11:16:54
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 このスレッドの5つ前の投稿と10個前の投稿に関連する話。案の定、昨日の兵庫県百条委員会で奥谷謙一委員長が読み上げた調査報告書(案)の総括部分「知事のパワーハラスメントについては、パワハラを受けたとの証言はなかった」を取り上げて、嬉々として「パワハラはなかった」とSNSに投稿したりそれを拡散したりしている人たちがいますね。

 省略にもいろいろあるけど、たとえば「パワハラを受けたとの証言はなかった」の「を受けたとの証言」の部分を取り除けば「パワハラはなかった」という表現になる。とはいえ、この2つの意味はまったく違う。

 同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒がひどく迫害されている世の中にあって虚偽の証言したことがわかれば命に関わるような状況で、誰かに「お前は同性愛者か/ユダヤ人か/キリスト教徒か」と問われ「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒であると証言する者はいなかった」場合に「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒はいなかった」ことにはならないように、この2つの意味はまったく違う。

 あまりにも単純明快、明晰判明なこと。またnoteにまとめるけど、ChatGPTに尋ねた結果も載せておく。

ChatGPT 4o 質問: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じですか?もし同じではない場合、前者の前提から後者の結論を妥な推論に基づいてそのまま導き出すことはできますか? ChatGPTの回答: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じではありません。前者は「証言がなかった」という事実を示しているだけであり、それが「パワハラが実際になかった」ことを意味するわけではないからです。 論理的な違い ・「パワハラを受けたとの証言はなかった」 → これは「誰もパワハラを受けたと証言しなかった」 という事実のみを述べており、実際にパワハラがあったかどうかは不明です。証言者がいないだけで、パワハラ自体はあった可能性があります(例えば、被害者が恐れて証言しなかった場合)。 ・「パワハラはなかった」 → これは「実際にパワハラが存在しなかった」という断定的な主張です。証言の有無に関係なく、パワハラが発生しなかったことを意味します。
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11:43:34
2025-03-05 11:16:54 Seiichi MORIMOTOの投稿 mrmts@mstdn.mrmts.com
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 このスレッドの5つ前の投稿と10個前の投稿に関連する話。案の定、昨日の兵庫県百条委員会で奥谷謙一委員長が読み上げた調査報告書(案)の総括部分「知事のパワーハラスメントについては、パワハラを受けたとの証言はなかった」を取り上げて、嬉々として「パワハラはなかった」とSNSに投稿したりそれを拡散したりしている人たちがいますね。

 省略にもいろいろあるけど、たとえば「パワハラを受けたとの証言はなかった」の「を受けたとの証言」の部分を取り除けば「パワハラはなかった」という表現になる。とはいえ、この2つの意味はまったく違う。

 同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒がひどく迫害されている世の中にあって虚偽の証言したことがわかれば命に関わるような状況で、誰かに「お前は同性愛者か/ユダヤ人か/キリスト教徒か」と問われ「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒であると証言する者はいなかった」場合に「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒はいなかった」ことにはならないように、この2つの意味はまったく違う。

 あまりにも単純明快、明晰判明なこと。またnoteにまとめるけど、ChatGPTに尋ねた結果も載せておく。

ChatGPT 4o 質問: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じですか?もし同じではない場合、前者の前提から後者の結論を妥な推論に基づいてそのまま導き出すことはできますか? ChatGPTの回答: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じではありません。前者は「証言がなかった」という事実を示しているだけであり、それが「パワハラが実際になかった」ことを意味するわけではないからです。 論理的な違い ・「パワハラを受けたとの証言はなかった」 → これは「誰もパワハラを受けたと証言しなかった」 という事実のみを述べており、実際にパワハラがあったかどうかは不明です。証言者がいないだけで、パワハラ自体はあった可能性があります(例えば、被害者が恐れて証言しなかった場合)。 ・「パワハラはなかった」 → これは「実際にパワハラが存在しなかった」という断定的な主張です。証言の有無に関係なく、パワハラが発生しなかったことを意味します。
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12:10:41
2025-03-05 12:06:39 おさの投稿 osapon@mstdn.nere9.help
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サーバトラブルのため、notestockの検索と投稿反映が少し止まります。

