大越愛子「フェミニズム入門」読んでる。日本のフェミニズムの章に入ってずいぶん解像度があがるな。
バウハウス的なデザイン観だと、個別的な媒体の研究と、それをうまく秩序形成していくという二段構えで、初期にアレコレの事情がありつつも手工親方と形態親方の種別を形成したのも、素材にたいして形式を与えるという古典的な観念にしっかり則っている。
これじたいは現代でも通用するデザイン観念だとおもうけど、こういう考えでいくと、形態訓練としてのデッサンとかが横断的な技術として把握され、素材をどうやって分類するかという話になってくる。バウハウスでも専門がわかれるのは当初は素材の差で(金工とかテキスタイルとか)、「インダストリアルデザイン」という観念も、近代的な産業と前近代的な手工業の差は素材の差だと把握するようなカテゴリーになっているとおもわれる(これは現代の美術大学でも見ることができる区別だ)。
現代ではこのデザイン観念ではうまく機能しない場所があきらかにあるんだけど、それを上手く説明できないな。
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オンデマンド印刷だからってこれはないっていうクオリティの本が来たけど、さすがに返品するかな...
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各種趣味、維持費を安く済まそうと思えばいくらでも方法あるけど、ついついお金をかけたくなっちゃうものだと認識してる
いまさらこれの動画を見て、暴力そのものだった。これが地裁で暴力行為と認定されなかったというのは信じられない。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/255090
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(翻訳) Trelloは何が違うのか by Joel Spolsky https://matope.hatenablog.com/entry/2013/12/04/015202
次の二週間、私たちは数十のExcelの顧客の元を訪れたが、Excelを実際に「計算」と呼べるもののために使っている人間はどこにもいなかった。彼らのほとんど全員は、表を作るのに便利だからExcelを使っていたのだ。
スプレッドシートは単にwhat-if分析をするための道具ではない。これらは特定のデータ構造を提供する。表だ。ほとんどのExcelユーザーは式を入力しない。彼らは、表が必要な時にExcelを使う。再計算などではなく、罫線こそがExcelの最重要機能だったのだ。
デザイナーが想定した「ソフトウェアの本質」みたいなものは、そもそもけっこうどうでもよくて、ユーザーは自分の前にあるモノゴトを記述・表現したい、というときに、その枠組みを提供してくれるソフトウェアを利用する
みたいな話
ジョエル・スポルスキのこの議論は、ソフトウェアのデザインについてのかなり重要な洞察だとおもっているので、ちゃんと敷衍してみたい気持はある(できていない)
自分はマークダウンのつもりで投稿していても、マストドンのUIからはマークダウンになっていなかったりするな...。引用のつもりが自分の発言っぽく見えてしまう。
@noellabo なるほど、ありがとうございます!つい自分の楽だからマークダウン記法を使ってしまうのですが、誤解を避けるのであればやめたほうがよさそうですね。
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最近バウハウス関連のテキストを読んでいましたが、バウハウスのような「デザイン」という観念の出発点と考えられている場所でも、この種の本質主義に根差していたとおもいますね。
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さいきんはデザイン史を調べていて、まさに "design history" か "design studies" かという論争が(一部に)あり、デザイン史と現代のデザイン実践の乖離みたいなものがかなり意識されていた。
バウハウスのような、デザインのモダニズムという大きな枠組みがあり、その陰画としてのポストモダンデザイン、という一時期支配的な語りがあったけど、その枠組みだと、たとえばソフトウェアデザインとかはどうやっても入ってこない。
モダニズムという強固な物語もありつつ(モダニズム期に形成されたカテゴリーは実際に学部とかに反映されるから、語り自体がけっこう具体的な力をもつのだけどそれはともかく)、他方に「一般デザイン学」みたいな観念を提示しようとする方向もあり、これは個別研究という方向ではなく体系化に向かうもので、モダニズムに近いという印象がある。歴史的現象としてのモダニズムというより、モダニズム(バウハウス)が抱えていた体系化への意志というか。
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ドラえもんの空き地って私有地だったとおもうんだけど、もうああいう私有地の使い方はありえない気がする。
排除アートをSM用具に誤用する、とかは、この手の話とかなり繋がっているとおもっている。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AWdl9Pz4RvD52nrDSS
デザイナーが込めた意図とは無関係に、モノは開かれた存在だけど、排除アートが排除しようとするものは、「デザインの意図」の外部そのもの。排除アートというのは進めていくと、意図に満ちた空間ができあがるはずだとおもう。
モノを、それが作られた意図と違う用法に開くときに公共性が生じるのだとおもう
排除アートは、ホームレスの住処やスケートボーダーの遊び場を奪うという意味だけで問題なのではなく、ふつうの人がモノを誤用しなくなるような認知体制を作りだす、そういうデザインのトレンドだという点でかなりの問題がある。つまり、モノにはなにかの意図があり決まった用途があると認知するようになる。
道路は「移動するための場所」だから、地べたに座り込むのは誤用だ、という認知を生みだすこと。そのように、誤用を無くすようにデザインされていくこと。
文化盗用の話。
資本主義的な過程のなかで、モノの文脈が抜けおちていくこと自体に違和感があるってことなんだろうなーとおもいながら聞いている。
https://www.youtube.com/watch?v=vBpevpJNlDE
「アイヌ文化」という形で、境界付けられた「文化」というものも、資本主義の発達過程で生じるものという感じもある。マユンさんがもやもやしているのも、なんかそういう認知の枠組みのなかの「アイヌ」という問題な気はする。
「アイヌ」という名でもって客体化される仕組みが存在する、ということなんじゃないかと思ったり。これはアイヌに限ったことではないだろうけど。「和人/アイヌ」という区別は関係のなかで生じるけど、こういう関係を離脱した「アイヌ」という概念というかイメージというかが成立している、というような。
マイノリティを実在的な対象をもったカテゴリーだとする操作が、いろいろ問題をひきおこしているんじゃないかという気がする...
