あけましておめでとうございます(時間差
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ローマ法学者の木庭先生が朝日賞受賞 | 是枝裕和監督ら4氏に朝日賞 法学者の木庭顕氏も:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASLDF5F8QLDFULPI008.html
さっき鶏頭の語を聞いて,西田哲学の説明の一環で鶏頭に関連した俳句を教えられたのを思い出したものの,肝心の句が出てこない.「鶏頭の花見ゆ少し先の雨」かそれに近い感じだったと思う.新年早々モヤっとする…
多分この本に書いてる.第1部第2章「蟬の声と鶏頭の雨――物の無限の縁暈」 | アドルノ的唯物論との対話 - こぶし書房
http://www.kobushi-shobo.co.jp/smp/book/b252466.html
ふむっ「奇妙な話だが、マルウェアの仕様と期日を切れる人が他にいない。どんなシステムで、どのような仕様のマルウェアが効果的に影響を及ぼすかを事前に判断できるのは、横断的に思考できる熟練したマルウェア作者だろう」
ハッカーとセキュリティ技術者は「文明」と「文化」ぐらい異なる - THE ZERO/ONE
https://the01.jp/p0006782/
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RT 良さそう「日本の学会が個別に学会誌発行するのやめて、PLOS ONE, さらにそれに類する上のランクのオープンアクセスジャーナルを国レベルで運営し、学会の雑誌運営コスト削減・日本のサイエンスのプレゼンス増強・オープンアクセス化などを一気に進めるべき」
https://twitter.com/gaou_ak/status/1079964913345294336
ゾンビランドサガ,SSSS.GRIDMAN, うちのメイドがウザすぎる! , ゴブリンスレイヤー あたりを今期は見ていたがどれも面白かった.視聴本数自体も普段より多かったので若干体力が戻ってきたのか.
「寡作で優秀な研究者」も「フットワークの重い、出不精で優秀な研究者」も確実に居る(心当たりもある).「学会に出まくってワーワー言っている人ばかりが優秀とは限らない」というのは本当にそう.
https://twitter.com/postagbstarjp/status/1080125139373735937
https://twitter.com/postagbstarjp/status/1080125799460728833
BibTeXで日本語のものを足すのに欧文用のスタイルファイルでは都合の悪いところがあるからどう手直しするか考えてたけど,論文なら欧文タイトルがあるからそっちを登録して和文書誌をannotationか何かに追記しておくのがとりあえず楽かも.
読んでる | “中核派”がコミケに初出展 PR活動にも変化「“ウケ”を大事に。コミケ参加もそのひとつ」 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/special/52343/
これは何とも非道い言いようである.「『われわれのところでは、子どもが京大に入ったら、近所から同情されるんや。「もうあそこ、跡継いでくれへんわ」と……同志社に行けば、長く続いたブルジョワ同士のコミュニケーションがそこで培われるし、将来この街を背負っていく旦那にもなれる。京大なんか行ったらあかん』というふうに」
京都市民が「長男の京大進学」を喜ばない事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
https://toyokeizai.net/articles/-/256080?page=5
資格は取得よりもその学習過程で得られるものの方が大きい、と思ってる。資格の所有そのもの以外に意味がないなら、そもそもそんな資格を取る必要があるのかな、と思う。
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帝政期ローマにおける医学関係ラテン語の本.
D. R. Langslow, Medical Latin in the Roman Empire (Oxford 2000)
https://global.oup.com/academic/product/medical-latin-in-the-roman-empire-9780198152798?cc=jp&lang=en&
確認したところ正しくは「鶏頭の雨見ゆ花の少し上」で皆吉爽雨の句だった.
単語単位では当たらずも遠からずなところがあるが,「鶏頭の」の後にすぐ「花」を持ってきて何とか575に辻褄を合わせようというあたり,凡庸な発想しか持たない人間が記憶で引用した場合のbanalisationとして好例ではある(実はそれでいい例が採取できるのではと期待してうろ覚えのままあえて引用を試みた面がある).
この皆吉爽雨の句と一緒に芭蕉の「閑かさや岩にしみ入蟬の声」も取り上げて,西田幾多郎の「物の縁暈」という観念にアプローチしている.
「……岩は岩であって蟬ではない,蟬は蟬であって岩ではないとか……この日常的な常識が通用する世界を哲学の用語で表現しますと,同一律が支配する世界,同一性の世界だといえます.しかし,この芭蕉の句は,どうもそういう常識的な世界とは違う世界のことを,詠んでいるようです.この句の世界では,岩は岩でありながら堅い岩であることをもうやめている,蟬の声は,蟬の声でありながらこれも喧騒な蟬の声であることをもう失っている.同一律が崩れた自体がとらえられているのじゃないか,それで互いにしみ入るといわれているのじゃないか,こう考えてみたわけです……」(服部健二『アドルノ的唯物論との対話』p.52)
この服部先生の本の第1章で,滝川幸辰や美濃部達吉,さらには京都学派を執拗に攻撃した右翼思想家で慶応大教授の蓑田胸喜による西田幾多郎批判が取り上げられているのだけれど,その際に蓑田が矛先を向けたものとして1923年の西田の歌「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり」「世をはなれ人を忘れて我はただ己が心の奥底にすむ」があげられているのは面白い.
昔の人は教養や芸術への理解があったから詩歌を作ったのだなぁくらいの印象でいたが,詩歌も思想の表れや批判の対象となり得たのかしらん.
