ひぇ〜、とうとうキリル文字オンリーワールドに来てしまったようで、恐れおののいていますね。
1963年の地震で部分的に残った鉄道駅の建物を再利用したМузеј на Град Скопје(スコピエ都市博物館)で、ローマ帝国時代からの悠久の歴史を有するらしいСкопје(スコピエ)のお勉強としますね。
1963年のСкопје(スコピエ)地震の時は、Маршал(元帥)と一緒に親分国?の同志も視察に来られたようですね。
Скопје(スコピエ)、明らかにトルコからと思しき観光客が多いですね。
偉大なるΜακεδονικό βασίλειο(マケドニア王国)の偉大なるἈλέξανδρος ὁ Μέγας(アレクサンドロス大王)の末裔を自任する国家で無くても歴史に対する冒涜と言いたくなりそうな風景が広がっていますが、現在のギリシャ共和国の領土に住んでいる人々もはるか北方の森林やはるか東方の草原でウロウロしていた先祖の末裔が多そうですので、五十歩百歩と思われますね。
とはいえ、Скопје(スコピエ)は20世紀はじめまでオスマン帝国の支配下にあったという事実は否定できないようで、Вардар(ヴァルダル川)の北岸には1963年の地震で被害を受けたにもかかわらず低層の建物で再建された旧市街がありますね。
Скопје(スコピエ)旧市街はトルコ料理のお店が目立ちますが、トルコ人観光客と思われる来客が多いカフェに入ってみますね。
Скопје(スコピエ)旧市街のこちらのカフェ(Class Toast Fast food)、Југоносталгија(ユーゴノスタルギヤ)ならぬTürkçe Nostalji(トルコノスタルジー)な店内ですね。
Скопје(スコピエ)旧市街のこちらのカフェ(Class Toast Fast food)では、Köfte(キョフテ)とÇay(チャイ)のひとときを過ごしますね。
偉大なるΜακεδονικό βασίλειο(マケドニア王国)の本拠地とされるΘεσσαλονίκη(テッサロニキ)周辺は、Скопје(スコピエ)と同様、20世紀はじめまでオスマン帝国の下、トルコ系などのイスラム教徒や、イベリア半島をルーツとするユダヤ教徒以外に、セルビア王国やブルガリア公国が自民族化しようと働きかけていた民族意識が曖昧なスラブ系のキリスト教徒が多く住んでいたようなんですね。
ギリシャ内戦は、強制同化政策を取るギリシャ政府と、北部に多く住んでいたスラブ系やアルバニア系などの少数民族との戦いの側面もあったようなんですね。
バルカン半島のエルサレムと呼ばれていたらしいΘεσσαλονίκη(テッサロニキ)をはじめ、Скопје(スコピエ)を含めたオスマン帝国内にはイベリア半島をルーツとするユダヤ教徒が多数住んでいたとのことで、えらい立派な建物のМеморијален центар на холокаустот на Евреите од Македонија(マケドニアホロコースト博物館)に入りますね。
Меморијален центар на холокаустот на Евреите од Македонија(マケドニアホロコースト博物館)、入場料の安さのわりに洗練されたインタラクティブな展示が多く(撮影は入口付近除いて禁止)、ルーツであるイベリア半島を含めてホロコーストまでは大変参考になる展示なんですが、特定政府か特定政府を支持する個人や団体の支援があるのか、終わりの方は特定政府礼賛な展示になっていますので注意が必要ですね。
Музеј на македонската борба(マケドニア独立闘争博物館)に入りますが、何といいますか、「マケドニア民族」の物語を何とかかんとかして作り上げようという意思だけは感じることはできますね。
Скопје(スコピエ)は日曜閉まっているスーパーマーケットが多いですので開いているところで買い物をして、生きて宿泊アパートに帰着。昨日大変お世話になったトルコからの男女二人組に偶然お会いしてお茶しましたが、昨日別れた後宿泊予定のアパートが存在しなかった!とのことで4時間路上で過ごし通りがかりの親切な方に郊外のアパートを紹介してもらったとのことで、別れる前に連絡先を交換しておけば良かったですね…
Скопје(スコピエ)の宿泊アパート、料金のわりにえらい快適で外出する意欲が薄れるのと、10月からのどこを回るかの検討ということで、昨日は完全休養日としましたね。
昨日は夕方から散歩ということで、オスマン帝国の支配が終わる直前にアルバニア系カトリック教徒の家に生まれ、オスマン帝国→セルビア王国→ブルガリア王国→ユーゴスラビアと目まぐるしく体制が変わるСкопје(スコピエ)で育ったAnjezë Gonxhe Bojaxhiu(マザー・テレサ)の小さな博物館(Спомен-куќа на Мајка Тереза)に赴きましたね。
