@Panda まあ、日本酒はだいたいそんなもんですよ。酒米を酒蔵が目の前の畑で作っていたりもしますし、ワインみたいにどこの畑の酒米で作ったお酒なのかということで「テロワール」を称して出しているものなんかもあったりします。
ウェブサイト
https://mrmts.com
2025年断酒・ストレッチ記録
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1i8IDRQNzp7hGpoYc1VZwCccrA5GHUimhU0sD_ejkZpA/edit?usp=sharing
この本で生殖補助医療の倫理学について書いています。https://amzn.to/3Z0JZfo
近年は小児の身体拘束について研究しています。
@Panda まあ、日本酒はだいたいそんなもんですよ。酒米を酒蔵が目の前の畑で作っていたりもしますし、ワインみたいにどこの畑の酒米で作ったお酒なのかということで「テロワール」を称して出しているものなんかもあったりします。
髙橋由典『社会学講義――感情論の視点』世界思想社、1999年
https://amzn.to/3QEZHun
いつどこで買ったのかわからない本で本棚の肥やしになっていた。ぱらぱらめくってみたけどぴんと来なかったので一生読むことはないだろうなと判断し、処分することにした。
@Panda たしかに、ラベルにはあまり書かれてはいないですよね。大手はどうかわかりませんが、全体として見たら多くの酒蔵は地元の酒米を使っているようなイメージを勝手に持っています。
個人的には山口県のお酒と島根県のお酒はおいしいなと思うものが多いのですが、最近話題になった島根県の赤名酒造しかり、けっこう香ばしいのですよねえ、山口県と島根県の酒造メーカーって。
正式な邦題が決まっているわけではなかったけど、そのまま訳すと『ブラック・ボックス・ダイヤリー』ではなくて『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』でした。
"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について、備忘録的に関連する記事をスクラップしていく。まだ十分ではないにせよ、ある程度情報が出てきたのと、それにともない特定の論点の特定の立場にだけ立ったものではない記事が出てくるようになったので。
RT: 『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』で交錯する視点──伊藤詩織監督の「表現」と法律家の「倫理」の相克(松谷創一郎)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5328ad5530647baf83dbbe4b29ea6344c8c92b6e
"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について。
森達也さんの意見も知りたいなと思っていたところ、昨日、ようやく記事になっていた。アカデミー賞受賞作品の発表というのもひとつの区切りだったのだろうか。私にとってはひとつの区切りであったのだけど、この記事もそうだったのか、たまたまだったのか。
ドキュメンタリーとジャーナリズムの混同は本当にそのとおりで、伊藤詩織さんがどうかということだけでなく、彼女やその作品に対していろいろな批判される中で、これらが整理されることなく混同され、ごちゃまぜの状態で何を批判しているのかわからないような批判があふれていたことに私はものすごい違和感と気持ち悪さを感じていたので、そのことをきちんと正面から指摘してくれる人がいてよかったなと。
RT: 「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争に欠けている「本当の問題」 https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2025/03/539790.php
"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について。
こちらはミキ・デザキ監督の記事。少し前に読んだものなので、いまこの場で要点をかいつまんで要約することはできないけど、ドキュメンタリーを撮る監督として大事な証言のひとつだなと思ったもの。
RT: 映画『BLACK BOX DIARIES』で今一番争点にすべきポイントは何か – 集英社新書プラス https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/29572
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
45頁で「ネットの証言を取り巻く不透明さ」について。具体例として、訪問販売に来た人が言っていること(いわゆる営業トーク)と鉄会社の駅員が言っていること(これはどういう状況の何を想定しているのかは不明だけど)とでは、動機やその人に入手可能な情報とかいろいろ違うし、そういうものとして私たちは受け取るよねと。以下、引用が長くて500字に収まりきらなかったので、もう一度ここで区切る。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/3DfmM3x
「駅員の証言に対しては「その証言を疑う積極的な理由が存在しない限りは、その証言をまずは信じる」という〈証言だけで十分派〉の態度をとる理由が存在するのに対して、訪問販売員に対しては、「その証言を信じる積極的な理由がない限り、その証言を信じることをまずは留保する」という〈証言だけでは不十分派〉の態度をとる理由が存在する。/しかしネット上の証言の場合は、自分が置かれているのがこのどちらの状況により近いのかが不透明である。それゆえ、まずは証言者と自分を取り巻く状況を一歩引いた視点から確認してみる必要がある。たとえば、大きな選挙を目前に控えていないか、経済的な利益と結びついていないか、フィクションの可能性はないか、等々の状況を見極めたうえで、その情報が間違っていた場合のリスクも勘案しながら、証言を信じるためのハードルをみずから上げ下げする。こうしてその証言を信じてよいかどうかをきめ細かく判断していく必要がある」(45-6頁)
んー、自分ではそうしているつもりになってデマを真なる情報だと妄信し、拡散する人がいるから困ってるのよなあ。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』
46-47頁でS. バーネッカーのニュース断ちについて。ファーストネームの"S"は"Sven"なんだけど「スヴェン」と発音するのかな?本人か本人を知る人に確認しないとわからないよね。
バーネッカーは哲学者で、こちらの「ニュース断ち」は"news abstinence"の訳なんだけど、ほかにも自己啓発系のビジネス書を出しているロルフ・ドベリの「ニュース断ち」というのもあるらしく、こちらの原語は"news diet"みたい。
ほんま、私もニュース断ちしたいわ。したいけど、ここが『フェイクニュースを哲学する』でも問題になっている知的な真摯さというのか知的な徳の部分よね。私は徳の話には魅力を感じないし、それを理由として何かを動機づけされることもないけど。
苦しんでいる人びとがいることに無関心になり自己利益だけを求めるんだったら、それこそニュース断ちをして自己啓発本を読んでたらいいのよね。SNSにでたらめな情報を流して差別とヘイトをばら撒いていたらいいわけで。だって差別をすれば儲かるんだし。でもさすがにそれは私にはできないなあ。
いま地元の図書館がいつできたんだったか、確か中学校1年生のときだったよなあと思って調べてみたらそのとおりだった。
1990年8月にコスメイト行橋という複合文化施設が市にできたのだけど、校区外だったし親も本を読む習慣がなかったので、高校を卒業するまで利用することはなかったと思う。
私が言いたいのはそこではなくて、私が中学1年生になるまで私の生まれ育った街には図書館がなかったということなのよね。いや、この施設に入る前にもどこかにあったのかもしれないけど、少なくとも上記の年月を確認した市のウェブサイトの「行橋市の歴史年表」にはその記述はないし、当時「図書館ができた」という言い方を同級生がしていたのをものすごく印象に覚えているので、きっとこれ以前に図書館はなかったのではないかと思っている。いつか帰省したときに『行橋市史』を確認してみたいとは思うけど(もしTSUTAYA図書館みたいに廃棄処分にされていなかったら)。
RT: 図書館がなくなる…突然の表明、厳しい懐事情 問われる「公共とは」:朝日新聞 https://www.asahi.com/articles/AST2X11QHT2XOXIE01LM.html
ちなみに、コスメイト行橋はいまもあるみたいだけど、図書館は2020年4月に教育文化施設「リブリオ行橋」に移転している。こちら、PFI方式で運営業務に関しては株式会社図書館流通センターと株式会社テノ.サポートが行なっているようだ。
図書館はちゃんと自治体が責任をもって運営せなあかんよ。
RT: リブリオ行橋「この施設について」 https://www.librio.jp/business/
ここから第2章「うわさは信じてよいものか」について。
50頁で取り付け騒ぎに発展した豊川信用金庫事件。51-53頁で本書におけるうわさとデマの定義について。
うわさはあてにならないと言いたくなる例として54頁からオルポートの実験について。
56頁からはコーディの反論。参考文献は、『いま何を信じるべきか――現代的問題への認識論の応用』で、翻訳はない。原著は下記。
"What To Believe Now - Applying Epistemology to Contemporary Issues" https://amzn.to/3D2IYOw
