ロシアの件意味がわからない...
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
天野知香さんの「装飾と「他者」」(『デザインの力』に掲載)、おもしろかった。
「宗主国である西洋諸国は植民地の産業振興の一環としてその工芸に注目し、調査、育成に力を入れた。しかしそこには、ロマン主義的なプリミティヴィズムにおける非西欧への小計の陰画を成す形で、ダーウィニズムに基づく進化の時間的過程を地理的な差異に重ね合わせて、非西欧に「野蛮」や「未開」を、西欧に「文明」をあてはめ、文明化された西欧は、「野蛮」な他者に対して「文明の伝道」の使命を負うとの考え方をもとに、その政治的経済的社会的な植民地化を正当化する理念が存在した。」
あー、これ本になっているのか。値段ひどいことになっているが...。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784434253454
当時のハード限界に挑戦する話、大好き。
『タクティクスオウガ』のマップはなぜ、圧倒的なクオリティと規格外のボリュームを両立できたのか? その裏には業界最古のゲームエンジン「HERMIT」の存在があった
https://news.denfaminicogamer.jp/interview/230626c
https://business.safety.google/adsprocessorterms/
Google 広告データ処理規約 (Google Ads Data Processing Terms)
これ、GDPRの概念と適用の勉強になるな。
取次というビジネスは実質的には流通コストの圧縮によって成り立っているとおもうのだけど、そのインフラがアマゾンなどの事業者によって代替可能になってしまっている。
情報の電子化にしても、そっちのほうが手軽だからとか慣れているからっていうことではなくて、流通のコストがかからないっていうのがデカい
美術における様式という概念、すっかり古びて不要になったものとおもっていたけど、さまざまな文化事象における style の統一こそが様式という概念の意味するところだったわけで、これ現代では各企業がブランドデザインの名においてやろうとしていることそのものだな。
(ゴシックとかバロックとか、そいういうのは建築やら彫刻やら文学やらの各表現媒体を横断して表明される特徴的な様式 style があるとされる)
いやこの古びた概念を復活させたいなんてことではないんだけども、むしろ、現在の企業がやっていることから省みると、19世紀末から20世紀初頭にかけて様式論が発達するのは、そのとき「様式」概念で捉えようとしていたのが国家の様式とか民族の様式とかだったわけで、当時は国家や民族とは、(ある意味では現代の企業のように)ブランディングしていくべきものと捉えられていたわけだ。
20c初頭に、ドイツでデザインの議論が発達するのは、第一次大戦前夜にドイツが植民地を拡大して販路開拓しようとしていたからだけど、そこで「ドイツ的な様式」が求められていた。ドイツというのは一個の企業のようなものとして了解されていたわけだ。それにたいする反発こそがバウハウスだったとおもうが。
杉本俊太氏は「様式」から「造形」に問題が変化したと論じるけど、そうではない。様式という問題はあきらかに残存していて、デザイン言語とかの領域で具体的な実践になっている。
様式の担い手が国家とか民族とかだと思われていたが、「ゲルマン的本性」みたいな話になると、それはもうデザインの問題ではない。デザインとは構築されたものなのだから、ゲルマン的本性がデザインされてしまうとそれは人工物だということになる(人工物だが)。
「様式」というものが、徹頭徹尾人工物なのだという了解がなければ、それはデザインの対象にならない。コーポレートアイデンティティとかは人工物と見なされても誰も悩まなかったが(企業の人口性なんて誰でもわかるし)、国家が人工物だってバレてしまうと国家は困ってしまう。「民族」も同じように人工物のくせに人工物ではないと振る舞わなければならない概念だ。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
@pokarim 電子取次という業態じたいは今もありますね
https://www.jepa.or.jp/ebookpedia/201511_2714/
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
@pokarim 自分も実態がよくわかっていないのですが、取次ビジネスが危機的なので取次がわとしてはやらざるを得ない状況だが、基本的には不要な存在には見えます。電子取次が出てきたことで、取次ビジネスの再定義をしようとしているように見えるのですが、従来の取次に比べると付加価値を生み出す基盤は脆弱だと感じます。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
ソースコードへのコメントはプログラム構造に沿った形の記述しかできないので「過去にぜんぜん違う構造だったコードについての評価と解説のログ」みたいなのは残せない。そういう点でやっぱりソースコードそれ自体はあくまで(日々変化する環境の中に身を置くプロジェクトの) スナップショットでしかなくて、時間という構造に沿ったコメントとしてのコミットログは代替できない価値を持っているように思う
コミットログ、実際の作業経路とは異なった形で再構築することがけっこうある。インデントを揃えるのは単独のコミットで、そのあとにコードの修正を別コミットでやるとか。diff としての見易さにそって再構築する。
私も基本的に feature ブランチみたいなのはどんどん rebase/fixup/edit していって、意味的に小さくまとまったきれいなコミット群として再構築してから merge するようにしている。こうすることでブランチ全体のレビューを個々のコミットのレビューへと分割できるようになる (もちろんその際分割が適正か、悪意がないかは別途疑う必要はあるが)
「コードを読む」ということと「差分を読む」ということで、ピックアップしたい情報の性質がかなり違っているとおもう。コードを読むときにはコード間の関連とか論理的な仕組みとか読んでるとおもうけど、差分を読むときに読みたいのはビジネス的な経緯なんじゃないかな。
とはいえ、ヒストリがもう少しコードベースと統合された感じになっていてほしいというのもわかるにはわかるんだよなぁ。現状いろいろなものがソースコードに対してメタな存在でありすぎる (典型的には ticket tracking system のチケット)
わかるけど、ソースコードから見るとビジネスとかなんとか、いろいろソースコード外部の存在なのは間違いなくて、コード表現が必要ないものもたくさんある。コード上には変化があらわれないが、ビジネスとしては位置付けが変わっており、コードから読みとられるべき意味が変わってしまうこともあるとおもう。
プーチン、あいかわらず西側の責にしているけど、敵を外部に設定することで結束を強調するのってけっこう古典的だな。
内部の結束があまりに脆いことを露呈した事件だとおもったけど...。
https://www.bbc.com/japanese/66017202
戦争、敵を作りだすことによって、内的な分裂に統一をもたらすのが目的になることが多いな...