13:24:36
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 noteに記事を書きました。よければご覧ください。

RT: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」は「パワハラはなかった」を意味するのかどうかChatGPTに聞いてみた|mrmts note.com/mrmts/n/n26d095603c0a

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「パワハラを受けたとの証言はなかった」は「パワハラはなかった」を意味するのかどうかChatGPTに聞いてみた|mrmts
14:26:53
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 第3章「どの専門家を信じればよいのか」について。これもだいじなことよね。

 84頁から専門家不信について。その原因の一端でもある御用学者について85頁で言及。行きつく先に地球平面接や地球温暖化否定論(気候変動否定論)があり、「これらの節の信奉者は、それぞれの分野において多くの専門家が言ってきたことや、あるいは既存の科学的な言説そのものを否定する」(85頁)と。

 ここで、専門家を信じる人に対して次のように問われたら何と答えるかという問題提起。

「あなたのほうこそ、『専門家』と呼ばれる人たちを無条件に信じているに過ぎないのではないか。その人たちが言っていることを正しいといえる根拠をもっているのか」(85頁)

 さあ、みなさんなら何と答えるだろう。

 直したつもりになっていたAmazonのリンクが直っていなかった。というか、かなり最初の方から違った商品へのリンクになっていたようだ。今度こそ大丈夫なはず。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

14:38:02
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 86頁から「専門知についての3つの困難」という節。まずジョン・ハードウィグの論文を手がかりに「専門家(expert)に対する非専門家の信頼は必然的に無根拠なものにならざるをえない」という指摘を紹介。この論文は無料で読むことができる。

philarchive.org/rec/HARTRO-3

 この点はまあそうだわね。それで3つの困難とは、(1)「専門家が結論を導く際に依拠している前提を非専門家が共有できていないこと」、(2)「専門家の論証を聞いても前提と結論のあいだの支持関係を非専門家が評価できないこと」、(3)「その論証に対する反証(証拠による反論)に非専門家は馴染みがないこと」である。(87頁)

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

Web site image
John Hardwig, The role of trust in knowledge - PhilArchive
15:06:11
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 では、非専門家は自ら専門知を身につけない限り専門家同士の主張が対立する場合にどちらの主張が信頼に足るものなのかどうか判断のしようがないのかといと、そうではないというアルヴィン・ゴールドマンの主張が88頁から紹介される。

 ゴールドマンの論文も、登録さえすれば無料で読める。
philpapers.org/rec/GOLEWO

 1つ目は論証の仕方について。これは私も授業で必ず説明するところ。ただ、90頁でも述べられているとおり、何が正当な根拠や反証なのかということが理解できなければ意味をなさないし、じっさい多くの人がその段階で困難を抱えているので、実感としてほとんど役に立たないのよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

Web site image
Alvin I. Goldman, Experts: Which ones should you trust? - PhilPapers
15:19:29
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 2つ目は専門家の過去の証言の記録が参考になると言う話。(91-92頁)これは第1章の「一致条件」の専門家版だと。

 ただ、著者も指摘するように、専門家の証言が専門的知識に関わるものであればあるほど「非専門家にはその過去の証言が正しかったのかどうかが判断できなくなっていく」(91頁)という問題があって、でたらめばっかり言ってる専門家がいたときに、証言の記録はものすごく積み上がるけど、これは専門家が信頼できることとは真逆の話よね。

 そこで、専門家による予測とその結果を観察することで非専門家でも専門家の言っていることが信頼できるかどうか判断する材料が得られるという考え方が提示されるけど、ひとつには予測と結果のあいだに時間差があると、予測がでたらめであったとしてもそのことが証言の記録として実質的に積み上がっていかないという問題があるだろうし、もうひとつには、著者も指摘しているように予測と結果が非専門家にとってそんなにわかりやすいものばかりではないよねと。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

15:33:34
2025-03-05 13:14:31 kako(人民kakopon 入管法改悪反対)の投稿 kakopon@mastodon.social
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17:15:28
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 92-94頁で利害関心とバイアスについて。いわゆる利益相反(という表現は本書では使われていないけど)の話。御用学者についても言及(93頁)。これは第1章で見た「誠実性条件」の専門家版であると(94頁)。

