BT そうだろうと思いつつ、今日のブルターニュ展とかを見て、やっぱりこういう知的に刺激のある展示はできるわけじゃんっていう感想があり(しかも日本にある作品が多いのでたぶん予算的にはずっと楽とおもわれる)、研究と啓蒙の実践をうまくやっているところとそうでないところがありそうで、なんだろうな。キュレーションの技術がいまのところ属人的とか、そういうことなのかもしれないけど。
BT そうだろうと思いつつ、今日のブルターニュ展とかを見て、やっぱりこういう知的に刺激のある展示はできるわけじゃんっていう感想があり(しかも日本にある作品が多いのでたぶん予算的にはずっと楽とおもわれる)、研究と啓蒙の実践をうまくやっているところとそうでないところがありそうで、なんだろうな。キュレーションの技術がいまのところ属人的とか、そういうことなのかもしれないけど。
どんな視点からの対象の構成も単純化を伴うわけだから、キュレーターがやるべきことは、単純化を含む視点を複数提示することになるのだろう。そうしてこそ、対象の掬いきれなさが複雑性として立ち現れることになる。一つの視点から見たときと別の視点から見たときに、往々にしてズレや矛盾をはらむものなのだから、そこにこそ鑑賞者がさらなる探求を求める余地が生まれる。
マティスという人、19世紀的な「自然」という概念から決定的な離脱を果たした人で、彼なしに20世紀芸術がありえないくらいだとおもうけど、それがどのようにして起こったかがわからない。当時のあり方からして、あまりに急進的すぎる。
「どのようにして」と問うこともおかしいのかもしれないけど...。
これも似たような性格がある...。
自然と二次的なシステムとしての絵画というものがあるとしたとき、それが19世紀的な絵画観を決定していたけど、マティスのやっていたことは絵画は完全に自然から独立した存在者だということだ。19世紀の絵画は、セザンヌでもゴッホでも、「実世界のモデル化」を志向していたとおもう。彼らの語る「自然」はいまの自分にはスッと入ってこない概念なのだが...。この入ってこなさには、やはり決定的な切断がある。
https://twitter.com/sumim/status/1655281322167013377
じゃあといって、19世紀の画家たちは「再現(representation)」をしていたのかというと、ぜんぜんそんなことはない。セザンヌもゴッホもロダンもそうだけど、自然に内在する生成力を発見し、その生成力から絵画や彫刻を生みだそうとしていた。
マティスがやっているのはまったくそういうことではない。というかマティス解釈を通じて、19世紀の絵画は representation だという了解ができあがった(実際にはキュビスムの解釈を通じてだろうけど、キュビスムに内在していた諸問題はほとんど初期のマティスに見られるとおもう)。19世紀芸術の「自然」概念が了解しづらいのは、20世紀芸術の(漠然とした)理解を通じて「19世紀画家たちは再現representationしていた」という了解があるからだとおもう。絵画がなにかを represent するという概念は20世紀にあらわれた概念だろう。
@gon_gitsune ヴァリエーションはわかりませんが、メソッドはプログラミングの用語のやつかもしれないですね(本を未読なので指示対象の認識があっているかわかりませんが)
アラン・ケイ、もうおじいちゃんだなぁ
https://www.techno-edge.net/article/2023/05/08/1249.html