02:08:50 @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net
2023-05-08 17:16:50 白江幸司の投稿 ttt_cellule@fedibird.com
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03:03:04 @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net
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BT たとえば、以下のような記述があって、

その前提には「創造主」としての画家の絶対的な力と、近代社会のジェンダー構造に支えられた男性画家と女性モデルの間の見る者と見られる者の間に展開される眼差しの権力関係を前提に制度化された、近代西欧絵画の構造が存在する。画家はこの構造のなかで、想定された白人男性を中心としたブルジョワ層の知的エリートからなる受容者の眼差しと重なり合う形で、対象に自由で独自の決定的なフォルムを与える「創造」としての制作を通して自らを画家としてアイデンティファイしてゆくことになる。 (「過程にある絵画」天野知香)

これをもって「西洋絵画の白人男性中心主義」っていうことになってしまうと、近代西欧絵画の特性に西洋中心主義があることになってしまい、より抽象化された意味でのモダニズムが見えづらくなってしまう。

本来の作業としては、なにが近代化に伴う必然的なものであり偶然的なものであるかを区別する作業が必要なはずであるが、「西洋白人中心主義」という概念は「モダニズムの隠れた前提」とでもいうものになってしまって、近代化というものが(これは使いたくない言葉だが)「名誉白人化」とでもいうものになってしまう。

「西洋絵画の白人男性中心主義」という概念は事態を正しく捉える概念ではなくて、マティスの顧客はロシアのシチューキンやモロゾフ、日本の松方幸次郎や大原孫三郎とかいたわけだから、「想定された白人男性を中心としたブルジョワ層の知的エリートからなる受容者の眼差し」という想定は端的に間違っている。グローバル経済環境の発達のなかで国際スターとして成立していた彼が西洋中心主義だったわけではないし、日本の美術業界の制度的発達を見てみたところで西洋中心主義で発達しているわけではぜんぜんない。「西欧中心主義」とか「白人男性中心主義」とかは、ふつうに制度分析を間違った方向にむけてしまう不要な装置に見えてしまう。本来分析したいモダニズムの特性を間違ってしまう。

これは20年前のマティス展のカタログの記述だけど、現在ではこんなに解像度が荒い記述になっているとはおもわない。

03:14:26 @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net
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けっきょく、自分がみつめなおしたいとおもっているのは(美術の言説に閉ざされたモダニズムではなく)モダニズムそのもので、近代化の成立過程において、植民地主義やジェンダーの固定化というのはどれだけ必然的、もしくは偶然的な事象だろうか。それらを「西洋的」と言ってしまうと、戦前からあまり進歩がないように見えてしまう(京都学派や近代の超克で展開されていた理屈なので)。