Скопје(スコピエ)市内はハンバーガースタンドをよく見かけますが、昨晩は宿泊アパートの近くにあるこちらのお店(Fresh Burger House)で作りたてのハンバーガー&ポテトを美味しく頂きましたね。
今日は近隣都市にお出かけですね。Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)そばにあるバスターミナルから出発するバスに乗り込みますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)に隣接するバスターミナルでは、チケットカウンターでの購入時にクレジットカードが使えるのと、カウンターの一角に両替所があり営業時間が長く便利ですね(バスキャンセルで結構余ったセルビア・ディナールの両替で利用)。
こちらの都市間バスは、すぐに高速道路に入らず、Скопје(スコピエ)市街で止まってこまめに客を拾うようですね。
Скопје(スコピエ)西部郊外から高速道路に入るようですが、アルバニア系イスラム教徒が住むエリアなのか、集落にモスクが見られますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から1時間ちょっとで、Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)市街地の外れにあるバスターミナルに到着のようですね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)のバスターミナルそばには鉄道駅の駅舎がありますが、発着する旅客列車は無いようですね。
国家の威信をかけて?良くも悪くもいろいろな建築が作られているСкопје(スコピエ)と異なり、Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)はオスマン様式からいきなりモダニズムに飛んでいてその中間が存在しないように見えますね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)中心市街地に程近いШарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)に到着のようですね。こちらのモスクは1438年に建てられ、1833年に現在ある建物に建て替えられたとのことですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)、これほどまでに個性的な装飾のモスクは初めてですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)に描かれている都市の風景画、モスクの掃除をされていた方によると、イスタンブール(現トルコ)、コルドバ(現スペイン)、モスタル(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)、プリズレン(現コソボ)を表しているとのことですね。
Шарена џамија/Xhamia e Larme(サレナ・モスク)は、猫さんのお食事場所ともなっているようですね。
Тетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)市街には、1538年に作られたアルバニア方面のスーフィズムであるベクタシュ教団の施設?(Арабати баба-теќe/Teqeja e Baba Harabatit)もありますね。
ひぇ〜、Salomonのクイックレースの靴を何世代か使っていますが、初めて紐が切れてしまい、歩行に支障が出ていますね…
へぅ〜、何とかТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)中心市街地の広場にたどり着きましたので、こちらのおしゃれカフェ(Trenditional House)でハンバーガーの昼食としますが、Северна Македонија(北マケドニア)ではおしゃれカフェでもАјран(アイラン)やТурско кафе(トルコ・コーヒー)を愉しめるようでいいですね。
マケドニア系(スラブ系)よりアルバニア系の住民の方が多いらしいТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)ともお別れですね。中心市街地は溢れる自動車でカオスとなっていますし、大阪府内かと思うほどに横断歩道の白線が消えていますし、うどん県民かと思うほどに横断歩道の歩行者知らんぷりの運転手が多いですので、命の危険を感じつつ横断歩道ステージを次々クリアし、何とか生きて再びバスターミナルまでたどり着けて良かったですね。