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この記事に的外れな批判をしている人みたけど、実際「デザインは問題解決だ」っていう図式はここ20年くらいで浸透しているはずで、それの起源に人間中心設計とダブルダイヤモンドがあるんだけど、それより前がわからないんだろうな。デザイン史的な思考の欠如というか、それ以前の言語が切断されている。
この記事で肯定的に言及されているジョナサン・アイブとかはもろにモダニズムデザインなわけで、そういう文脈差についての言及なのはすぐわかるんだけど、それが読めないのは、(それがポジショントークでないのなら)デザイン思考とモダニズムとの切断にあって、前者によって「デザイン」の概念が書き換えられた人たちが読むとそうなるんだろうな。
あらためて読んでみても、読みまちがえる理由よくわからないな...。
ジョナサン・アイブがやった筐体デザインみたいな「象徴的な」仕事抜きにAppleは「デザインの力」を訴求できただろうか?デザイン思考からはそういう象徴的な仕事がでてこなかった、それはデザイン=問題解決という図式を作ってきたからだ。くらいしか言っていない。アイブの筐体デザインは問題解決ではなかったし、かつてデザインとされてきたものもそうだった、という主張にしか読めないんだけど。
これが共訳不可能性か...。
>ジョブズの有名な言葉で「アップルは、テクノロジーとリベラルアーツの交差点にある」というものがある。ここ10年、デザインはテクノロジーにより過ぎて、リベラルアートの側面をおろそかにしているのではないだろうか。
とあるけど、おろそかにしているというか、まさに「デザイン」というジャンルの起源にあるアートを切り離す作業が、認知科学によるデザインについての議論だとおもう(ノーマンがこういう文脈でフランク・ロイド・ライトを馬鹿にしている)。
アートという出自に戻るのがいいかというと、ぜんぜんそうは思わない。ジョナサン・アイブもそうだけど、アートとかモダンデザインひきずっていると、いまだとどうやってもシミュレーショニズムになる。
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これ、象徴にたいするテロリズムであって芸術作品の破壊ではないから平和的な活動だとおもっているんだけど、問題はメッセージがまるで伝わらないという
https://news.livedoor.com/article/detail/24428309/
デュシャンがモナリザの絵葉書にヒゲ書いたのと戦略的には同じで、ダダイズムの再利用っぽさはあるんだけど、どこにどう伝わるかというと、まあ、うーん。たぶん、批評がでてこないと、当人たちが考えているメッセージが解凍されないとおもうけど、でてこない気もする。
ガラスケースに守られたモネの上に、鮮烈な赤のレイヤーを加えるという絵面づくりはそんなに嫌いではないんですよね。
環境活動家によるアートへの攻撃の記事、ここがかなりまとまってるな。こんなにあったんだ、というのと、ほとんどが Just Stop Oil によるもの
https://artnewsjapan.com/article/612
活動家へのインタビューで、アイウェイウェイの「Dropping a Han Dynasty Urn(漢代の壷を落とす)」からの衝撃について語られている。
https://artnewsjapan.com/article/338
この記事は美術館でおこなわれたディスカッション。wokeness って言っちゃってるのはいいのかな...というのと、せっかくならアーティストとか批評家とかも呼べばいいのに、とはおもった。
https://artnewsjapan.com/article/518
> ハントはこう語る。「私が心配しているのは、抗議行動に関わる活動家たちのニヒリスティックな発言だ。彼らは、危機が迫っているのだから芸術どころではないだろうと言うが、それには賛同できない」
> そしてこう続けた。「彼らの言葉から透けて見える危険な兆候には懸念を覚える。今は壁にかけられた絵より重要なことがあり、美しいものや、アートを通した気候変動への批判はムダだというような考え方には」
これとかは、作家はどうおもうんだろうな。作家にはかなりグラデーションあるだろうけど、この美術館館長の発言は、アートを制度に囲いこむ発言にも見える。
これはよくわかるな。アート業界からはこういうのあんまりでてこないとおもうけど...。
https://twitter.com/take4luckylong/status/1588790488781717504
この記事、以下がもっとも興味深かった。
