北京じゃなくて長安だった
https://www.momat.go.jp/collection/o00564
作品の外部性って作家はみんな利用しているはずなんだけどな。絵の具の存在やキャンバスがなぜ矩形であるかとか、作品にとって外部的な事情でしかない(=社会的なルールでしかない)んだけど、それを内在化させていく(=必然性を与える)のがモダニズムという芸術運動だった。外部が内部に折りたたまれるようなものを作品だと考えるようになってきたとおもうんだけど、そこから先をどう考えるのか。
ていうか、この外部と内部の弁証法みたいなものとしてグリーンバーグのコラージュ論は記述できそうか。だから、作品にとって内在的な価値とかの話になるほうが変で、作品にとっての内在的なものと外在的なものがどのようにコンフリクトを起こしながら統合されるか(あるいは分裂するか)、ということは批評の課題になっている。
近代の超克の西谷論考読むと、どうしてもすごいアホっぽく見えてしまうけど、他を読むとやはりぜんぜんそんなことはなくて、やっぱりアホに見えるようにしているんだろうなという印象がある。天然であることも否定はできないけど...。
ああ、長いことなにを課題に感じていたのかようやく思いだしてきた...。絵の具はなぜなにか絵の具ではないものに見えるのか、なんだ。
「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」のウィリアム・ルービンの論考読んでいるけど、1906-1907年に芸術家たちが「部族芸術」を突如として受け入れるようになったのはなぜか、という問いを立てて、「最も重要な理由は、最前衛にあった芸術の性格が視覚的認知に根差した様式から、概念化に基づいた様式への根本的に変換したことと関係している」という記述は、本論と無関係に残念だな...。
「政治から解放された人文書の世界をつくりたい」っていうのを見て、昨日も別な所でそんな話をしていたのでちょっと考えたけど、自分にとっては「芸術の政治性」なんていうものが重要なわけではなくて、単にリアリティの問題なんだなとおもった。政治と厳密に区分しうるものとしての芸術、というところにすでにリアリティを感じられなくなった。
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これは買わなければ。いつ読むんだ。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3821&status=published
すごくどうでもいいことなんですが、ウマ娘ってなんで前傾姿勢で走るのかがずっとわかっていない。短距離長距離かかわらず人体的なものが走る動作をするときに前傾姿勢になるの最初くらいなのでは。
1900年前後に前衛の政治性って自明なものとして受け取られていたと思うんだけど、マティスのような人の手によって政治と芸術が完全に分離されていったのはなぜなのか。マティス自身がしばらくの間はブルジョワ的だとしてフランス本国で受け入れられなかったのは、鑑賞者がわに反ブルジョワ的なものとしての芸術という観念があったからで、そういう反ブルジョワとしての芸術がどれだけ真剣に政治性があったかは別としても、当時は芸術のなかに政治的メッセージを込めることは自然と受け入れられたものだったと思う。マティスには皆無だけど。