 この点についても、ほんらいこれらが意味するところと逆に理解ないし逆の使い方をする人が少なからずいるので、効果は疑わしいよね。

 兵庫県百条委員会の調査で言えば、公益通報についての専門家の意見は軽視や無視をして、公益通報の専門家でもなければ斎藤知事を支援していた維新や統一教会と深いつながりのある利害関係者であるところの弁護士の意見をこそ採用すべきだという主張なんかがこれに該当するけど、そんな主張をする人に「利害関心とバイアス」の話をしても通じるはずがない。これはでたらめな情報を流す、内容の真偽はどうでもいい人の話ではなくて、本当に認知的にこういう理解をしている人の話として。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

17:41:23
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 同意する専門家の多さについてはどうかというのが94頁から。ゴールドマンのベイズ的アプローチを用いた説明を、のび太と武とスネ夫の例でわかりやすく解説してくれている。まあ、武がリーダー的存在のグルでスネ夫がそのフォロワーだったら、どれだけ武に賛同する人がいたとしてもそれは武の主張の信頼性を高めることにはならないよねって話。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

18:50:55
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 97-100頁で「信念形成ルートの独立性」について。これは第1章で言えば「複数の情報」ではなくて「複数の情報源」にもつながる話。

 98-99頁で追試についての説明。いわゆる実験と観察、あるいは再現可能性の話。

 専門家のあいだではこれで通じるけど、非専門家にはこのことを説明しても通じなかった具体的な事例がSTAP細胞の事件よね。

 説明のための具体的な事例として「生物の起源を『聖書』の天地創造説に求める創造科学」と進化論が例に挙げられている。わかりやすい。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

19:00:12
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 100-101頁でメタ専門家の話。再試をしても同じやり方で確かめるのならその説を信じる根拠にならないよねという問題提起から。

 これは、どうなんだろう。科学的実験の理論負荷性みたいな話にも関係思想なところだけど、まあ厳密に言えばその通りなんだけど、ここでの議論でそこまで厳密にこだわる実践的な意味があるのかどうかについては正直疑問。でも、まあとりあえずこの点については受け入れたとする。

 そこで出てくるのがメタ専門家の話。同じ領域の専門家は、その筋の専門家の評価をするのに向いているというのだろうか、能力が高いというのだろうか、ともかく著者の言い方であれば「餅は餅屋に」というやつ。

 ただ、この点について、専門家への不信を払しょくするという文脈で言えば効果は無いと私は思っていて、というのも、地球温暖化否定論者(気候変動否定論者)ってまさにそのメタ専門家をあやしんで否定的に評価するわけだから。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

19:56:40
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 101-104頁は「他の専門家による査定」について。専門家を自称していたらその人を専門家と見なしてよいのか、ゴールドマンが5つの根拠を挙げていると。

 1つ目は、資格認定や学位。弁護士、医師みたいな資格であったり、博士といった学位であったり。

 このあと「権威に訴える論証」への問い直しがなされる。これは誤謬推論の一種とされるものだけど「専門能力の証しのひとつである資格や学位という権威に訴えて、その分野のその人の発言を信じることには根拠があることになる」(103頁)と。

 私はこれについても懐疑的。だって、その専門家が誠実であるかどうかは私たちにはわからないわけで、じっさい誠実ではないと思われる資格や学位をもった人が、それこそ御用学者のようにふるまう姿を私たちは少なからず目にしているから。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

20:02:25
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 もうひとつ。著者は学位と違って大学における職位としての「教授」という肩書は、ここに言う「専門家」とは異なると指摘する。それは、確かに大学が教員を採用するにあたっては「メタ専門家による査定が行なわれている場合も多いが、必ずしもそれは必要条件にはなってない」(104頁)からだと。

 この指摘はそのとおりだと私も同意するのだけど、だとすると先ほどの資格や学位はどうなのかってことにも同様のことは言えるわけで、たとえば弁護士だって司法試験を経由せずになることができるし、学位だってその質がどこまで担保されているのかかなりあやしいものである。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