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
発生した不具合の調査レポートを書くの、
物語の謎解き回を書いてるみたいで結構楽しいんだよね
他人が仕込んだバグだからw
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
URLが場所にリンクするようになった経緯、なんだろうな。そもそもコンテンツIDのようなもの(コンテンツIDがあるコンテンツを指ししめす)であるべきだったとおもうんだけど。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
URL、「こちらの図書館にはこの本がある、こちらの図書館にはない(404)」みたいな仕組みになってしまっていて、そうじゃないんやISBNみたいに「この本」を指し示す記号がほしかっただけなんやってなる。
それがURNだけど、あまり使われていない。
@pokarim
学術論文だとDOIの使用がかなり一般化されていると思いますが、他はそんなことないのかな。。
https://jp.service.elsevier.com/app/answers/detail/a_id/26892/c/10546/supporthub/sciencedirect/
DOIはわりと上手くいっているとおもっていて、この仕組み参照すればいいじゃんとおもっているけど、他にはほとんど展開されていない。DOIは業界団体が管理しているのもあるとおもう。
たぶん原因はSEO的環境(Google経由でのブラウジング)にも問題あるとおもっていて、ドメインやURLの固有性を育てるというゲームになっている。
GoogleのPageRankは学術論文の被参照をモデル化したはずだけど、微妙な食い違いを見せているのはなんだろうなと気になっている。
ザナドゥ計画はともかく、1991 年時点でハイパーリンクという概念自体についてとりあえずデモ実装して動いてるところ見せます、で「場所の識別子をクリックしたらその場所自体にジャンプします」が見せられればよいのだから、そこで使われるかもわからん謎の抽象化ができると思うほうがかなり困難な想定な気がする
これはそうだけど、発展の途中でURNの議論が発生して場所の論理とコンテンツIDが明確に区別されたのに、URN的な発想を仕組みとして組み込むみたいな方向にはあまり発展しなかった。まじでこれからなのかもしれない。
既存の文書群の URL を URN なり CID なりにコストかけて置き換えてまで嬉しい人が商業上とくにあんまり居ない、につきるのでは。技術や体系として理想なものが使われるのではなくて、インセンティヴがあるものが使われるので
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
先日来、本を買うなら浮世絵も買っていいのでは??みたいな気持ちであぶない
文フリ、表現への欲求ってこんなにあるんだって素朴に感じられるのがいいとおもうけどな
@polidog 利益率どのくらいなのかっていうこととか、このソフトウェアから上がってくる利益をもとに別なサービス/ソフトウェア領域に投資するかどうか、みたい話が前提にないと、経営的なインパクト評価できないとおもいますね
明治以降の日本の絵画の歴史、未開拓領域でかすぎてまじめに研究すると楽しそうだなー。手出しできるような知識がまるでないけど。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
さいきん買った浮世絵が画帖になっているんだけど、これをパラパラ捲って角度を変えたり触ったりしながら見るのがなんとも楽しくて、鏑木清方が「卓上芸術」を目指していたというのを読んで、「ああ、わかる」ってなった。展示芸術じゃないんだ。
直立した身体が壁にかけられたイメージを見るということと、椅子に座って絵を手にとって見ることとは、ぜんぜん違う。光の感じ方が違うし、色も違う。
@hidetakasuzuki つねに光に当たっているわけじゃないしね。おれが買ったのは若干カビっぽさあるけど。
このテキスト自体についてというより、こういうのを業界っぽい人たちが喜ぶ姿が、なんかなーっておもってる。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/eugene-studio-review-202306
日本におけるキッチュという問題は丁寧に考える必要があるとおもうんだけど、アカデミズムはけっこうキッチュなんだよな。まあアカデミズムというのはそもそもキッチュと相性がいいけど。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
日本の近代絵画のケースについて考えているけど、そこでの近代化は制度的に芸術を受けいれることだった。それで美術大学と画壇が形成された。その流れと独立に江戸絵画の流れがあり、これは職人的な前近代的世界だけど、はっきり自律性をもったもので、完成度も高い。
漱石の内発的、外発的という話でいえば、制度的な芸術というのは外発的なものだけど、かといってではこの職人的絵画の世界に「内発的」発展なるものがあったかというと、無いとおもう。師弟関係のなかで、それぞれ独立した優れた画家が生まれてきただけだ。漱石の「内発的」発展こそが近代化なんだというのは、まさしくドグマであって、これは「まともに近代化していない」論の原型をなしているとおもう。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
AIについての基本書、古典でもチューリングの論文とかノイマンの講演とかふつうに和訳があるんだが...
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
労働者に残業させるには36協定を結ぶ必要があり、協定なしに時間外労働させるのは違法です
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
うちの親は、未だにロシアのことをソ連と言います。「ソ連のプーチンが」とか言ってしまいます。
レーニンは資本主義勢力には分裂を、共産勢力には団結を促すということをやっていたけど、プの言説をきくとそういうやり口をおもいおこさせるものがあって、いまのトランスヘイト言説とかも露が煽ってるんじゃないかと疑っている
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
イラストの歴史、ちゃんと系譜辿っていくと、いまの絵師でも浮世絵の跡を辿ることができる場合がけっこうありそう。
橋口五葉の三越呉服店ポスター
橋口五葉 - http://samomary.livejournal.com/33240.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
浮世絵木版画の復刻についての記事、おもしろかった。これ note に書いてるのもったいないな。
https://note.com/ukiyoe_shimoi/n/nc6094cf0e1b6
この記事で嫌なのは、ラウシェンバーグやコスースやデュシャンにはカフェインが入っているってなってるところなんだよな。それらの権威性は疑われていないどころか、ユージーン・スタジオがその身振りを利用して「大仰に飾り立てる」ように、この記事ではそれらの権威は利用される。この記事に快哉を叫ぶ人たちは自分が権威の側に立って「ニセモノ」を排除できるからなわけでしょ。
デュシャンもラウシェンバーグもコスースも全部ニセモノでもおかしくないわけじゃないですか。でもそう批判はしないわけですよね。
この記事で良かったのは文体で、それは圧倒的に良かった。趣味でも倫理でもなく丹念に悪意を込めていくやり方は、内容云々と無関係に、暴力的ですごいと思う。
田中功起のこういうエクスキューズを含んだ言い回しは、軽蔑する。
https://twitter.com/kktnk/status/1674060518057820164
この人は、以前も目が菅原氏の記事で批判されたときにもおなじように振る舞い、かつ本人たちの異議申し立てにたいして、ずっとマンスプレイニングみたいなことをしていた。相手を子ども扱いすることによって、自分は理解のある大人、相手は理解のない子どもという立場の違いを作りだしていた。
二度も同じようなパターンを見て思うが、田中功起は「自分はわかっている(から批判されない)」ところに自己のポジションを配置することに長けている。批判されてものらくらやりすごせばいい。そのためのエクスキューズはやっておく。自分は批判されないが他人のことは批判できるポジションをつくる。
だからこの人は「大なり小なり」というヌルい言い回しでお茶を濁す。自分のポジションが問われると困るから、グラデーションにしておく。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
批評の批評というか、ある業界が、あいまいな判断を元に村的な社会を形成しつつ、その村を維持するため、批評という装置が村の掟を繰り返し述べるという状況はあるように感じていて、「批評の批評」がでてきがちなのはそういうところな気はする
菅原さんの記事も、「ホンモノ」と「ニセモノ」を区別するための不文律があり、ニセモノを排除するためのロジックになっている。それは目のときも全く同じだった。そういう振る舞いは防衛的に見えるし、事実上そのように機能している。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
前田愛 加藤秀俊『明治メディア考』おもしろい。
https://amzn.asia/d/bgp8mra
明治期は江戸からの延長でまだ読み書きが浸透しているわけでもなく、言葉は音声中心だった。新聞を売るのも、辻に立って内容を一部読んで聞かせていた(これが「読売り」というらしい)。それが、明治3年の横浜毎日新聞の紙面とかを見ると「表」のなかに言葉が配置され、言葉の視覚化に一役買ったはずだ、などなど。
田中純さんの「酷評ではなく批評」みたいな言い回し、めちゃくちゃもやっとするな。批評だろうとなんだろうと酷評なのは変わらないが、酷評をわざわざ「批評」と呼びなおすのは、それこそ空疎な権威的身振りでしかない。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。