このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
ウェブサイト
https://mrmts.com
2024年断酒・ストレッチ記録
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1G0GO7GAlXcFlUfdz-aeYKmBMLv5DPiJCCPVLn43iPkI/edit?usp=sharing
この本で生殖補助医療の倫理学について書いています。https://amzn.to/3Z0JZfo
近年は小児の身体拘束について研究しています。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
ウィシュマさんのこと。新聞等の報道では入管施設で「死亡した」「亡くなった」という表現が基本的に使用されている。これだとウィシュマさんが入管施設やその職員とは関係なく自分で勝手に死んだみたいじゃないか。もちろん、司法判断に付される前であって報道機関が事実報道・客観報道に努めなければならないことは言うまでもない。ただ、これだけ証拠が出てきてもなおその表現を使うのかと。新聞やテレビは、密室で手足を縛られて背中から鋭利な刃物で刺された遺体が見つかっても「死亡した」とか「亡くなった」と報道するだろうか。
個人のSNSアカウントでは「死なせた」とか「見殺しにされた」などとより踏み込んだ表現を用いているものもある。しかしながら、ウィシュマさんの事件は、故意ではなく過失によって入管職員等が結果的に死なせたとか、あるいは勝手に死にそうになっている人をたんに親切でない人が助けなかったというような事例なのだろうか。違うだろう。(続く)
ウィシュマさんについての投稿の続き。この事件は、懲罰、拷問、見せしめのために基本的人権を無視して長期間にわたって不当に逮捕・監禁し、本人の自由を奪った状態で適切な医療も受けさせず、通常の判断能力があるならば絶命するとわかる状態に意図的に置き続けた上で入管職員等が故意に殺害したのであり、殺意がなかったなどという可能性は微塵も考えられないのである。少なくとも私はそう見なしている。
だから、もちろん法治国家である以上、適切な証拠と手続きに則って公正な裁判のもとウィシュマさんの殺害に関与したと考えられる者たちの罪のあるなしは判断されるべき事柄であるが、私はウィシュマさんが入管施設で「死亡した」とか「亡くなった」とか、あるいは「死なせた」とか「見殺しにされた」という表現には違和感があることを訴え続けるし、入館職員等によって、国家によって、そしてそれは私たち日本人によって(そういう意味では私自身が)故意に殺害したのだと訴え続ける。
500円でお腹いっぱい食べて(白米と薄いみそ汁ばかり)帰宅中。統一地方選(前半)の投票が締め切られ、きっと当選確実が一気に出ているのでしょうが、関連する投稿がMastodonでも増えていますね。
そんな、大阪府知事選や大阪市長選挙なんて開票速報を見ていまさら驚くようなことでもないでしょうに。選挙の結果なんてアップデートおおさかが出てきた時点で決してたじゃない。それとも現実的にはありもしない「もしかしたら」にしがみついて、現実から目を背け、「谷口さんとたつみさんの挟み討ちで」とか「総がかりで」とか妄想を膨らませ、現実とは違う結果があると信じるほど想像力が貧困なのですか、みなさんは。
そうこうしているあいだに家に着いた。帰宅だん。