10:43:58 @ncrt035@gnosia.info
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これは白味噌のお雑煮です

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20:02:00 @ncrt035@gnosia.info
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確認したところ正しくは「鶏頭の雨見ゆ花の少し上」で皆吉爽雨の句だった.

単語単位では当たらずも遠からずなところがあるが,「鶏頭の」の後にすぐ「花」を持ってきて何とか575に辻褄を合わせようというあたり,凡庸な発想しか持たない人間が記憶で引用した場合のbanalisationとして好例ではある(実はそれでいい例が採取できるのではと期待してうろ覚えのままあえて引用を試みた面がある).

20:12:59 @ncrt035@gnosia.info
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この皆吉爽雨の句と一緒に芭蕉の「閑かさや岩にしみ入蟬の声」も取り上げて,西田幾多郎の「物の縁暈」という観念にアプローチしている.

「……岩は岩であって蟬ではない,蟬は蟬であって岩ではないとか……この日常的な常識が通用する世界を哲学の用語で表現しますと,同一律が支配する世界,同一性の世界だといえます.しかし,この芭蕉の句は,どうもそういう常識的な世界とは違う世界のことを,詠んでいるようです.この句の世界では,岩は岩でありながら堅い岩であることをもうやめている,蟬の声は,蟬の声でありながらこれも喧騒な蟬の声であることをもう失っている.同一律が崩れた自体がとらえられているのじゃないか,それで互いにしみ入るといわれているのじゃないか,こう考えてみたわけです……」(服部健二『アドルノ的唯物論との対話』p.52)

20:25:02 @ncrt035@gnosia.info
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この服部先生の本の第1章で,滝川幸辰や美濃部達吉,さらには京都学派を執拗に攻撃した右翼思想家で慶応大教授の蓑田胸喜による西田幾多郎批判が取り上げられているのだけれど,その際に蓑田が矛先を向けたものとして1923年の西田の歌「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり」「世をはなれ人を忘れて我はただ己が心の奥底にすむ」があげられているのは面白い.

昔の人は教養や芸術への理解があったから詩歌を作ったのだなぁくらいの印象でいたが,詩歌も思想の表れや批判の対象となり得たのかしらん.

21:18:30 @ncrt035@gnosia.info
2018-12-14 13:20:54 Niceratus Kiotoensisの投稿 ncrt035@gnosia.info
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『犯罪と刑罰』のチェーザレ・ベッカリーアは『文体に関する研究』というレトリック関係の著作もしている

21:19:21 @ncrt035@gnosia.info
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ベッカリーアの『文体論』が彼の思想全体の中でどういう位置にあるかについては堀田誠三『ベッカリーアとイタリア啓蒙』第7章「ベッカリーアにおける道徳感情とレトリック−−『文体論』を中心に」が良さそう.

『文体論』で美学を扱う必要があったのはそのうちに人間の社会性の理論を探る意図があったためで,しかしそれにとどまらずベッカリーアにとっては「レトリックの中心が,法廷弁論の立論にかかわる配置(dispositio)から,観念や感情の表現技術としての修辞(elocutio)=文体へと転換し,その転換によって『文体論』は,法廷弁論の術として法学教育の基礎科目に位置づけられていた伝統的なレトリックへの挑戦の書ともなった」(同書p.208)ということのようだ.

21:27:35 @ncrt035@gnosia.info
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続けて「法学の言葉はローマ法の言葉たるラテン語であったから,ラテン語という「民衆に疎遠な言葉」の使用が,法を法曹の独占物とする原因としてあげた『犯罪と刑罰』の法学批判を『文体論』は継承し,配置から修辞へというレトリック論の転換は,ラテン語の規範的地位への挑戦をつうじて,閉じた法学の言葉からの離脱をうながすものであったといえる.「ダランベール『雑録』第五巻の抜粋」のなかで,ベッカリーアはダランベールのラテン語論を要約していう.「ラテン語で書くことへの盲信は,こんにちでは過去のものである.事物を借物の文体と,ほとんど知られていない死語の犠牲にしようという偏見は笑うべきものであるが,そのことに気づくには何世紀もかかった.我々の考えをのべるさいに,自分たちにほとんどなじみがなく他人もよく知らない言葉,つまりほとんどわからない言葉をつかって,明晰且つ力強く表現することが期待できるだろうか」」(堀田誠三『ベッカリーアとイタリア啓蒙』名古屋大学出版会,1996: p.208)

21:36:08 @ncrt035@gnosia.info
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『犯罪と刑罰』におけるラテン語批判はおそらくこの箇所.

「もし法律の解釈がひとつの悪であるならば、分かりにくい法律がもうひとつの悪であることは明らかである。法律がわかりにくければ、当然その解釈が必要になってくるからである。まして、もし法律が人々にとってなじみのない言語〔=ラテン語〕で書かれていたとしたら、その法律はとんでもなく悪い法律だということになるだろう。なじみのない言語で書かれた法律だと、人々は、自らの自由を行使した結果がどうなるのか、自分たちの仲間はどうなるのかについて、自分自身では先を読むことができない。だから、〔その言語を解する〕何人かのごくわずかな人たちの言うなりになるほかなくなる。

21:38:08 @ncrt035@gnosia.info
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そのようなわかりにくい言語は、公の場で堂々と読まれるべき書物を、限られた人たちだけの私物にしてしまうだろう。それなのに、そのような事態が、教養深く光に照らされたヨーロッパのほとんどにおける根深い慣行なのだ。なんということだろう、いったいぜんたい私たちはこのような人間たちについてどう考えればいいというのだろう! 神聖な法典を手にもち、それを理解できる人たちの数が多ければ多いほど、犯罪はそれだけ少なくなるはずなのに。なぜなら、刑罰について無知だったり刑罰が不確かだったりするからこそ、情念の出番がそれだけ多くなることは疑いないからだ」(チェーザレ・ベッカリーア(小谷眞男訳)『犯罪と刑罰』(東京大学出版会 2011: p.22))

21:59:53 @ncrt035@gnosia.info
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「だから、私もスタバに行く度に思うわけだ。あのコーヒー豆に貼ってあるフェア・トレードのシール。あれ、IT業界にもいるんじゃないかな、って。
「このシステムの構築中に退職者も精神病罹患者もいませんでしたシール。それが貼ってあるべきだと思うんだ」
底辺IT企業は『書けない』プログラマとどう向き合ってきたか - megamouthの葬列
megamouth.info/entry/2019/01/0

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底辺IT企業は『書けない』プログラマとどう向き合ってきたか
22:01:28 @ncrt035@gnosia.info
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博士論文にもフェアトレード・シールがあるとよさそう(貼らないことによってメッセージを発することができる)

22:33:08 @ncrt035@gnosia.info
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×「同一律が崩れた自体」
◯「同一律が崩れた事態」

23:24:09 @ncrt035@gnosia.info
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細かいけど「明晰且つ」は「明晰かつ」と平仮名に開く