あたし男女分けにこだわらないアニメが好きで、『ここたま』に対しては度々不満を垂れていた。まあ殊更に際立たせる事が多いわけではなかったから「大勢に影響なし」「これはこういう物」として、好きな部分を拾ったけど。
対象視聴者層の設定についても「男児向け」「女児向け」は嫌いで、「子供向けアニメ」が好き。
言葉と文字とヨッシーアイランドが好き。たまごっちやここたまのアニメを見ます。たまに絵を描きます。フォントを作ったりします。2023 年 1 月から https://mofu.kemo.no の副管理人です(いきなり権限を付与されたけど受け入れました)。
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日本語の研究で博士号を持ってるけど、離れて長いし、自信ない。キーボードは新 JIS‐配列(JIS X 6004)微改変版です。今のプロフィール画像は『スーパーマリオブラザーズワンダー』の一般ポプリンの絵です(二次創作)。
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あたし男女分けにこだわらないアニメが好きで、『ここたま』に対しては度々不満を垂れていた。まあ殊更に際立たせる事が多いわけではなかったから「大勢に影響なし」「これはこういう物」として、好きな部分を拾ったけど。
対象視聴者層の設定についても「男児向け」「女児向け」は嫌いで、「子供向けアニメ」が好き。
ピンコとレンジは「恋愛的な要素がないのに息の合った夫婦みたいにも見え、それを語りにおいて取り立てない」のが面白いのでむしろありです。
あと「女だから自動的にまつ毛」という描き方が好きではなく、レンジさんにまつ毛がある事で結果的に均衡してるのもいい所。
キノピコは女性的な風貌を持つけど(なお性別はない)、その要素に「長いまつ毛」を含まないのが好き。ファンアートでまつ毛を付け足す人が…なぜか海外に多い。
@daibaka フム…30 分枠で全 26 話か。言われると気になる。留意します。「3 丁目のタマ」とは全く別設定の作品があるのねえ。
「/compact」が有効の場合は、添付画像の縦幅の上限をカラム幅に合わせるようにしました。つまり縦長の画像が小さくなります。
Mastodon に動画を投稿すると「GIF」と見なされて、シークバーなどが表示されない事がある件ですが、音声トラックがないと そうなるようです。無音の音声トラックを付けておけばいい。
裏返すと、自動再生されて繰り返してシークバーがないという挙動でアニメーションを投稿したい場合、辛い減色を乗り越えて GIF に変換しなくてもいいって事ですね。
https://youtu.be/_L_uAuSkrQk?t=2041
「some of my typewriters were being opened by younger people who this was their first typewriter」って興味深い関係節だな。被修飾部である「younger people」が「their」で節の中に再登場してる。(こういうの何て呼ぶんだっけ。「昨日買った本」ではなく「昨日それを買った本」みたいになる現象。)あと、「some」と「people」で複数の話だったのが、関係節の中では「their」を除いて個別的な単数になってるのも気になる。こういうの教わるんでしたっけ。
〈whose〉で繋げたらいいけど…「whose first typewriter this was」…は無理かな…よく分からない。「who this was their first typewriter」。
日本語だと「私のタイプライターが、それが初めてのタイプライターとなる子たちの手に渡る」みたいな言い方になる(直接的な訳ではなく、構造を似せた別の文です)(ぎこちない)。「タイプライター初めてっていう子たちに私のタイプライターがプレゼントされる」みたいな構造にするのが楽か。
パターン化による認知負荷の低減(構成要素の無意識化)は生き物が常に行っている事であって、そうしなきゃ複雑で総合的な処理が間に合わないから必要な効率化だけど、パターンに任せた判断はいつだって個別に意識的に考えるより品質が低い。その限界を意識し、正確である方がいい部分はできるだけ分解しようねというのが一般的に言える。
パターン処理は、「以前受けた刺戟に似てるなら、多分以前やった判断の結果を高確率で使い回せる」という期待に基づく。どれぐらい似てれば似てると見なすか(結論に影響するような大きな差があると思うかどうか)は賭けでもある。怠けると、大きめの違いにも既存のキャッシュを適用し、失敗する確率が上がる。
加えて人間は、社会を利用して判断を外部委託する事がある。「ほかの人がそう思ってるようだから多分そうだろう」と思う働きがあり、強力でもあり、危険でもある。自分で一度も分解して考える経験を経ず、他人が既にやった判断の結果を借りて使い回す。
それを意識的に制度化したのが教育だとも言える。教育者は「自分でも考える機会」をなるべく設けるように努める事が多いけど、時間が限られるし、教わる人に能力差があるし、教授される内容を初めに考えた人と同じだけ掘り下げるのは不可能な場合が多い(教わる人もまた研究者になるような高等教育を除くと)。「学校で先生がそう言ってたから、教科書にそう書いてあったから、そうだ」という自分で考えてない判断が社会には溢れている。