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どこまでが岸田の人気取りのための事前の想定で、どこからがそれに乗っかった「西側諸国」の思惑だったのか知らないけど、撮りたい絵面がきれいに撮れた広島だったんだろうな。
まさか広島が、ロシアの核使用を牽制するための舞台に使われるなんて、すごいシナリオを考える人がいるんだなあ。。
「原爆の悲惨さ」を言う時に、それがどのような政治的な行動の帰結であるのかということを敢えて深く問うことなしに、とにもかくにもこの悲劇は繰り返さないでください…と訴えることは、被曝の痛みの切実さに対する仕方なくせいいっぱいの態度だったんだろう、これまで。
それを上手に利用して、オセロ盤の角に石を置いて全部白から黒にひっくり返すみたいに、全部きれいに逆転して見せた。核を持つ国と、その核に守られる国の首相が、WW2でアメリカが原爆を落とした地で、その敗戦国の首相と一緒に献花するという絵面で。
これはもう、日本の政治のセコさに「またか!」って腹が立つ日頃の感情とはまったく異なり、その見事さに呆気に取られてしまった。たぶん日本の政治家だけじゃこんな芸当は思いつかないよね。岸田の色気に、渡りに船って乗った人がいるとか、そんな感じ??
こんな怖い国際政治なんて考えないで、庭木に水でもやりながら残りの人生を過ごしたいけど、いろいろ世界中キナ臭くて、一体どうなってしまうんだろう。。
おもしろかった。「黄金時代」という呼称をオランダがすでにやめているというのは知らなかった(奴隷貿易による経済繁栄を「黄金時代」と呼ぶのはまあ…)。
「シングルストーリーからの脱却」というのは、先日のマティスの件以来、やはりそういう方向になるよなぁとおもっていた。いかに多視点的なキュレーションが可能になるか。
https://artscape.jp/focus/10182871_1635.html
オランダの博物館、特に大西洋奴隷貿易で富が流入したアムステルダムにおいては、奴隷制という非人道的犯罪行為によってこの国や都市の繁栄があったこと、そして奴隷制に起因した格差や差別が現在にも続いていることに必ず言及する。なんとなくふわっと文化史と災害史で歴史をまとめる日本の博物館の展示を見慣れていた筆者の目には、それはとても大きな驚きであり、アジア人でありながら旧宗主国としての歴史ももつ日本人として、脱植民地主義というものを意識せずにはいられなかった。
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しばらく前に git のデフォルトブランチが master だったり冗長構成を一般に master/slave と呼ぶのがどうなのか、という話があったが、その言葉狩りはやりすぎだといまでも思っているけど、領域別の難しさやどういった関係者がいるのかによる違いがあるなとは感じる。
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博物館/美術館というのは具体的な制度に支えられた存在で、その制度がどのような存在論によって支えられているかというのは、具体的な問題として存在している。現代芸術の実践そのものがこういった問題にいやおうなしに関わっていることが多く、(その限界も含めて)理解・批評される必要はあるとおもう。
表象システムの分析の重要性は、それが観客をどのように構成するかに尽きるのではないかと思う。表象システムは、それがある種の存在を自然で自明な存在者だと信じさせることにその役割がある。芸術とか作品という単位はどこからどうみても人工的な存在単位なのに、これに疑問を抱かなくさせるような装置がある。観客というのは、この装置のなかで、たとえば作品とよばれるような物と相関的に規定されるものだ。
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ようやくサイード「オリエンタリズム」を読んだけど、サイードによると、用語「オリエンタル」はオクシデンタル(西洋)との差異を学者が定義し記述することで、オリエントの「本質」を規定してしまうような、学術的態度あるいは存在論だ。たとえば、言語学にセム語族という概念が発明され、それによってイスラム諸国の諸制度から「セム的」な特徴を記述する。なんでもかんでも「セム的」な本質を抱えているということになる。もちろんこんな「セム的本質」は虚構にすぎないのだけど、オリエントという述語、あるいはそれは存在論的な概念といってもいいのかもしれないけど、その述語によって、それは西洋との差異を記述する概念にほかならないわけだから、オリエントには閉じた本質があることになってしまう。
というようなことがやはり背景にあるんだろうなとはおもった。
サイードが言うようなオリエンタリズムは学問として制度化されたものだけど、制度としてのオリエンタリズムを解体するには語彙を解体しなければならない、ということになる(のだろうか)