞跡にない木造の三角屋根が復元されていて違和感がありますが、まさかセルビアの歴史に燦然と輝く?中世ボスニア王国の要塞をイメージして復元しているんですかねえ…
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)のまちなか、少数ではありますがスカーフをした女性をちらほら見かけ、1990年代に爆破されて2016年に再建されたモスク(Џамија Ферхадија/Ferhadija džamija)が建っていますね。
当地Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)の歴史のお勉強のため、Google Mapsさまでも公式サイトでも定休日の記載が無いМузеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)に来ましたが、今日は定休日とのことですね…
Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)の屋外に戦車や大砲などの兵器の展示がありますが、第二次世界大戦中にパルチザンによって使われたもののようで、1990年代に使われたものではないようですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)は戦争では無く1969年の直下型地震で壊滅的な被害を受けたようで、中心市街地の歩行者天国沿いにオーストリア=ハンガリー帝国時代以降に建てられた洋風の建築が残っていますね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)中心市街地の広場にあるこちらの正教会(Саборни Храм Христа Спаситеља/Saborni Hram Hrista Spasitelja)、1939年に完成して間もなくNezavisna Država Hrvatska/Независна Држава Хрватска(クロアチア独立国)のUstaše/Усташе(ウスタシャ)政権によって破壊され、共産政権時代にも再建が許可されず、1990年代に許可が下りて2009年に再建されたようですね。
共産党政権時代にБања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)中心市街地にあった正教会の再建が許可されなかったため、1960年代に同じ名前(Црква Свете Тројице/Crkva Svete Trojice)で建てられた正教会が現在も郊外にあるようですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)郊外にはクロアチア系向けとおもわれるカトリック教会(Катедрала Светог Бонавентуре/Katedrala Svetog Bonaventure)が1990年代にも破壊されず残っていますが、1969年の地震で大きな被害を受けて取り壊され、1973年に旧約聖書と被災者のテントをモチーフとした現代建築で再建されたもののようですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)、中心市街地も郊外も緑豊かでいいですね。
Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)と比べますと、民間セクター?の旗の掲示が多いような気がしますね。
行き倒れせず、生きて宿泊アパートに帰着。Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)もそうでしょうが、Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)でも市民の選択的共感を育む建造物が見られますね。
宿泊アパート近くの団地が並ぶ一角にあるBanjalučki ćevapi(バニャ・ルカ式チェバプチチ)のお店(Ćevapterija Nova Varoš)で夕食としますが、意外と近隣からと思しき家族連れや一人客で賑わっていて、家族用にか大量に持ち帰る人もいれば、ビールだけ飲んで帰るお年寄りもいますね。
Ћевапчићи/Ćevapčići(チェヴァプチチ)は、うどんと同じくシンプルな料理ゆえか誤魔化しが効かず、来客の多さに現れるようですね。
宿泊アパートのチェックアウト時間を迎える前に慌ただしくМузеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)に来ましたが、料金の掲示はありますが無料のようですね。
Zemaljski muzej Bosne i Hercegovine/Земаљски музеј Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館)の洗練されたディスプレイを観覧してから来ますと、Музеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)は予算が不足しているのか、とっちらかった展示に見えてしまいますね…
とはいえ、オスマン帝国の支配を受けた他所の地域の博物館はオスマン帝国時代スルーのところが多いのに、Музеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)はセルビア視点とはいえちゃんと向き合っている?ようですね。
Музеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)、限られた予算で選択と集中を実践しているのかどうかは不明ですが、第二次世界大戦の展示がえらい充実していますね。
Музеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)、Nezavisna Država Hrvatska/Независна Држава Хрватска(クロアチア独立国)のUstaše/Усташе(ウスタシャ)政権によってЈасеновац/Jasenovac(ヤセノヴァツ)などに設置された強制収容所に関して、特設コーナーを設けているようですね。
Hrvatska(クロアチア)側のJasenovac(ヤセノヴァツ)強制収容所跡に併設されている博物館と比べて、展示に使われている写真があからさまなのが多いように見えますね。
Музеј Републике/ СрпскеMuzej Republike Srpske(スルプスカ共和国博物館)、1989年以降の展示は存在しないようですね…
急いでБања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)北部郊外の団地にある、オーナーさんのお母さまによってきれいに清掃されて快適なひとときを過ごすことができた宿泊アパートに戻って、荷物をまとめて出発しますね。
昨日Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)のバスターミナルにチケットを買いに行く時に気になっていたお店(Obelix)でBanjalučki ćevapi(バニャ・ルカ式チェバプチチ)の食べ納めとしますが、うどん県のうどん店と同じく、郊外の住宅地の中にあっても皆さん自動車などで来ていて賑わっていますね。
ということで、今日は移動日ですね。Бања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)のバスターミナルからパルチザン聖地?方面に向かうバスに乗車しますが、1日1便しかないせいか結構乗っていますね。
パルチザン聖地?方面に向かうだけあってか断崖絶壁の山々が続いて…と思いましたが、Google Mapsの地形を見ますと川のそばだけ険しい岡山方面の高梁川流域のようですね。
1943年11月にAntifašističko veće narodnog oslobođenja Jugoslavije/Антифашистичко веће народног ослобођења Југославије(ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議)の第2回会合が開かれ、パルチザンのボスのおっさんが晴れてMaršal/Маршал(元帥)に就任した地であるJajce/Јајце(ヤイツェ)を通過しますが、1990年代には支配勢力や住民構成が二転三転したようなんですね。
Република Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)だけでなく、Federacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)でも荒れ地と空き家が広がるところを見かけますね。
比較的標高が高いこちらではキャベツを栽培している農家が多いようで、沿道は良心市?が点在していますね。
これまで通過した国と異なり、Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のまちなかでは野犬…保護犬を見かけませんでしたが、田舎の方はいるようですね。
第二次世界大戦の激戦地でパルチザン聖地なJablanica/Јабланица(ヤブラニツァ)に近づいてきましたが、えらい崖崩れですね。
どうも、10月上旬の豪雨被害がJablanica/Јабланица(ヤブラニツァ)に集中している模様ですね…
へぅ〜、犬さんの胃袋に収まらず、生きてMostar/Мостар(モスタル)旧市街のアパートに到着のようですが、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)やБања Лука/Banja Luka(バニャ・ルカ)と異なり、野犬…保護犬がうようよしているようですね。
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)と同じく、Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)も焼き立てピザ…ピッツァの相場がおかしいようでいい?ですね。
Neretva/Неретва(ネレトヴァ川)左岸のイスラム教徒が多く住む地区では、昔ながらの金属容器でコーヒーを飲むことが出来ますね。
Mostar/Мостар(モスタル)のオスマン帝国時代に作られた有名な橋であるStari Most/Стари мост(スタリ・モスト)は、トルコをはじめとするイスラム系観光客と南方な顔立ちの中華系観光客に溢れていますね。
Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)は自○志願者が多いのか、当局の作った柵を乗り越えて身を投げては勝手に手足が動いて自力救助される人を見かけますね。
Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)では、パレスチナの旗色に髪を染めたアラブ系観光客と思われる人がパレスチナの旗を持って歩いていますね。
Neretva/Неретва(ネレトヴァ川)右岸は、1990年代以降はカトリック教徒(クロアチア系)ばかり住んでいるものと思っていましたが、川に近い旧市街はイスラム教徒が多いようですね。