「合意は待つに値しない。(…)重要なのは、行動に移す者がいることだ。2006年、政治学者のエリカ・チェノウェスは、非暴力が暴力と同じくらい政権交代に効果的かどうかを確かめるべく試みた。彼女自身も驚いたことに、非暴力の戦略のほうがうまくいくということがわかった。人口のたった3.5%ほどの人たちが抵抗すれば非暴力的に政権を倒すことさえできるという(…)言い換えれば、変化を生み出すためにはすべての人が合意する必要はないということだ。ただ、一部の人が情熱的に賛同して寄付をし、選挙運動をし、デモに参加し、ケガや逮捕のリスクを取り、投獄や死の可能性を覚悟すればよいのだ」(『それを、真の名で呼ぶならば』レベッカ・ソルニット著、渡辺由佳里訳、岩波書店)
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河本真理さんの2020年の『美術史学/フェミニズム/ポストコロニアリズムのインターフェース』という論考に、以下のような記述がある。
「今日、とりわけ欧米のアカデミズムでは、フェミニズム/ポストコロニアリズムの視点に立つ美術史は重要な位置を占め、それを無視することはもはや不可能になった(もっとも、日本のアカデミズムの状況は、欧米のそれとは大きく異なる)。」
これについての脚注が「残念なことに、日本ではジェンダーの視点を美術史に導入することは容易ではなく、欧米のアカデミズムにおける影響力とは比べものにならない」とある。
まあそうですよね、としか言えないけど...。
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モネの絵のガラス面に絵の具(?)をつけることだったり、レインボーフラッグを燃やすことだったり、イメージにたいする破壊という行為の、いろいろな文脈差と社会のなかでの読解可能性について、繊細な論点がたくさんありそう。
Rúrí さん、知らなかったけど、アースワーク系の作家なんだな。虹をモチーフにした作品は2つあるっぽいけど、燃やしているやつは、誰も虹を掴むことができない、現象としての性質に関心があるということと、それが抱える文化的な意味の強さ。
https://ruri.is/
今回の件で、興味深くおもったことの一つは、イメージの意味の読み替えで、Rúrí さんの作品は現在の意味でのレインボーフラッグを意味していなかったとおもうけど、それを文脈を変えて別な意味を作りだしている。完全にネガティブな意味に読み替えているし、それを社会で流通する記号として利用している。
この意味の乖離に疑問がでて Rúrí さんの作品をざっとステートメントとか読んでみたけど、そうするとこちらでは、人間がいかにして自然とかかわっているか、虹という記号と虹という現象の関係が問われている。人間が虹を記号として把握する一方で、自然はそこから逃れる。
こういう記号と実在の乖離という関係において作られるメッセージが、環境活動家のアートをターゲットにした活動と構造的に似ているのではないかと感じる。それが、作品そのものの外部でおこなわれていることも含めて。
Rage Against The Machineの1stのジャケットが仏教の攻撃だと読むのかって言っている人いるけど、あれを読みまちがえる人はいない。バンド名(=アルバムタイトル)と写真を合わせて、焼身自殺した僧侶の姿が抵抗の象徴だというのは、見間違えようがない。ここには写真とキャプションの関係が成立している。
今回の場合、そもそもレインボーフラッグ自体が一つの象徴であり、それを燃やすという行為も、象徴への破壊として読むのはある程度一般的である。アルバムジャケットに採用するくらいだから、「レインボーフラッグを燃やす」ことを象徴化していることはわかる。ただ、この象徴化は、キャプションがないため意味が宙吊りされてしまう。
結果的には、本人の言明がキャプションの効果を持ったけど、そのように意味を収斂させていくことは意図していないとおもう。インタビューはあきらかに作品の外部だし。
@BLUE_PANOPTICON まあ、作品外で意図の解説するくらいならレイジみたいにタイトルにしてくれとはなりますね。
今回のイメージ戦略は、一般に知られるネガティブなイメージと、ビジュアル自体の美しさに引き裂かれつつ意味が宙吊りされてしまう、というのが、個人的にはおもしろい戦略だなと思いました。
デザインの対象領域を、建築空間内部(インテリア)、建築空間外部(ストリート)、メディアという領域におおざっはに分類するのは筋が悪くなさそうにおもえる
バウハウスもめちゃくちゃざっくり言ってしまえばファサードの話はもういいやろ、建築内部の必然性からボリューム作ろうやって話だし、家具のデザインに注力していたのも一貫性ある。
ただ、モホイ=ナギみたいなグラフィックデザインの先祖がいて、メディアのデザインにおいても先駆的だったのがバウハウスという運動の性格を難しくしているのはそう。