オルポートの実験と私たちがうわさを聞く状況との違いについてコーディが指摘する4つの点が紹介される(56-60頁)。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/4i3Hoee
1つ目は事前知識の有無。じっさいのうわさではうわさを聞く人の側に事前知識があるよってことなんだけど、現実であれネット空間であれ「マスコミは斎藤知事をいじめてた」「百条委員会は斎藤知事を陥れるために組織された」みたいなのが事前知識になる人たちが少なからずいるから、うわさについて「事前知識や常識をもとに、どのくらいありえそうかを判断することは可能であろう」(57頁)とならんよね。
2つ目はうわさを伝え合う人間同士の関係性。これも「立花さんだから信用できる」ってなるわけで「その人物についての知識をもとにうわさを信頼してよいか考えることもできる」(58頁)というのも疑問。
3つ目はうわさの伝え方。オルポートの実験は断定表現が被験者に伝えられていたけど実際に私たちがうわさを聞く状況では「らしい」「本当かどうかはわからないけど」「あくまでも聞いた話だけど」などの表現が使われるので「これらの表現をもとに、その情報がどの程度確からしいのかを判断することができる」(59頁)と。しかしながら、たとえば立花孝志氏なんかはこのまんまの表現を多用するけど、それを受け取る人たちは一次伝達の時点で「この表現がとれて」(58頁)断定として拡散しているので、この点も疑問よね。
4つ目は、現実の状況では異なる情報源が存在するということ。現実には複数の情報源にあたってうわさの信頼性を確認できるというのだけど、著者自身が「複数の情報」と「複数の情報源」は違うということで説明しているとおり(59-60頁)、上記のようにデマを拡散する人らってこれらを混同して区別をつけられない人らばかりだから、この点も現実の話をするならばあまり意味がないのよね。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/4i3Hoee
この「複数の情報」と「複数の情報源」の違い(59-60頁)については、私も授業で必ず説明をするようにしているんだけど、それでも「ただひとつの情報だけを鵜呑みにするのではなくて、いろいろな〈情報〉を調べて自分の頭で考える」みたいなって、ぜんぜん伝わらないのよね。かなりの時間を割いて具体例も交えながら説明しているのだけど。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/4i3Hoee
60頁の末から判断を留保する意味について。61頁でピュロン派の懐疑主義、正誤の判断を停止することとしてエポケーに言及。
まあ、これができれば苦労はしないけど、集団や社会としてこれができない人たちが多くいるから問題が生じるのよね。伊藤詩織監督の"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)についての不確か、不十分な情報しかない段階での憶測と断定に基づくうわさや論評もそうだけど、草津町長への虚偽の性被害告発について事実関係が明らかになっていない段階での断定的な非難や誹謗中傷なんかはまさにこれよね。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/4i3Hoee
62頁の指摘「うわさが広まっていく過程は、オルポートの実験のような受動的な伝え手によって担われるだけではなく、知的に自律した伝え手が情報を批判的に吟味しながら媒介しうる。その過程を通じて情報の不足や不備が補われ、正確さがより増していくこともありうる。したがって、多くの人があいだに入るという事実はうわさを信頼できないものにするのではなく、むしろうわさの信頼性を増すものだと考えることができる」という指摘は重要な点だと思う。
ただ、「したがって」の前後は論理的につながらない。「正確さが増していくこともありうる」から「うわさの信頼性を増すものだと考えることができる」は直接は導き出せないから。また、知的に自律した人が少なければどうなるのかって話。
なお、いくつか前の投稿から『フェイクニュースを哲学する』のつもりで載せていたamazonのリンクがロルフ・ドベリ『NEWS DIET』のリンクに置き換わっていたので、この投稿から元に戻している。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年
https://amzn.to/3DfmM3x
63頁ではネット空間で「文脈の崩壊(context collapse)」が生じており、「文脈を共有しない者同士のコミュニケーションに様々な認識的な問題が生じる」というK. Frost-Arnoldの指摘を紹介。この問題の1つとして、前提知識が共有されていないことがあると。
この点は私もことあるごとに悩ましい問題だと感じていて、たとえば「マスゴミは何でこのことを報じないのか」みたいなものにもよく見られるよね。「なぜワクチンが危険なことをマスコミは報じないのか?」とか「なぜ西播磨元県民局長の怪文書が公益通報に当たらないという専門家の意見は紹介しないのか」とか。説明したところで通じないし、それゆえ説明する気も起きないよね。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年
https://amzn.to/3DfmM3x
64頁から、人間関係、「伝達者の顔が見えず、不透明になっていることも多い」(64頁)という話、文字数が限られたSNSなどのコミュニケーションでほんらい重要な「各照度を著す留保表現などは真っ先に省略される」(65頁)という話、アテンション・エコノミーの話、異なる情報源の話、コピペ(コピー&ペースト)、再投稿(re-posting)による拡散の話(66頁)などネット空間のうわさについての特徴が述べられている。
67-68頁で「ワンクリックで伝わる功と罪」という節。内容はそのまんま。68-70頁で「証言の保証説」という立場についての説明。要は、証言するってことは保証するってことで、責任を問われるよねという話。だけど、ネットではなかなかそれを問えない状況がある。ある人の行動としてSNSにおける「いいね」や再投稿が支持を意図しなくても、受け取る側がそのように受け取ってしまうこともある。再投稿におけるこのズレをR・リニが「歪んだ証言」(bent testimony)」と呼んでいるのだとか。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する』
https://amzn.to/3DfmM3x
70頁は再投稿によって参照先への信頼を「暗示的に伝え」ることになるという話。そして「その情報源の信頼性について誤った信念をもたらすリスクも存在する」(70頁)と。
確かにそういうこともあるだろうけど、再投稿が情報源の信頼を暗示するかどうかは文脈依存的よね。「大スポ」にこんなことが書いてあったとか、『ムー』にこんなことが書いてあったというとき、世のなかの大半の人は「相変わらずまた大スポが(ムー)がええ加減なこと書いてるのか」と受け取るだろうし。また、一部の人はそれと逆の受け取り方をするだろうし、たんに文脈依存的というだけでなく、再投稿という行為が情報源の信頼性についてどういう意味を成すのかというのは一意には定められないよね。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/3DfmM3x
70頁3行目の「その情報の正しさを保証する意図がないのであれば、そのことは明示すべきである」には違和感。ここの「べき」は「そっちの方がトラブルにならなくていいよ」という実践的な意味合いでしかなくて、道徳的・倫理的な規範とするには無理があるよね。71頁6-7行目「ネット上で再投稿をする場合にはこちらのリスクにも気を配る必要がある」と同じぐらいの意味だと理解。とすると、ここで「べき」を使うことに違和感があるよねと。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/3DfmM3x
72-74頁は、仮説推論(abduction)について説明した上で理解と納得の違いについて。ぼくらは信じたいものを信じる、信じたいように信じるみたいな話。腑に落ちるかどうか、納得するかどうか、自分のあらかじめ持っている先入見に合致するかどうかみたいなところで判断してるよね。みんなもっと哲学について学ぼう。人文学もだいじにしよう!
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/3DfmM3x
74-76頁は私たちの義憤とか公憤みたいな感情の正当化に関係してるよねって話。76-77頁はうわさでコミュニケーションできて人間関係がよくなったり保たれたりするよねって話。
78頁でJ. S. ミルの紹介。「わいせつ表現、ヘイトスピーチ、プライバシーの侵害」なんかは表現の自由で問題になるけどp、それにはちゃんと根拠があるよねと。で、J. S. ミルの『自由論』と「他者危害の原則」「愚行権」についての説明。
79-81頁でうわさを楽しむ条件について。ネット空間のうわさは「デジタルタトゥー」として刻まれて残り続けるし、「うわさがデマだと確定したあとでさえも、被害者を苦しめ続けることになる」(80頁)ということと、ネット上のうわさはどこまで影響するか「拡散範囲の予測不可能性」(80頁)があるという説明。
第2章はここまで。メモを投稿しながら読むの、疲れてきた。
山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 https://amzn.to/3DfmM3x