Neretva/Неретва(ネレトヴァ川)右岸の観光客が歩いていない通りにあるこちらのお店(Buregdžinica Rođeni)でBurek(ブレク)を美味しく頂きますが、店内に赤い星が輝いていて、Jugonostalgija/Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)な人が経営しているんですかねえ。
観光公害予防の観点か、Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)から少し離れた観光客で溢れていないこちらのモスク(Karađoz-begova džamija/Карађоз-бегова џамија)でも高額の入場料を徴収するようですね。
Mostar/Мостар(モスタル)はJugonostalgija/Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)な人が多く住んでいるのか、Maršal/Маршал(元帥)の名を冠したこちらの通りではMaršal/Маршал(元帥)を慕う?落書きを見かけますね。
Mostar/Мостар(モスタル)には以前は正教徒(セルビア系)の人々もかなり住んでいて、19世紀後半に建てられた当時はバルカン半島一の大きさを誇ったという正教会(Saborna Crkva Svete Trojice/Саборна Црква Свете Тројице)が再建中のようですね。
再建中の正教会(Saborna Crkva Svete Trojice/Саборна Црква Свете Тројице)の隣りにある古くからある小さな正教会(Stara pravoslavna crkva/Стара православна црква)も、1990年代に破壊されて2004年に再建されたもののようですね。
Mostar/Мостар(モスタル)、死去された人の告知板に、その人の信仰を示す三日月や十字架のマークでは無く、薔薇とかStari Most/Стари мост(スタリ・モスト)などのマークを複数見かけるんですね。
Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)、Hrvatska(クロアチア)からシェンゲン圏の壁を越えて日帰りするツアーもあるようで、昼間だけ混んでいる日本国内の観光地のようですね。
Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)近くにある観光客向けと思われるレストラン(Aščinica Balkan II)で夕食としますが、当地の煮込み料理のミックスが大変美味ですね。
Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)から少し離れた観光客が少ない通りの菓子店(Caffe slasticarna Amir)に、アルバニア語圏を離れてもうありつけないかと思っていたTrileçe(トリレチェ)が置いてありましたので、ありがたく頂きますね。
気が触れてStari Most/Стари мост(スタリ・モスト)からダイブせず、生きて宿泊アパートに帰着。集団間の争いがサッカーチームの枠組みで収まっているうちは平和なのかもしれませんね。
今日は路線バスでMostar/Мостар(モスタル)近郊の村への旅ですが、他所の都市と異なり、バス停に時刻表があっていいですね。
Blagaj/Благај(ブラガイ)、バスや自動車で周遊する人々のつまみ食い観光地となっているようですね。
Blagaj/Благај(ブラガイ)、とりあえずスーフィズムの修行僧が修行に励んでいたという建物(Blagaj Tekke)を見学しますが、水の確保には困らなさそうですが、水面近くは結構虫さんが飛んでいて修行の邪魔になりそうですね。
Blagaj/Благај(ブラガイ)はローマ帝国以前からの悠久の歴史を有しているようで、中世〜オスマン帝国時代の要塞があるとのことで行ってみますね。
Blagaj/Благај(ブラガイ)の山道では普通に山羊さんが放牧されていて取っ組み合いの決闘をやっていますので、巻き込まれて一突きされぬよう注意が必要ですね。
要塞へのトレイルコースは整備されていますが、Google Mapsの口コミを見ますとMostar/Мостар(モスタル)周辺のトレイルコースには普通に毒蛇さんがいて格闘エピソード?も見られますし、コースから外れた山中には未だ地雷が埋まっているようなんですね…
遠くの方で複数頭の保護犬…野犬と思われる鳴き声が聞こえていますが、その鋭い鼻で格好の獲物を見つけて歓喜しているんですかねえ…
へぅ〜、ようやくBlagaj/Благај(ブラガイ)の要塞に到着のようですが、どうも修復の手が入っているようで、誰も来ないわりにえらい立派な城壁ですし、ライトアップ設備までありますね。
気が触れて要塞から断崖絶壁にダイブせず、毒蛇さんや山羊さん、犬さんの襲撃に倒れず、資材搬入用のショートカット経路で下山を試みて滑落せず、何とか生きてBlagaj/Благај(ブラガイ)の麓にたどり着けたようですね。
Blagaj/Благај(ブラガイ)にもカトリック教会や正教会があるようですが、カトリック教徒(クロアチア系)や正教徒(セルビア系)は数人しか住んでいないようで、教会の扉は固く締められていますね。
Mostar/Мостар(モスタル)もそうですが、Blagaj/Благај(ブラガイ)でも1990年代のお墓が多いようで、祈念碑が建てられていますね。
ほな、行きと同じく路線バスでMostar/Мостар(モスタル)に帰りましょう。Mostar/Мостар(モスタル)からBlagaj/Благај(ブラガイ)方面に向かう10・12系統のうち、10系統は終点まで乗っていればいいですが、12系統は1つモスタル寄りのバス停から降りないといけないのと(帰りも同様)、バス停に掲示されている時刻が最新でないようで公式Webサイトの記載と一部異なりますので注意が必要ですね。https://mostarbus.ba/timetable/?lang=en
こちらのバスの運転手、運転中に紙幣やコインの整理をしていて大変危なっかしいですが、路上や対向車の車内に目ざとく知り合いを見つけてクラクションで合図をする能力はプロフェッショナルのようですね…
へぅ〜、今日も気が触れてStari Most/Стари мост(スタリ・モスト)からダイブせず、生きて宿泊アパートに帰着。当地に限らず、ヨーロッパ各地におけるGoogle Mapsなどの飲食店口コミサイト評価は日本国内より高めのように見えますが、ぼったくり有無や店員さんの水準を調べるのには役立つとしても、対象の食べ物の水準がどうかを調べるのは至難の業ですね。
うどん県のうどん店に限らず、地域食系の比較的客単価が低いお店であれば、その食べ物を頻繁に食べていてかつ他店も回って比較して…のような解像度の高いレビュワーが多く、好みかどうかはともかく行って試してみてもいい水準かどうかの目安にはなりますね。https://maps.app.goo.gl/xZWdeZqaoRZJiDso6
今朝も気が触れず、Stari Most/Стари мост(スタリ・モスト)からダイブせずに対岸に渡れるようですね。
Mostar/Мостар(モスタル)にもかつてシナゴーグがあったようですが、入口の扉しかその痕跡がないようですね。
一昨日のTrileçe(トリレチェ)が美味しかった菓子店(Caffe slasticarna Amir)に再訪して、Pistacija Baklava(ピスタチオ・バクラヴァ)を美味しく頂きますね。
Neretva/Неретва(ネレトヴァ川)両岸を繋ぐ架け橋を渡り、清潔で快適なひとときを過ごすことができた宿泊アパートに戻り、荷物をまとめて出発しますね。
今日は移動日ですね。Mostar/Мостар(モスタル)の鉄道駅に隣接する、改札はあるのに脇から入り放題で心なし物乞いの人が多いような気がするバスターミナルから乗車しますが、Sarajevo/Сарајево(サラエヴォ)始発のバスは30分遅れてやってきましたね…
目的地に向かうバス、1日1便しかないせいかみっちり乗っている上に、LCCが楽園に思えるほどシートピッチが狭いのに前の人はリクライニングをめいいっぱい倒していて限界バス感が強いですね…
窓側席に座れただけでもありがたく思わねばならぬようですね…
こちらの限界バス、Mostar/Мостар(モスタル)から南東に進んでFederacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговине(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)からРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)に入りますが、平地でもかなりの人口希薄地帯のようですね。
こちらの限界バス、Mostar/Мостар(モスタル)発車時点で30分遅れていたのに、かなり余裕のあるスケジュールのようで、Требиње/Trebinje(トレビニェ)という都市のバスターミナルで1時間も休憩するようですね…
何とか上手く、Bosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)の独自通貨(BAM)を使い果たすことが出来ましたね。
Требиње/Trebinje(トレビニェ)のバスターミナルからは、親分国家?の首都方面以外にРепублика Српска/Republika Srpska(スルプスカ共和国)東部の都市を経由して8時間近くかけて親分国家?国境そばの都市Зворник/Zvornik(ズボルニク)に行く便もあるようですね。
残念ながら?シェンゲン圏のゆりかごには入れず、再びCrna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)に入国しますが、この辺りの国境地帯には山猫さん?が生息しているようですね。
Kotor/Котор(コトル)という港町で結構下車しましたので、ようやく限界バスから脱することができますね。
限界バスを脱したバスは、Jadransko more/Јадранско море(アドリア海)沿いを南に下っていきますね。
Bar/Бар(バール)という港町では、Србија/Srbija(セルビア)からの鉄道と交差しますね。
太陽がJadransko more/Јадранско море(アドリア海)に沈んでいきますね。
へぅ〜、Mostar/Мостар(モスタル)から約8時間で、Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)最南端の都市Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)に到着ですね。
へぅ〜、自動車に惹かれず、生きてUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)郊外の宿泊ゲストハウスに到着しましたが、道中の景色がKosovës/Косово(コソボ)郊外とそっくりですし、横断歩道に立っても自動車が止まりませんし、川がヘドロ臭いですし、子どもの集団がKosovës/Косово(コソボ)で見かけたような(悪い意味での)素朴さですし、Jadransko more/Јадранско море(アドリア海)のリゾート都市とは思えませんね…