へぅ〜、自動車に惹かれず、生きて宿泊アパートに帰着。Скопје(スコピエ)市街には今風のショッピングモールがいっぱいあって、Salomonのブランドを扱うスポーツ用品店もありましたが、心なし日本より高めのような気がしますので、他所のブランドのお店で安めのウォーキングシューズを調達しましたね。
たいへん良く清掃されていて、外出したくなくなるほど快適なひとときを過ごしたСкопје(スコピエ)の宿泊アパートを出発ですね。ただ、新築間もないと思われる物件にもかかわらず、一部箇所が壊れていたり、壁が薄いようで隣室の人の声がよく聞こえていましたね…
Скопје(スコピエ)市内はUKから流れてきたとおもわれる二階建てバスがいっぱい走っていて乗車したかったんですが、Београд/Beograd(ベオグラード)の公共交通運賃支払いアプリと異なり、当地のアプリはなぜゆえか電話番号の登録を求めてきて、楽天モバイルはローミング外ですし他にSMS送受信可能なSIMがありませんので断念しましたね。
今日はМЖ(マケドニア鉄道)の旅ですね。1963年スコピエ地震後の復興都市計画において、丹下健三氏によるマスタープランの数少ない実現例であるЖелезничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から出発しますね。
同じ丹下健三氏による旧香川県立体育館と同じく、メンテナンスがされず廃墟化が著しいですが、違うのはЖелезничка станица Скопје(スコピエ中央駅)の方は未だ閉鎖されずに使われていることですね…
マケドニア民族の高揚のために作られる?変な建物や変な銅像に費やす費用の一部でも、公共交通の高揚のために充てられないんですかねえ…
乗車中のМЖ(マケドニア鉄道)の列車、トイレが閉鎖されているようで、JR四国さまの普通列車と同じく、ヴィンテージな?駅のトイレで済ませねばならぬようですね…
平原に出てきたようですが、ハンガリー平原あたりと比べて、ほったらかしの土地が多いような気がしますね。
Железничка станица Скопје(スコピエ中央駅)から約4時間程度でЖелезничка станица во Битола(ビトラ駅)に到着のようですね。
へぅ〜、重い荷物の下敷きにならず、生きてホテルにチェックイン。宿泊料金の安さで選んだようなものですが、鉄道駅やバスターミナルからはちょっと遠いですね。
涼しくなったとはいえ10月に入ったばかりで陽射しは未だ強いのに、もう樹木が紅葉しかかっていて、脳がバグりますね。
Битола(ビトラ)、1912年までのオスマン帝国統治期にはバルカン半島支配の拠点としてСкопје(スコピエ)を上回る人口を有していたようで、街路が曲がりくねった昔ながらの市街が広大ですね。
Битола(ビトラ)市街、19世紀から20世紀前半に建てられたと思しき洋風の家屋が点在していて、昨日訪問したТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)とは明らかに異なりますね。
Обединета Македонија(統一マケドニア)主義者のお宅なのか、Северна(北)が付加される前のかつてのМакедонија(マケドニア)で一時期国旗として使われていたСонце од Кутлеш(ヴェルギナの太陽)を掲げているようですね。
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の南の方に来ますと、偉大なる?古代マケドニア王国の領土に入ってくるようで、Александар III Македонски(アレクサンドロス大王)のお父上のФилип II Македонски(ピリッポス二世)の頃に建設された古代都市の遺跡であるХераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)に到着のようですね。
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)、劇場がきれいに復元されていますが、出土された中世初期の様子を見ますと劇場が宅地化?されていて、いかにも文明の崩壊といったところですね。
Хераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)初期に建てられた大聖堂のモザイクが売りのようで、日本語ソースでは敷地に入り放題モザイク踏み放題とのことでしたが、少なくともモザイクについては進入禁止のようですね。
Хераклеја Линкестис(ヘラクレア・リンケスティス)は犬さんや猫さんの憩いの場となっているようですが、彼らについては敷地に入り放題モザイク踏み放題なんですかねえ…
