@gon_gitsune まさにそうなのですが、ただ国内事情的な問題として、いわゆるブロックバスター展という問題があり、つまりある程度観客にウケないといけない。そのなかでマティスという作家は日本人観客にとって口当りがよい作家なのですよね(だからブロックバスター展の対象にえらばれる)。しかし、ブロックバスターだからといっても、もうちょっとなんとかなりそうかなという印象があったので記事にしたところでした。
@gon_gitsune まさにそうなのですが、ただ国内事情的な問題として、いわゆるブロックバスター展という問題があり、つまりある程度観客にウケないといけない。そのなかでマティスという作家は日本人観客にとって口当りがよい作家なのですよね(だからブロックバスター展の対象にえらばれる)。しかし、ブロックバスターだからといっても、もうちょっとなんとかなりそうかなという印象があったので記事にしたところでした。
@gofujita @tomooda
美術館には美術の啓蒙活動という側面があり、おっしゃるとおり、そこが研究と社会を繋ぐ活動になっているとおもいます。
日本の場合、西洋芸術の紹介というのがなかなか厄介な問題があり、というのも、借り物で構成されることが多いためお金がかかってしまい、集客できる人気作家に偏ってしまう(印象主義など)。マスにアプローチする都合上、観客の知識レベルも想定しづらく、レンジをひろくとって、かなり初歩的な説明も必要となってきます。
これをしばらく続けることにはとくに問題ないとおもうのですが、今回見に行った展示が20年前にも同じ作家の回顧展をやっていて、説明のあり方にあまり進歩がなかったように感じられました。アカデミックな領域では20年のあいだにあきらかに進んでいるはずなのですが、それが啓蒙レベルにはおちてこないのだとすると、やはり美術館としては観客を育てることに失敗したのではないか、ということを感じています。つまり、集客はするがなかなか教育を回路に組み込めない、というのが現状なのかなと感じました。
このあたりは美術館によっても状況が違っており、たとえば国立近代美術館では、常設展は所蔵作品でいろいろできるので、学術的な研究を反映した内容の展示を展開して、行く度に新鮮な発見があったりします。これは集客しなくてもよいからでもあるとおもいます。
担当学芸員の方が、わたしの記事を読んでだとおもいますが、今後の課題とおっしゃっていたので、たぶんここで述べたような課題感(集客と啓蒙の課題)があるのだろうなとおもいました。
https://twitter.com/ton0415/status/1652704133835800576
マティスの記事、まさか600もRTされるとおもわなかった。
じぶんとしてはある程度ギョーカイ人に対する批判のつもりだったから、読まれるとしても美術業界インナーサークルで記事が回覧されるものだとおもっていたのだけど、意外だったのは、RTの連鎖が始まる当初はぜんぜん業界の人ではなく、一般のアートファンっぽい人たちだった。というかたぶんメインで読んでくれたのがアートファンっぽい。
アート受容層、自分がおもっていたよりも遥かに裾野が広いんだなっておもったのと、若干ややこしいテキストでもいがいと読んでくれる。そうすると、綺麗事ならべてヨイショヨイショする美術メディアじゃなくてもぜんぜん成立するぞって気がしてきた。
https://twitter.com/tenjuu99/status/1652306560260128770
@gofujita @tomooda 恐竜展で、専門家が見ても刺激があり、子供の探究心を誘うような仕掛けをつくるというのは、とても興味深いです。まさしくそういう課題が美術館にもあるとおもっていますが、美術の学芸員もサイエンスコミュニケーターのかたたちと展示技法やアプローチについていろいろ議論していくとよいのかもしれないとおもいました。
> 人気作家の企画展でも、集まった人たちがつぎのステップへ進むきっかけになるような展示構成をつくるのも可能な気がする
こちらはまさにそのとおりだと感じています。わたしの印象としてはやっぱり美術館側がまだ観客をなめているという気がしていまして、観客もバカじゃないからこんな展示じゃ満足しないぞって突き上げをしていく必要があるのかなとおもっています。
> 作品が生まれる背景にこれほど強烈な議論があることに触れることができ、本当によかった
この感想はたいへんうれしいです。わたしは美術をつうじて社会を理解してきたというところがかなりあり、それは科学によって自然を理解するということとやはり似ているのだとおもいますが、それも芸術を見るおもしろさの一つだということがもっと広まるとよいなとおもっています。
