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 第4章は「マスメディアはネットよりも信じられるのか」というタイトル。内容的にはメディアリテラシーの教科書に書いてあるようなこと。この章はこれまでのように細かくは取り上げないで、いくつかにしぼって引用しコメントを付す。長くなるのでいったんここで区切る。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

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 マスメディアのフィルタリング機能と両論併記の意義について。

 次の箇所は、昨日の兵庫県議会で増山誠県議が百条委員会の報告書を採決することに対して行った反対討論にそのまま当てはまること。

「本当に反対の主張をすべて取り上げるべきなのだろうか。たとえば、地球が丸いという主張やナチスによりホロコーストが行われたという主張にさえも、反対意見は存在する。しかし、マスメディアは地球平面説の主張やホロコーストを否定する主張をも十分な時間や紙面を割いて伝えるべきなのだろうか。おそらく、そう考える人は少ないだろう。その理由は、地球球体説やホロコーストの存在はこれまで数多くの証拠によって支持されてきたのに対して、これらの主張はそうではないからである。にもかかわらず、同じだけの時間や紙面を割いてこれらを伝えることは、『その主張はまだ未決着で、同程度の確からしさをもって論争中の立場のひとつである』という間違ったメッセージを暗黙のうちに伝えることになってしまう」(135頁)

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 第4章の最後。146-147頁で「認知バブルに陥らないために」という節。ここまでフィルターバブルやエコーチェンバーについて説明され、それらがネット空間でなくても以前からあったこと、それでもネット空間の特性や固有の問題があることが説明されてきて、これらに伴う問題を「認知バブル」と呼ぶ。

 で、何か解決策とか答えがあるのかと思いきや、お決まりの〈徳〉の話。ここでは「知的に公平な心(intellectual fair-mindedness)」が提示される。第3章もけっきょく「知的な謙虚さ」という徳の話だったんだよね。私も知的な謙虚さを重視する立場ではあるけど、それを徳という文脈の中では捉えたくないし、捉えてもいないのよね。

 結局最後は〈徳〉頼みになるところが、個人的にはいまいちかなあと。

 第4章はここまで。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

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 第5章「陰謀論は信じてはいけないのか」について。

 151頁、カール・ポパー「社会の陰謀論」(1972年)とそれに対するチャールズ. ピグデンの批判を紹介。

 陰謀論の定義に「否定的な価値評価」が含まれているよねというコーディの批判(153-154頁)と、その一例としてロブ・ブラザートンの定義(154頁)

 155頁からは科学理論のように、否定的な価値評価を含まない陰謀論の定義の話。これって「仮説」と何が違うのだろう?

 で、ここまでは陰謀論を消極的に擁護するという話だけど、もっと陰謀論の価値を接子y区的に評価しようというのが157頁からの「社会における開放性」という節。陰謀論で明らかになることや社会のチェック機能を果たしているという考え方の紹介。

 それでも陰謀論は魔女狩りに近い状態ということで、コーディがそれをミランダイ・フリッカ―の「認識的不正義(epistemic injustice)」の一次例とみなしているという話。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 このあと160頁から、歴史学と心理学の陰謀論が取り上げられる。歴史学の陰謀論のところでは、呉座勇一氏の説明がしょうかいされるのだけど、「あえてここで呉座氏を出してきたな」という解釈を陰謀論とみなす陰謀論を陰謀論と見なす...みたいなことを考えてしまった。

 心理学の陰謀論は162頁から。疑似科学の話にちかいなと思ったら、170頁以降で反証可能性の話がしっかり出てくる。

 165頁から陰謀論は不合理だというカッサムの批判について。不合理な陰謀論の思弁的、逆張り、秘儀的、アマチュア的、前近代的な特徴についての説明。170頁では、カッサムが付け加える6つ目の特徴、自己封鎖性についても説明。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 170頁から陰謀論の反証不可能性の話なんだけど、これには理論内在的な意味と「陰謀論を信じると、その人を取り囲む人々との関係性が組み替えられていき、反証可能性が排除されるような社会的環境がつくりだされていく」(172頁)意味があると。

 この後者のメカニズムについて「バウアマンらによる1次的意見と2次的意見の区別」(172頁)が紹介される。この172-174頁の記述はとてつもなく重要。いつか余裕があれば取り上げたいけど、ここはぜひ本書を買って読んでほしいところ。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 第5章の最後は、私たちが陰謀論にどう対処したらよいのかということ。まずはキャス・サンスティーンの「認知的潜入(cognitive infiltration)」に言及。ところがこれには問題があって有効かどうかわからない。そこでカッサムによる3つの対処法、反駁と暴露と教育が紹介される。

 最後の教育は「通常の情報教育のようなものではなく、本書でたびたび言及してきた、より根本的な徳の教育である」(176頁)と。そして「陰謀論に対抗するために有効な徳として」カッサムが挙げているのは「開かれた心(open-mindedness)、批判的な思考(critical thinking)、証拠に対するリスペクトなど」であると。

 開かれた心は「陰謀論を信じるほうへと働く可能性もある」(177頁)。結局どうしたらいいのかってことで「それぞれの徳を切り離して教えるのではなう、『徳の統一』を教育の目標とすることである(Annas 2011)」(177頁)というのが本章の結論。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 第5章の結論も結局は徳の話か、というのが正直な感想。終章「真偽への関心は失われていくのか」はまとめとふりかえりのようなもの。最後は「即断せずに立ち止まって考えましょうや」といったところ。あとがきは読書案内と謝辞。そのあとに洋書を含めた参考文献がしっかり記されている。

 ということで、山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年を読了。

 来年度の教科書に指定したいなと思って猪田だけど、シラバスの入稿には間に合わなかった。もう少し早くに読めていたらよかtたのだけど、残念。とてもすばらしい本だった。

 高校生や大学生にはぜひ読んでもらいたい1冊。もちろん、大人にも。余裕があれば、これまで書き散らしてきたことを整理してnoteか何かにまとめられたらなと。ま、こういう場合たいてい、そんな〈余裕〉はないのだけど。

amzn.to/4bpvlWn

15:48:21
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 これまで書き散らしてきた『フェイクニュースを哲学する』についての読書メモを、noteにまとめました。とおしで読むことができますので、よければご覧ください。

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山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年の読書メモ|mrmts
15:58:52
2025-03-06 13:50:09 nogajun🍉の投稿 nogajun@mastodon.social
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2025-03-06 14:03:36 Gou☮️🍉🐶🏴🏳️‍🌈:catodon:の投稿 gou@catodon.social
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