twitterみてると精神消耗するからやっぱりだめだな
ちゃんと書いてみるとバカみたいな議論になる一方で、すごく厄介でめんどくさい議論にも踏み込んでしまう...。
でもポリコレどうこうまじで関係ないんだが、そう受けとられるんだなとおもった。
https://twitter.com/tenjuu99/status/1653110836318339072?s=20
これ、自分の意図どおりに読めている人とそうでない人がいるのはどういう訳なんだろう...。自分の文章はわかりやすいわけではないとおもうのだけど。
植民地主義時代における表象システムの分析が必要というのが根本にはあって、それはフーコー的な議論をしているつもりなんだけど、芸術家の内在的な諸問題の解決・発展みたいな枠組みで語りだしてしまうと、そういうことができなくなっちゃう(まあそんなこと記事に書いていないんだけど...)。芸術家は社会的な制約から自由にいろいろ選択できる、とかそんなことありえないのに、マティスの選択だけにフォーカスしてしまう、それを可能にするために彼が何を描いたかという研究を捨てる。キュレーションもそこに結託する。それらが全体として機能してマティスという像を作りあげる。
そんなめんどくさい議論をしているつもりだったので、短絡したメッセージを受けとられるだろうなとおもっていたけど、どうもそれが意外と伝わっている印象がある。
キャンプ、結局楽しみの大きな一つが「ギアを集める」「選定する」で、ここの部分でぶっちゃけただの産業資本主義なんだよな。youtube見てるとみんなギアもきれいで使った形跡ないし、まあ使ってたり、撮影用にもう一つ用意してるんだろうけど、所有欲を持たそうとしてきてるだけだったりする。だから矢口高雄の漫画の名台詞「こんなもん買うバカがあるか「おらたちは物を買うなんてアホなことはしねえ!!」「たいていのもんは自分で作っちまう」を思い出す。本当に大事なのは「こちら側に残ること/もの」なんだよね。自律性を取り戻す。そのために「道具の力を借りる」イメージ。
道具って道具を呼ぶんですよね。焚き火がしたい。じゃあ焚き火台がいる。だとするとつかみもいるしトングもいる。焚き火シートもいるし、着火剤も....みたいに増えていく。「やらない」。「もたない」。この一択だけですべての道具がいらなくなる。
で、道具って「うるさい」んですよね。道具を呼ぶから。「使って!」とこちらに情報を送信し続けてくるから。
「われわれは帝国主義についての知識が足りないし、美術館もその知識の欠如をよしとする展示をしている」って主張したら、ポリコレだとか「マティスは植民地主義的なんてずっといわれている」とか「現代はもう違う」とか言われる世界なんだなー。勉強してくれとしか言えない...。
いや自分も最近まで知らんかったから言いづらい話なんだけど、無知に開きなおるのはバカか恥知らずなんよ。
ナショナリズムがどう機能するかということがわからなくても、植民地主義時代のフランス芸術の分析が分析できると信じているのはおめでたい人なんだっていうことがわからない。それだけフォーマリズムの毒は強い。
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@on1000mark いやほんとにごく一部の反応で、批判ならいいけど揶揄だけされてましても...という感じです。論証っぽい見た目を持たされているだけに反応せざるを得なかった...。インターネット圧力に負けてしまった。
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リンダ・ノックリンいま読みはじめてて(いまさら)、おもしろいというか、自分の関心とめっちゃ近いやんっておもっているけど、リンダ・ノックリンを通じてしか植民地主義について語れない、あるいはリンダ・ノックリンについて語っていれば植民地主義について語ったことになる、という勘違いが業界にある。自分自身がどういう位置に配置されているのか、そういうことが問えていない。
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Twitterをやめたエンジニアが開発環境なんてなかったと証言していたけど、開発環境作られたという証明になった。良かった。
こういう感想がわりとあるっぽいのがよかった。めんどくさがらずに説明すればいいだけのことで、それも美術のおもしろさなので。
https://twitter.com/tarushirazu/status/1653350756932800514