はたしてこれは西欧文明の自殺なのか?というと……
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西側諸国でも、市民の間には反-ジェノサイドの声が強く、政府の行動――民間人への攻撃が行われていることを無視して一方当事国を丸呑みで支持する姿勢――がそこから乖離しているという主張が、それらの国内記事等でも見出される。なので、目下の悲惨な状況から、「西洋的な人権ユニヴァーサリズムが破壊された」と断ずるのはいささか性急であって、さしあたりは「国際的人権問題に対する民主的コントロールの利きづらさが露呈している」くらいに捉えておく方がよいのではないかなあ。
 国際社会の公正さを求める私たちは、欧米の(健全にも公平な意見を持っている)人々と協力していくべきだ。しかし、「お前たち(欧米市民)は西洋的な社会的公正の理念を放棄したのだ」と一括りに非難してしまうことは、そういった協力の可能性を手放してしまいかねない。
 日本(日本国または日本人の多く)は、今回の状況に関して、どちらか一方に大きく偏って利害を持つということはあまり無いだろう。だから、国単位/勢力単位での敵味方の色分けにコミットするのではなく、ひとまずは民間人に対する無差別攻撃や居住地追い出しや病院への砲撃のような反人道的行為のみに絞って、それらが為されないように求めていくのが、採りうるベターな道ではないかなあ。

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firefoxのブラウザシェアが30%を超えていた時代もあったんじゃがのぅ……ごほごほ。
(※2010年前後がピークだった模様。)

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mstdnは年齢層もいろいろいらっしゃいますね。大学生から企業勤めから60代以上の方まで、どの世代も平均的にいる感じです。ただし、サーバーごとに年齢層の偏りを感じることがありますし、さすがに70代以上らしき方はなかなか見かけませんが。私が今いるサーバーは海外の方も多くて、顔出しアイコンを見るかぎりでは中高年男性がかなり多いようです。

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先に言及したシーンは、むしろ写実的に考えるとおかしいんですよね。これから飛びかかろうとしているのに、お尻を下げている(つまり重心を下ろしてしまっている)ので。制作スタッフも当然そのことは理解したうえで、あえてこの非-写実的な表現を、しかも相当な作画の手間まで掛けて、取り入れている。だからここは、リアリズム以外の表現意図/表現効果を見出せるように解釈すべきところだと思います。

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漫画(原作)を読んでいるときは、むしろアニメ版はあんまり見たくない派なのだけど、今回は演出が良さそうなので、後追いで視聴している。……とはいえ、今のところは、すごく好きというほどでもないかも。確かに作画面でも力が入っているし、多用される二重写し演出も上手くハマっているし、声優陣も絶品なのだが、いや、うーん、でも、まあ、ここまでやっていてくれれば文句は無いのだが、なんとなくもどかしさを感じることがある。

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(つづき:)このアニメを遅まきながら視聴しているが、個人的に気に入ったのは、2話で主人公が魔法で本を取り出すシーン(06:58-)。書棚に並んだ本の背表紙が、順番にポロポロと落ちてくるアニメーションが、BGMの音階的な動きとぴったり合わせられていて、ピアノの鍵盤の動きを連想させる。こうした音響演出は、当然ながら原作漫画版には無かったもので、アニメスタッフ独自の遊戯的表現と言える。

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例えば『フリーレン』9話のこのカット[21:40-, cf. twitter.com/Madhouse_News/stat ]は、しゃがんでからさらに腰を下げるという繊細極まりないモーションを描いている。これは写実的(現実的)にも、重心移動としてあり得る動きだが、このカットでただ重心移動を再現することそれ自体にはあまり意味が無い。
 この描写の意義は、キャラクターの振り付けであることに存すると考えたい。むしろこの1秒に満たない動きの作画は、この魔族キャラクターの悠然とした落ち着きの異様さを示唆したり、このキャラクターが他人の肉体の動きを再現していることを意識させたりするのが目的だと思われる(※このアニメ版でも、腰を下ろす描写をこんなに細かくアニメーションさせているカットは、私の気づいたかぎりほぼ皆無なので、このシーンに特有の表現だと解すべきだろう)。極端に低く屈めた上半身といい、スカートの軽さまで感じさせるような作画といい、その直前の「斧の刃先から落ちる砂」の過剰さといい、この場面の戦闘演出の一環として細やかに神経の通ったカットであり、そしておそろしく手の掛かった演出だと思う。

