すごくねむい
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今日、いがいと人がおおい。
https://humanities.connpass.com/event/282740/
作品の外部性って作家はみんな利用しているはずなんだけどな。絵の具の存在やキャンバスがなぜ矩形であるかとか、作品にとって外部的な事情でしかない(=社会的なルールでしかない)んだけど、それを内在化させていく(=必然性を与える)のがモダニズムという芸術運動だった。外部が内部に折りたたまれるようなものを作品だと考えるようになってきたとおもうんだけど、そこから先をどう考えるのか。
ていうか、この外部と内部の弁証法みたいなものとしてグリーンバーグのコラージュ論は記述できそうか。だから、作品にとって内在的な価値とかの話になるほうが変で、作品にとっての内在的なものと外在的なものがどのようにコンフリクトを起こしながら統合されるか(あるいは分裂するか)、ということは批評の課題になっている。
近代の超克の西谷論考読むと、どうしてもすごいアホっぽく見えてしまうけど、他を読むとやはりぜんぜんそんなことはなくて、やっぱりアホに見えるようにしているんだろうなという印象がある。天然であることも否定はできないけど...。
ああ、長いことなにを課題に感じていたのかようやく思いだしてきた...。絵の具はなぜなにか絵の具ではないものに見えるのか、なんだ。
「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」のウィリアム・ルービンの論考読んでいるけど、1906-1907年に芸術家たちが「部族芸術」を突如として受け入れるようになったのはなぜか、という問いを立てて、「最も重要な理由は、最前衛にあった芸術の性格が視覚的認知に根差した様式から、概念化に基づいた様式への根本的に変換したことと関係している」という記述は、本論と無関係に残念だな...。
視覚中心の芸術から概念中心の芸術へなんて凡庸すぎて、たぶんなにも当たっていないとおもう。
「政治から解放された人文書の世界をつくりたい」っていうのを見て、昨日も別な所でそんな話をしていたのでちょっと考えたけど、自分にとっては「芸術の政治性」なんていうものが重要なわけではなくて、単にリアリティの問題なんだなとおもった。政治と厳密に区分しうるものとしての芸術、というところにすでにリアリティを感じられなくなった。
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これは買わなければ。いつ読むんだ。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3821&status=published
すごくどうでもいいことなんですが、ウマ娘ってなんで前傾姿勢で走るのかがずっとわかっていない。短距離長距離かかわらず人体的なものが走る動作をするときに前傾姿勢になるの最初くらいなのでは。
1900年前後に前衛の政治性って自明なものとして受け取られていたと思うんだけど、マティスのような人の手によって政治と芸術が完全に分離されていったのはなぜなのか。マティス自身がしばらくの間はブルジョワ的だとしてフランス本国で受け入れられなかったのは、鑑賞者がわに反ブルジョワ的なものとしての芸術という観念があったからで、そういう反ブルジョワとしての芸術がどれだけ真剣に政治性があったかは別としても、当時は芸術のなかに政治的メッセージを込めることは自然と受け入れられたものだったと思う。マティスには皆無だけど。
最近マティスの画集ずっと見てるけど、マティスを見てるとピカソでも19世紀の絵画の延長でやっているように見えちゃうんだよな
「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」のウィリアム・ルービンによる序論を読んだ。「部族芸術」(この言葉には日本語版監修の吉田憲司氏は警告を促すが)を美的なものとして理解するというルービンの態度は、ああそういう記述が可能なんだなという勉強にはなる。けどやっぱり柳の民藝とおなじで、道具的な特性の分析ではなく美的な鑑賞をしてしまうということにやはり限界を感じる。ルービンは新しいことをやっているつもりだったし、じっさい、美術史に「部族芸術」の分析から得られる語彙を導入することで記述可能性が広がるのは間違いないんだけど、美術は道具ではないという見解も同時に強固にしているかなという印象。
こういう感想になることが、やっぱり自分が考えてみたい領域が、まさにその美的ななにかと道具との関係というか、その中間的な様態とでもいうのか、あるいは美の道具性というのか、そういうものなのかもしれない。
めちゃくちゃ進撃の巨人感あるよな
https://www.slam.org/collection/objects/5335/
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銃は良いものでも悪いものでもないとか、核爆弾は良いものでも悪いものでもない、使う側の倫理の問題だっていう、倫理と道具の領域が独立している系の議論は、そういう操作ですよね
「使う主体」と「使われる道具」という2つの領域に区分してしまって、それらはそれぞれ自律している、という理屈を作るような操作が「道具はそれ自体良いものでも悪いものでもない。使い方次第だ」という言い方に含まれている。「道具それ自体」という観念はめんどくさい。
@hidetakasuzuki 司馬遼󠄁太郎でそんなのを読んだことあるけど、あれは元ネタそっち方面なのか
足立区民ではないのですが、お世話になっている喫茶店オーナーの杉浦さんが足立区議に立候補していて、めっちゃ応援したいのでこちらで紹介しておきます。
https://twitter.com/sgrshnsk/status/1658127929111375877
10年ぶりくらいに会った絵描きの友人が、「家用の絵」という言葉を言っていたのがすごくおもしろかった。
大学のときに、講評に出す用の絵とは別に、家で描いてた絵があって、それは見せるものだとおもっていなかったし、「家用の絵」と「見せる用の絵」とが区別されているのが当然とおもっていた、という話。学内で展示していた人に「家用にはどんな絵を描いてるんですか?」って質問したらポカンとされて、なぜ話がズレているのか理解できなかったって言っていた。
人の描いた絵が、どれだけ家用の絵で、どれだけ見せる用の絵なのかそういえば考えたことなんてなくて、自明に全てが含まれるとおもっていたけど、そういえばそんなことはありえないよな。
ヨーロッパで産業革命以降の工業需要のなかで成立したのがプロダクトデザインという考えと役職だけど、UXデザインとかはそもそも認知科学などからきていて、ぜんぜん根が違うし生産についての体系が違うから、違うのは自明なんだけど、「デザイン」という観念を通すとまあよくわからなくなる。