1847年にオスマン帝国の陸軍士官学校(Manastır Askerî İdadisi)として設立された建物を利用した博物館(НУ Завод и Музеј Битола)で、オスマン帝国統治時期にはManastır(マナスティル)と呼ばれヨーロッパ各国の領事館が置かれたことからKonsoloslar Şehri(領事の街)とも呼ばれた当地Битола(ビトラ)の歴史のお勉強としますね。
おやや、Битола(ビトラ)のこちらの歴史博物館(НУ Завод и Музеј Битола)、オスマン帝国の建物を利用しているのに、中世からいきなり19世紀後半のマケドニア民族云々に飛んでいて、オスマン帝国は完全スルーのようですね…
オスマン様式に由来する当地の伝統建築に関する展示が充実しているのに、オスマン帝国については完全スルーのようですね…
政府の出資を受けているのか、ここだけトルコ共和国が乗り移ったかのような、オスマン帝国陸軍士官学校(Manastır Askerî İdadisi)卒業生であるMustafa Kemal Atatürk(ケマル・アタチュルク)のコーナーがあるのに、オスマン帝国については完全スルーのようですね…
Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の博物館において、Маршал(元帥)はお約束の登場人物のようですね。
Битола(ビトラ)の中心市街地にある南北約1kmの歩行者天国(Широк Сокак)、トルコ語(Şirok Sokak)で広い通りを意味するようですが、かつてはМаршал(元帥)の名前を冠した通りだったようですね。
Битола(ビトラ)の歩行者天国(Широк Сокак)、19世紀〜20世紀前半の豪華絢爛な洋風建築が断続的に建っていて、昨日のТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)とは全然違いますね。
今は取り壊されてしまったのもありますが、Битола(ビトラ)の古の映画館はえらい魅力的ですね。
オスマン帝国統治時期にKonsoloslar Şehri(領事の街)とも呼ばれたБитола(ビトラ)、現在でも10か国程度の領事館が現役で存在しているようですね。
いやはや、Северна Македонија/Maqedonia e Veriut(北マケドニア)の鉄道を利用するついでに一泊ということで訪問したБитола(ビトラ)でしたが、エモい建築がいっぱいで全然見足りませんね…
パルチザンの襲撃に倒れず、生きてホテルに帰着。オスマン帝国統治期のБитола(ビトラ)は、陸軍士官学校以外にも、トルコ語やギリシャ語、ブルガリア語やルーマニア語など、各言語の学校が集まる地となっていたようで、かつてのトルコ語学校がМаршал(元帥)の名前を冠した地域の名門高校(СОУ „Јосип Броз - Тито“ - Битола)になり、未だそのままの名前で君臨しているようですね。
Битола(ビトラ)の方は地域猫活動ならぬ地域犬活動が盛んなのか、耳に何か付けている犬さんが多いですね。
Битола(ビトラ)はТетово/Tetova/Tetovë(テトヴォ)ほどでは無いですがアルバニア系の住人が多く、オスマン帝国統治期末期にアルバニア語の正書法を決める会議の舞台になるなどアルバニアの歴史上重要な都市のようで、オスマン帝国の有名な建築家ミマール・スィナンによって作られたモスク(Ајдар Кади Џамија)もアルバニア系イスラム教徒によって現役で使われているようですね。
オスマン帝国統治期のバザールに由来する伝統市場(Градски Пазар)に来ましたが、もう少し遅い時間帯に来た方がいいんですかねえ。
Битола(ビトラ)、目抜き通りのШирок Сокак(シロック・ソカック)だけでなく、Стара Чаршија(スタラ・チャルシヤ)の建物もまた魅力的ですね。
Битола(ビトラ)のСтара Чаршија(スタラ・チャルシヤ)の朝早くから営業している老舗と思われるレストラン(Гостилница Бриони)で朝食を頂きますね。
慌ただしくБитола(ビトラ)市街の宿泊ホテル(Хотел Булевар)をチェックアウトしますが、もう1泊すれば良かったですね…
バスターミナルから宿泊ホテルまで結構遠かったですので、宿泊ホテルの人に呼んでもらったタクシーでバスターミナルワープして、都市間バスに乗車しますね。
Битола(ビトラ)のバスターミナルから約1時間30分でОхрид(オフリド)に到着のようですが、Битола(ビトラ)のと比べますとえらい新しいターミナルですね。
他国行きの都市間バスは、Охрид(オフリド)バスターミナル周辺のバス会社の建屋で買わねばならぬかと思いましたが、ターミナル内のカウンターで購入できるようで良かったですね。
猫さんに見とれて自動車に惹かれず、生きてОхрид(オフリド)中心市街地に程近い宿泊レジデンスに到着ですね。