21:14:20
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 104頁からは査読について。学位といっても、それだけでは専門分野はわからないよねという話から、研究業績が参考になると。じゃあ研究業績って何でもありかと言えばそうではなくて、査読が学問の世界で確立されてきたんだよと。

 査読も疑えるよねと。ここでSTAP細胞の話、ソーカル事件、不満研究事件についての言及。ただ、査読も完ぺきではないけど、それが間違っていたとなったら撤回されたり訂正されたりすると。そうやって信頼を気づいてきているんだみたいな話。

 ここまでのところでフェイクニュースやデマとの絡みで言うならば、一般の人にそもそも査読なんてことなかなか通じないよなあと。査読と言ってもいろいろだし、専門分野にもよるところも大きいし。

 そもそも、専門家不振で査読の有効性を認めない人にはこの話は通用しないよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

21:21:45
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 107-108頁は「認識の基礎としての制度」という節。けっきょく、資格、学位、査読と言った査定で「ある人の証言を信じるとすれば、それは単にその証言者を信頼しているだけでなく、その背景に存在し証言者の能力にお墨付きを与えている専門家集団やその差t芸制度をも信頼していることになる」(107頁)と。

 これってでも、専門家に不信を抱いている人はまさにその専門家集団をこそ信用していないわけで、これはあまり意味のある主張のようには見えないのだけど、それは私が何か誤解をしているか見落としをしているのかな、きっと。

 後半は社会認識論の話。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

22:04:23
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 108-111頁でここまでのまとめとそれを受けてどう考えるのかという話。

 まず、これまで提示されたものが完璧でなくてもいいよねと。ぼくらは不可謬主義に立つのではなくて可謬主義に立つのだからと。

 そう、ぼくらはそう。だけど、陰謀論者やうわさを信じてデマやフェイクニュースを流してしまう人、専門家に不信を抱いている人たちはどうなんだろう。

 査読論文がたくさんある人とそうでない人、どちらも医学部の教授だけど、健康被害のリスクの疫学的研究を行ったことがない教授がタバコの副流煙についての害はないという主張と、この分野の研究を専門に行ってきた研究者による害はあるという主張のどちらがより信用できるかという話。

 この109-111頁の記述は本当にその通りなんだけど、これが通用しない人がいるというか、これと全く逆のものを「より信頼がおける」と信じてやまない人がいるから困っているのよね。そうした人に対して、上記のようなことを説明しても効果は無いわけで。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

22:32:57
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 112-114頁は「知的な謙虚さ(intellectual humility)」について。

 まず、私たちの社会が分業化しているということ。専門家も同様だと。

「それぞれの領域の知識を極めた専門家が存在しており、彼らはメタ専門家の査定をクリアして専門家として社会の中で認められている。/したがって、自分のよく知らないこれらの領域の知識に関して専門家に依存することは、正しい認識に至るための正しい方法となる」(112頁)というのは、「したがって」の前からあとにはそのままつながらないように思うのだけど。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

22:40:01
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 続いて、「ネットで少し調べて出てきた医学的な情報を信じて、医者の言う禁止事項を破ったり、処方された薬を飲まなかったりしたとすれば、その振舞いは『自分が専門家よりも薬についてよく知っている』と考える知的な傲慢さを表していることになる」として、知的な謙虚さの必要性が説かれる(113頁)。

 知的な謙虚さの必要性には完全に同意だし、私も授業では必ずここに書かれているとおりの意味での知的な謙虚さの必要性について話すのだけど、それが学生に伝わっているかと言えば、ほとんどまったく伝わっていないというのが実感。

 113頁の後半では、知的な謙虚さについてアリストテレスの中庸の徳のような説明。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn 

22:44:04
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 第3章の最期の節は「専門家への信頼は取り戻せるか」(114-116頁)。

 これには驚いた。とてつもなく重要な個所。ここまでの私の疑問にほとんど答えるような内容になっている。さすがの一言。

 115頁で「専門知の死」について言及。書いていることは本当にこのとおりだと思うのだけど(ぜひみなさんも本を買って読んでください)、状況はかなり深刻なところまで来ているよなというところ。著者ももちろんぜんぜん楽観はしていない。

 第3章はここまで。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn