中平卓馬、近美でやるのか
https://www.momat.go.jp/exhibitions/556
北野圭介「ポストアートセオリーズ」、内容はともかく文体にウッてなるな...
2010年にクラウスがポストメディウム論を打ちだし、その8年後に「自分はポストメディウムの時代だと謳っていたが、メディウムについて改めて真剣に論じなければならない」と発言し、ポストメディウム論の批評的立場を転換したとか書いてあるけど、そもそも1990年代後半くらい(?)からポストメディウムについて語っていたはずだし、最初からメディウム論にたいする否定的な媒介として位置付けられているはずで、立場の転換なんてしていない。
@ttt_cellule まだ第一部読み終わってないんですが、ポストモダンがぜんぶ記号になってしまって、それは資本主義と相性よかったみたいなことを言ってるところで「ええっ2021年にそんな雑な整理でいっていいの??」とはなりました。相性のよさというのも、かんたんな分析もあたえずに、芸術の記号的な読解と商品の記号性が似ているみたいな物言いが、マッピングにしても掘ってなさすぎていいのかこれってなってます。
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@ttt_cellule このへんの流れ不勉強で理解できていなかったんですが、自分が最近考えていたタイプの言論は社会構成主義と呼ばれるもので、それに対する批判として新実在論や新唯物論がでてきているっていう流れなんですね。北野氏の叙述の背景は理解できました(雑という理解は変わらないですが...)。
個数の限定って、何を目的にするかにもよるけど、情報の保存とかからするとロバストじゃない気がするけど、どうなんだろうな。
https://mediado.jp/service/6094/
@yuriha 電子書籍でも二次流通を形成できることは意味なしとしないですが、現状では分散DBである理由はまったくないですね。
批評空間「ポストコロニアルの思想とは何か」(1996)に掲載されていた大越愛子さんの「「従軍慰安婦」問題のポリティックス」を読んだが、かなり強烈だった。
近代国家による性管理と植民地主義下における民族浄化とを繋げて、そこから「従軍慰安婦」問題の意味を論じている。この論考で触れられているクマラスワミ報国にたいして、菅官房長官が2014年に撤回を求めているというのだから、この問題は、大越さんの議論の妥当性いかんに関わらず、ずいぶん矮小化されてきたのだなとは理解できた(証言に疑問があるとかそういうのは議論の細部にすぎない)。
自分自身が、この「従軍慰安婦」問題について、理解することも考えることも無意識に避けてきたとはおもうけど、平手打ちくらったような感じだ。
本で「来曾有」という記載があり、もちろん「未曾有」の誤植だとおもうんだけど、これはどうやったら発生する誤植なんだろうか。
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松井みどりさんの赤い本読んでいないけど、このダントーのテキストは元ネタなんだろうな。ダントーのポストヒストリーの概念、マイクロポップっぽい。
ダントーの「アートの終焉」読みおわったが、これは自分が20年くらいモヤモヤしていたものの元かもしれない。いま細かく分析する気にはならないけど。
@BLUE_PANOPTICON ダントーの言う「ポストヒストリー」はヘーゲルが考えたような意味での歴史、進歩を孕んだものとして記述可能な歴史のことで、この意味での歴史記述がもはや可能ではない(それはすでに歴史が終焉してしまったからなのか、進歩という概念がもはや無効になってしまったからなのか、ダントーはちょっと濁している気がしますが)、という意味で、「歴史以降」なので、たぶん李氏さんのおっしゃる「脱歴史的」は指示対象が違うかなとおもいました。
ただ、李氏さんの投稿は、ダントーのテキストとは独立に、しかしどこか隠れた関係があるようにおもわれ、興味深い投稿だなとおもいました。
ダントーはいわゆるアートワールド論で有名で、それは「アートワールド界隈の人間の認識があるオブジェクトをアートだと見做すからアートになる」という、雑にいえばそういう話ですが(ちなみにこれは厳密にはダントーの見解そのものではなくジョージ・ディッキーによるものですが)、この見解は、ちょうどクリフォードが言うような制度としての美術館・博物館、および美術史学と人類学のオブジェクトの分類システムと、形式的には似たものでありながら、まったく別な制度論として成立しています。
クリフォードは、ある文化がどのようにして他の文化を取り込み、あるいは逆に取り込まれ、反発しあいながらも混じり合い、といった過程において制度が果たす役割を分析したとおもいますが(具体的な力関係も視野にはいっている)、ダントーのなかにあるのは、あくまで芸術の成立条件について問うもので、その意味において芸術を取り巻く制度論をやっている。この点からすると、ダントーの制度論は、制度にたいする批判的な視線を持ちようがなく、彼の分析は、鑑賞者があるオブジェクトを芸術だと認知するための仕組みに制度が機能するあり方です。
李氏さんの対立も、若干違った視点ですが、つまり、芸術の内部からみた問題設定と、その外部から芸術の制度性について扱う、という対立としても整理できそうかなと感じました。長くなってしまった...。
ダントーの「アートの終焉」と「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」がどちらも1984年で、このときダントーもルービンもアートの制度の内側からしか物を見ていないとおもわれる。
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温マさんのマインクラフトの動画見てたら、なぜかすげー気持ち悪くなってきた
@polidog 瑞牆山いったことないけど良さそうですね、ここにしましょう。さいきん運動してなさすぎて体力どうかわからないですけど。
美術史学が扱った様式論は、その同時代の美術にではなくて、デザインのほうに理論的な対応物を見つけることができそうだな。