Crna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)のこちらのスーパー(VOLI)、お野菜パックのラインナップが充実していて文明の存在を感じますね。
少数の外国人観光客のレビューしか無いような気がしますが、Google Mapsの口コミ評価が高いのとレビューを見る限りぼったくりは無さそうですので、スーパーの帰り道にあるこちらのいかにもイタリアンな名前のお店(La casa)に立ち寄りますね。
Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)の相場がおかしいピッツェリアと異なり、観光地価格が入っているように見えますね。
ややっ、こちらのお店のマルガリータ、生地のモチモチ具合と生地自体の味わいが、見た目は全く違いますが美味しいうどん店の麺を彷彿とさせて、あっという間に消滅してしまいますね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)の宿泊ゲストハウス周辺は、民泊ほか各種個人商売も可能なように設計された?3〜4階建ての住宅が多いようですね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)のバスターミナルに明後日の目的地行きのバス発車時刻を確認しに来ましたが、同じCrna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)の海沿いの都市同士なのに1日3便しかなく、7時15分の後は19時30分のことですね…
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)は1878年までオスマン帝国の支配下にあり、当時も今もアルバニア系の住民がほとんどとのことで、市街地にはモスクが点在し、カトリック教会にはアルバニア系の名前が刻まれたお墓が広がっていますね。
信仰関係なく横断歩道の前では歩行者に道を譲る文明市民?ばかりのBosna i Hercegovina/Босна и Херцеговина(ボスニア・ヘルツェゴビナ)からUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)に来ますと、Shqipëri/Shqipëria(アルバニア)やKosovës/Косово(コソボ)に舞い戻ってきたかのように感じますね…
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)、お近くのShqipëri/Shqipëria(アルバニア)のShkodër(シュコドラ)と同様、1979年の地震で潰滅的な被害を受けたようで、ほとんどの建物はその後に建てられたもののようですね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)、1979年の地震の影響か、お近くのShqipëri/Shqipëria(アルバニア)のShkodër(シュコドラ)と同様、目抜き通りは防火建築帯のような建物が並んでいるんですね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)の防火建築帯な建物が並ぶ一角に、おそらくこの建物が建てられた1984年から営業しているという菓子店(Pasticceria Holiday)がありますので休憩としますが、何ともJugonostalgija/Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)な店内ですね。
わーい、アルバニア系の住人が多いUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)ですので、Trileçe(トリレチェ)にありつけますね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)には1878年以降にやっていたスラブ系(セルビア系?モンテネグロ系?)向けと思われる正教会がありますが、まさかKosovës/Косово(コソボ)あたりからヴァカンスにやってきたイスラム教徒が水着で来るとかあるんですかねえ…
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)はローマ帝国以前からの悠久の歴史を有しているとのことで、ローマ帝国〜東ローマ帝国、中世セルビア王国、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国などによって維持されてきたStari grad Ulcinj/Стари град Улцињ(ウルツィニ旧市街)に入りますね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)旧市街、日本語Webサイトを見ますと半分ボロボロとか市民の生活の匂いが…とか書いていますが、オシャレリノベーションが進行していてその割に観光客が歩いていなく生活感が全くといっていいほどありませんね。
旧市街にある博物館(Zavičajni muzej u Ulcinju/Завичајни музеј у Улцињу)では、古のUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)の写真をみることが出来ますね。
Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)にも、第二次世界大戦の犠牲者を追悼するためにJugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)時代に建てられたSpomenik/Споменик(スポメニック)がありますね。https://www.spomenikdatabase.org/ulcinj
行きと同じ道では面白くありませんので、帰りは海沿いの遊歩道を歩きますが、Jadransko more/Јадранско море(アドリア海)ですのでオリーブやブドウの並木が広がっているものと思い込んでいましたが、普通に松林や灌木が広がっているようですね。
リゾート都市のせいかGoogle Mapsの口コミ評価が低めで、自分がセルビア人たから…云々なレビューも見られる当地Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)のレストランの中から、ぱっと見で変なレビューを見かけないイタリア料理店(Porto Belvedere)を選んでお魚のスープとシーフードパスタを頂きますが、ポルトガル方面のタコさんと異なりこちらのイカさんやタコさんは適度な弾力を残していていいですね。
山猫軒と異なりレストランで美味しく食べられず、生きて宿泊ゲストハウスに帰着。Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)では、海でも川でものんびり食糧確保に励む人々が見られますね。
昨日は、オフシーズンでも過剰使用の極みなUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)の砂浜に沈む夕日を見に行った以外は、宿泊ゲストハウスでMostar/Мостар(モスタル)の旅の纏めに励んでいましたね。
昨日は、Google Mapsのレビュー件数が少なくてガラガラなのに何でこの水準の…なUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)郊外ロードサイドのピッツェリア(La Casa)に再訪してお魚のスープとマリナーラを頂きましたが、美味しいうどんと同じく美味しいピッツァも消滅するのが早くていけませんね。
かなり早いですが、清潔で広くて快適な上にシャワートイレも愉しめたUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)郊外の宿泊ゲストハウス(Guest House Koliqi)を出発しますね。
オスマン帝国の直接支配はUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)北方のBar/Бар(バール)辺りまでで、オスマン帝国支配の影響が色濃い都市周遊はこれにて終了のようですね。
ひぇ〜、Kotor/Котор(コトル)のバスターミナルで下車しますが、同じリゾート都市であるはずのUlcinj/Улцињ(ウルツィニ)とは全く雰囲気が異なり、欧米系バックパッカーの巣窟となっているようですね。
宿泊予定のアパートに荷物を預けましたので、これからハイパー一般的な?Kotor/Котор(コトル)観光としますね。ヴェネツィア共和国時代に作られたという城壁の頂上から市街や湾を見下ろすのが定番のようですが、宿泊アパートの人曰く、15ユーロの道と無料の道があるとのことですね。
無料ほど高いものはないということで、断崖絶壁をよじ登り、足元や落石に気をつけつつ壁沿いに這って移動…では無く、整備された歩きやすいトレイルルートですね。
トレイルルートは標高900〜1000mほどの峠まで続いているようですが、この先は登りが緩やかになり森林になるようで下界の景色は望めなさそうですので、この辺で勘弁しておきますね。
はるか高台からKotor/Котор(コトル)の絶景を愉しみましたので、今から要塞に入る意欲が失われていますが、とりあえず無料の入口まで行っておきますね。
Kotor/Котор(コトル)の要塞の無料入口?、有料化前は正規のトレイルルートだったような形跡がありますし、Google Mapsの口コミを見ますとハシゴがかけられていて入れるとのことですが、今はハシゴなどは無いようで身長2メートルくらいはないと入場?は困難のようですね。
断崖絶壁に滑落せず、落石の下敷きにならず、Kotor/Котор(コトル)要塞に潜入…無料入場を試みて係員に見つかって連行されず、生きてKotor/Котор(コトル)旧市街近くのアパートに到着ですね。Kotor/Котор(コトル)旧市街、かつてオスマン帝国支配下にあった観光都市と異なり、欧米系観光客の巣窟かと思いましたが、よくよく見ますとトルコからがメインと思われるイスラム系観光客がかなり混じっていますし、中華系の団体観光客も見かけますね。
都市間バスは、えらい峠道を登って、かつてヴェネツィア共和国が支配したJadransko more/Јадранско море(アドリア海)沿岸を脱出するようですね。
かつて正教会の主教が神政政治を行っていたというCetinje/Цетиње(ツェティニェ)に到着のようですね。
Cetinje/Цетиње(ツェティニェ)、街並みがえらいゆったりしていてかつ建物が豪勢で、Ulcinj/Улцињ(ウルツィニ)と同じCrna Gora/Црна Гора(モンテネグロ)の都市とは思われませんね。
Cetinje/Цетиње(ツェティニェ)、都市公園もえらい広々としていて、紅葉と相まって大変綺麗ですね。
Cetinje/Цетиње(ツェティニェ)の一角にJugoslavija/Југославија(ユーゴスラビア)時代から存在すると思われるホテルがあって、Google Mapsにはモンテネグロ航空のフライトがキャンセルになったあわれな外国人旅行者によるホラーなレビューが見られますが、休業扱いになっていて予約や飛び込みで泊まれぬようですね。
Cetinje/Цетиње(ツェティニェ)の人々、歩道に駐車しないと死ぬ病にでも罹っているんですかねえ…