アニメーションがリアリスティックな写実性を志向するのは、
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技術の次元でも限界があるし、表現の次元でも射程を短くしてしまうというのは同感。写実的緻密さはたしかに映像の説得力を増すことができるが、それ自体がアニメーションの目的や価値になるかというと、やはり疑問がある。
 個人的には、アニメはアニメで独自の表現文法を展開して、現実に囚われない新たな演出を開拓しつつ、それらが個々の描写の意味づけとしてより良く機能させるように彫琢されていってほしい。あり得ないカメラワークでも、柔軟な速度変化(スローモーションなど)でも、画面分割(スプリット)でも何でもいいから、いくらでも使ってほしい。昔の「3回パン」(同じカットを3連続で繰り返す)だって、リアリスティックに見ればまったくのナンセンスだが、アニメ特有の演出技法として案出されて、大きな効果を上げてきた。
 (※その一方で、いわゆる「実写」映画も、とりわけ背景はほとんどがCGというものも多いが、そちらの分野が写実的忠実性を離れるのはおそらく難しいだろう。フォトリアルはそちらに任せておけばよいと思う。)
cf. social.vivaldi.net/@wavewalnut

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wavewalnut (@wavewalnut@vivaldi.net)
(つづき:)具体的な着地点へと合意を形成する話でなくてもいいのです。それでも、
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ただ、「相手の主張にはこういう合理性、こういう正当性、こういう規範的論拠、こういう現実認識があって成り立っているので、そのあたりの事情をこちらも考慮したうえで考える(賛否はともかく、相手の理屈を理解してそれに対応できるようにする)のは大事だよね」というレベルの説明でも、それでも「敵にすり寄るのか」と日和見主義と見られてしまうことはあります。
 他者の主張をひとまず合理的に把握することは、異論を客観的に認識して公平に扱うための大前提だと思うし、それすら放棄するならば、他人とのコミュニケーションそのものを無意味にしてしまう。つまり、異なった意見に触れて自分の思考を改良していったり、あるいは自分の主張が他者の間で受け入れられるようにしたりするプロセスそのものを放棄することになってしまう。そういう意味で、日和見やコウモリに見えるようなマイルドな発言でも十分存在できるようにしておく方が、社会的なコミュニケーションや公共的な問題解決にとっては利益になる……というような話。

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激しい意見の対立があるトピックでは、双方の主張を取り込みつつ架橋や調停を図ろうとすると、双方から敵側認定されたり、裏切り者と見做されたり、日和見扱いされたりする。
 もちろん私自身も、他者の意見を目にしたときに、「それがどのようなスタンスに立脚しているか」、言い換えれば「どのような(党派的)属性から述べているか」で認識してしまいがちであり、結局のところそれは単純で硬直的な敵味方二分法に陥りやすい。そういうのを解きほぐしていければいいのだけど……。

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fediversityという言葉を先日見かけて、なるほど上手いなと思ったけど、英語母語の人(ENL)であれば思いつきやすそうなネタではある。

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英英辞典などでは、各語の定義を提示する際に、説明文に使ってよい語彙を大きく制限していて(つまりそれ自体説明を要しないベーシックな語彙に極力限定している)、そうした制限にもかかわらず各語の意味をきれいに定式化している巧みさに舌を巻くことがある。
 日本(語)の辞書とは異なって、きちんとした定義を与えてくれるので、外国語学習者にとってもありがたく、実際に「英和ではなく英英辞典を使いましょう」と薦めている先生もいる。

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立場を換えて言えば、他言語話者と日本語で会話する場面では、こちらができるかぎり平易に喋るよう努めた方がいいんだろうなあと。つまり、語彙をある程度限定し、構文も極力ストレートにして、可能なかぎり明晰な発音で、スピードを上げすぎず、そして言葉通りでは理解づらい修辞的表現を避けるという……。