ロシアの件意味がわからない...
"東京のMorc阿佐ケ谷で14日から公開中の長編ドキュメンタリー「ユーリー・ノルシュテイン 文学と戦争を語る」の中で、ロシアアニメの巨匠ノルシュテインさんはこう語っています。「話の話」を、「霧の中のハリネズミ」を作った人が! 全く信じられないことです" https://digital.asahi.com/articles/ASS6P13PVS6PUCVL02RM.html?ptoken=01J142HVFDTTWZ031RYBTYN1DB
ノルシュテインはまあそうかという気がする、初期に国策っぽい作品つくってなかったっけ?
https://digital.asahi.com/articles/ASS6P13PVS6PUCVL02RM.html?ptoken=01J142HVFDTTWZ031RYBTYN1DB
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ラムダノートさん、「著者による直接販売」(=同人)ではなく、ふつうに出版社なんだけど、べつに取次なしで直販している。これがビジネスとして成立するのであれば、やっぱり出版産業には取次が不要だろという話で、「軽出版」という概念はもっと展開してよさそう。
https://bsky.app/profile/golden-lucky.net/post/3kvogbyuywh2m
@ttt_cellule 雑誌の全国配布とかが取次のおもな存在意義で、そこに送料を圧縮する形で出版物が乗る形だったのが、雑誌がもう将来性ゼロなので取次もやっぱり存在意義が問われる。だからといって、出版や書物に価値がなくなるわけではなく、コンテンツに価値があって確実にニーズがあるものを出していけば、適切な発行部数を維持する限り、ビジネスとして成り立つサイズがたぶんあるのですよね。
今後は新書とかは怪しくなっていくかもしれませんが...。
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地産地消みたいなのに興味あるんだけど、同人活動が(ある程度)身内で売っているのは、地産地消と概念的に近いイメージがある。
友人の同人誌を買うというのは、市場における商品とは違う性格を持っている
若手のアートの売買とかは、この同人活動に近い
これが市場での取引になると消費者と商品という関係がでてくる
アートは希少性に価格がつくみたいなことたまに言われるけど、たぶんそんなことなくて、市場で価格が安定するには一定量出している必要がある。このとき作家の方も「商品」的な価値は意識しているはず(誰が買うかわからない状態)。本当に少数の場合、市場に出てこないから価格がつかない。
ここで(あまり市場価格が安定していない状態で)買うのが、友人関係とかのごく狭いサークルだったりする。友人の作品というのは、市場に放出することがほぼないから、実は価格がついていないのと同じだったりする。
ゴッホとゴーギャンが同棲をしていたときに作品を交換していたけど、あれはふたりとも売れていなかったから価格はついていないのと同じ。これも同人的な交換形態の例であるように思う。
適切に市場に見えつつ、希少性が担保されたときに(生産量が減ったとき)、たぶん価格が上がる。需要に対する供給が足りない状態になるのだからそれはそう。その前提として、市場に放出されるという状態が当然必要で、需要を作り出しているのは市場である。市場に商品が存在すること。
「地産地消」と同人活動をなんとなく繋げたくなるのは、たぶんそれに対比してみている「市場」とは、生産者と消費者がなんの関係もない場だからで、逆に生産者と消費者が金銭的関係以外のなんらかの具体的関係を持つのが、「地産地消」だったり「同人活動」だったりするとおもう。自分が消費しているコカ・コーラがどこの工場で誰によって作られたかもほとんど気にしないのが「市場」における「商品」であり、消費と生産は完全に分離されている。