『犯罪と刑罰』のチェーザレ・ベッカリーアは『文体に関する研究』というレトリック関係の著作もしている
ベッカリーアの『文体論』が彼の思想全体の中でどういう位置にあるかについては堀田誠三『ベッカリーアとイタリア啓蒙』第7章「ベッカリーアにおける道徳感情とレトリック−−『文体論』を中心に」が良さそう.
『文体論』で美学を扱う必要があったのはそのうちに人間の社会性の理論を探る意図があったためで,しかしそれにとどまらずベッカリーアにとっては「レトリックの中心が,法廷弁論の立論にかかわる配置(dispositio)から,観念や感情の表現技術としての修辞(elocutio)=文体へと転換し,その転換によって『文体論』は,法廷弁論の術として法学教育の基礎科目に位置づけられていた伝統的なレトリックへの挑戦の書ともなった」(同書p.208)ということのようだ.
続けて「法学の言葉はローマ法の言葉たるラテン語であったから,ラテン語という「民衆に疎遠な言葉」の使用が,法を法曹の独占物とする原因としてあげた『犯罪と刑罰』の法学批判を『文体論』は継承し,配置から修辞へというレトリック論の転換は,ラテン語の規範的地位への挑戦をつうじて,閉じた法学の言葉からの離脱をうながすものであったといえる.「ダランベール『雑録』第五巻の抜粋」のなかで,ベッカリーアはダランベールのラテン語論を要約していう.「ラテン語で書くことへの盲信は,こんにちでは過去のものである.事物を借物の文体と,ほとんど知られていない死語の犠牲にしようという偏見は笑うべきものであるが,そのことに気づくには何世紀もかかった.我々の考えをのべるさいに,自分たちにほとんどなじみがなく他人もよく知らない言葉,つまりほとんどわからない言葉をつかって,明晰且つ力強く表現することが期待できるだろうか」」(堀田誠三『ベッカリーアとイタリア啓蒙』名古屋大学出版会,1996: p.208)
『犯罪と刑罰』におけるラテン語批判はおそらくこの箇所.
「もし法律の解釈がひとつの悪であるならば、分かりにくい法律がもうひとつの悪であることは明らかである。法律がわかりにくければ、当然その解釈が必要になってくるからである。まして、もし法律が人々にとってなじみのない言語〔=ラテン語〕で書かれていたとしたら、その法律はとんでもなく悪い法律だということになるだろう。なじみのない言語で書かれた法律だと、人々は、自らの自由を行使した結果がどうなるのか、自分たちの仲間はどうなるのかについて、自分自身では先を読むことができない。だから、〔その言語を解する〕何人かのごくわずかな人たちの言うなりになるほかなくなる。
そのようなわかりにくい言語は、公の場で堂々と読まれるべき書物を、限られた人たちだけの私物にしてしまうだろう。それなのに、そのような事態が、教養深く光に照らされたヨーロッパのほとんどにおける根深い慣行なのだ。なんということだろう、いったいぜんたい私たちはこのような人間たちについてどう考えればいいというのだろう! 神聖な法典を手にもち、それを理解できる人たちの数が多ければ多いほど、犯罪はそれだけ少なくなるはずなのに。なぜなら、刑罰について無知だったり刑罰が不確かだったりするからこそ、情念の出番がそれだけ多くなることは疑いないからだ」(チェーザレ・ベッカリーア(小谷眞男訳)『犯罪と刑罰』(東京大学出版会 2011: p.22))
「だから、私もスタバに行く度に思うわけだ。あのコーヒー豆に貼ってあるフェア・トレードのシール。あれ、IT業界にもいるんじゃないかな、って。
「このシステムの構築中に退職者も精神病罹患者もいませんでしたシール。それが貼ってあるべきだと思うんだ」
底辺IT企業は『書けない』プログラマとどう向き合ってきたか - megamouthの葬列
https://www.megamouth.info/entry/2019/01/03/213605
博士論文にもフェアトレード・シールがあるとよさそう(貼らないことによってメッセージを発することができる)
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いい記事だった.「最初は苦戦している生徒でもマイペースで進められることと、先生がアドバイスしてくれる環境があること」は環境としてとても大事.
専門学校では如何に素人に対し体系的にプログラミングの基礎を教えているか(体験談) - みんからきりまで
http://kirimin.hatenablog.com/entry/2019/01/04/221132
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「役に立つ・立たないということの以前に,自分の命より長く続いてきたものは無条件に継承・保存されるべきで,その善悪を自分たちが決めてやろうというのは思いもよらない倨傲である」ということは私には自然と得心のいく話だが,これは理屈ではなく感触のレベルでのことに過ぎないという問題がある.
今や未来に生きる人間の迷惑になるのであればそれは改善なり排除なりされるべきと思っていて、つまりあらゆる文化は **娯楽や非実用の範囲で評価される限り** 無条件に保存するに値するが、それを実用などの面で評価したり実用しようとするなら、根絶も検討されるべきであるという考えです
教育、身の回りのものをブラックボックスにしないという側面があると思っていて、そういう意味ではコストを無視すれば色々学ぶ/教えるのは大多数が専門職に就かないとしても無駄ではないだろうという気持ちはあり、その一方で必須かと問われれば不利益や代償を払っているかもしれないけれどそれを知らずに生きている人々が世界のあちこちにいるので必須ではないなという気持ちもある
「Xを勉強して何の役に立つんですか?」、色々な視点からの答えがあるし、発言者が本当に聞きたいことも色々な候補があるし、答えを欲してない問いであることもあるし、んーとなる
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