展示を企画する側は、客にきてもらう必要があるから批判的な構成なんてしない。マティスを好きになってもらう努力をする。それでいろいろ脱臭していくことになる。美術はいいものだという態度をまず崩すことができないから、アカデミーで研究が進んでみても、たぶん美術館で止まってしまう。美術館が語る言語に問題があるんだけど、これはどうやって言語化され批評されるべきなんだろうか。
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@gofujita @tomooda
美術館には美術の啓蒙活動という側面があり、おっしゃるとおり、そこが研究と社会を繋ぐ活動になっているとおもいます。
日本の場合、西洋芸術の紹介というのがなかなか厄介な問題があり、というのも、借り物で構成されることが多いためお金がかかってしまい、集客できる人気作家に偏ってしまう(印象主義など)。マスにアプローチする都合上、観客の知識レベルも想定しづらく、レンジをひろくとって、かなり初歩的な説明も必要となってきます。
これをしばらく続けることにはとくに問題ないとおもうのですが、今回見に行った展示が20年前にも同じ作家の回顧展をやっていて、説明のあり方にあまり進歩がなかったように感じられました。アカデミックな領域では20年のあいだにあきらかに進んでいるはずなのですが、それが啓蒙レベルにはおちてこないのだとすると、やはり美術館としては観客を育てることに失敗したのではないか、ということを感じています。つまり、集客はするがなかなか教育を回路に組み込めない、というのが現状なのかなと感じました。
このあたりは美術館によっても状況が違っており、たとえば国立近代美術館では、常設展は所蔵作品でいろいろできるので、学術的な研究を反映した内容の展示を展開して、行く度に新鮮な発見があったりします。これは集客しなくてもよいからでもあるとおもいます。
担当学芸員の方が、わたしの記事を読んでだとおもいますが、今後の課題とおっしゃっていたので、たぶんここで述べたような課題感(集客と啓蒙の課題)があるのだろうなとおもいました。
https://twitter.com/ton0415/status/1652704133835800576
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自分は日本の美術館が観客なめてるなとおもうけど、今回のマティス展のはポンピドゥー側がめちゃくちゃ日本の観客なめてるとおもっている。記事に引用したマティスの「赤いキュロットのオダリスク」のカタログ記載、あれたぶんポンピドゥー側が差配した人だから(アンヌ・テリという人で、アンリ・マティス資料館というところにいるらしい)。カタログの構成もかなりポンピドゥーが口出ししているっぽいし。
フランスからすると日本はいい市場なんだろう。アメリカは自国でヨーロッパ近代のマスターピースもっているし、自国のアーティストを取り上げていけばいい。日本は「近代がない」という欠如意識というか、裏返すとヨーロッパへの憧れをいまだに捨ててないから、いくらでもイデオロギー注入できるとおもわれている。
フランスとしては、マティスの作品を通じてヴァンスの礼拝堂とか宣伝できれば観光産業がもうかるってわけで、よりフランスへの憧れをかきたてさせなければいけない。だからニースとかヴァンスとか固有名使う。オリジナルを見ないとわからないことがたくさんあるよねっていうような余白をもたせる。そういう構成をいつまでも続けさせるのは美術館人の怠慢だとおもう。
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藪前さんツイート消してたけど、補足でたしかにキャンセルカルチャーが云々とか言っていて、はっ?どういうこと??とはなったな。あの記事を読んでキャンセルカルチャーの文脈読むのは訳がわからない。キャンセルしてないし、読んでくれた人もキャンセルしようなんて人はみなかった。自分はマティス好きなんだけど、フォーマリズム解釈はもう飽きてるからもっと新しいマティス像を提示してよって思う。フォーマリズムっぽくないとマティスを見る楽しみがないなんてわけがない。
マティスのオダリスクに新鮮な造形的アイデアがあるからオリエンタリズムではないっていう理屈も意味がわからないけど、そもそもその理屈はレオ・スタインバーグの時点(1968)で批判されてた古典的なフォーマリズムでしかない。ぶっちゃけ20年前のマティス展のほうがその文脈踏まえた上で、マティスの性的な眼差しについて言及している。キュレーションという点で言えば後退というよりほかない。