01:57:11
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 ぼくはら果汁0%のオレンジジュースをふつうに消費しているけど、だからこそ本物が際立ちもするわけで、カニカマはどこまで行ってもカニカマであってカニではないように、ジブリ風の生成画像はどこまで行ってもジブリ風の生成画像でしかなくてジブリそのものではない。

 ジブリなんかは組織としてブランディングされクレジットされているから実務として作画している個人は必ずしも前面に出てこないけど、作家の名前が著作者としてクレジットされる漫画やアニメに関しては、生成AI登場以前から根本的な問題は存在したわけで、たとえば漫画でひとつひとつのコマを見たときに、クレジットされる作者がすべて個人で描いているのか、アシスタントが描いているのか、あるいは分担して描いているのかはわからないけど、クレジットはすべて作者に帰属させられてきたわけよね。謝辞に名前を挙げられることはあっても共著ということには決してならない。これは、研究論文なんかでは絶対にあり得ないし、もしそんなことをすれば不正になるわけで、決して生成AIがイラストやマンガの最初の剥奪者ではないのよね。

mastodon.social/@Gargron/11424

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Eugen Rochko (@Gargron@mastodon.social)
09:34:37
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 この問題についてもう少しこだわりたいと思って研究論文の例を考えていたのだけど、よく考えたら私は実験系の研究論文でクレジット、オーサーシップがどうなっているのか、そんなに詳しく知らないのだった。いい機会だから勉強しながら書いていこうと思う。

 最初、実験助手の扱いがかつてと今とでどうなっているのかということを例に、漫画におけるアシスタントの事例を考えてみようと思っていた。つまり「実験助手は主体的に実験をおこなっているわけではなく、ただ指示されたとおりに実験をしているだけだから云々」というのと漫画のアシスタントは同様なのかどうかを考察しようとしたわけ。

 みなさんはどう思うだろうか。でも〈実験〉と言っても、人によってイメージするものがかなり違うから、まずはそこのイメージや理解を共有しておかないとあまり実のある答えは導けないよね。

 例えるなら、電子レンジで冷凍食品の炒飯を温めるというのと、材料を準備するところから鉄製の中華鍋を振って炒めるところまでレシピどおりに炒飯を作るというのと、同じ「炒飯を作って」という指示のもとでおこなわれる行為でも、調理する人の関わり方がだいぶ違うよねと。

12:13:43
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 著作権法にも造詣の深い福井建策先生の解説が出ている。

「たとえばスタジオジブリの特定作品の「特定の画像」と似ているわけではなく、色合いやタッチ、モチーフなどについて、人々が『ジブリ作品風だな』と感じる程度である場合、ここでは『スタイル(作風)の模倣』と呼ぶことにします。いわば着想の模倣であり、アイデアの類似ですね。/この場合、人の手によるか、AIによるかを問わず、著作権侵害ではないというのが、現在の世界的な通説です」

RT: ChatGPTで「ジブリ風」イラスト作って問題ないの?福井健策弁護士が「著作権のポイント」解説|弁護士ドットコムニュース bengo4.com/c_23/n_18630/

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ChatGPTで「ジブリ風」イラスト作って問題ないの?福井健策弁護士が「著作権のポイント」解説 - 弁護士ドットコムニュース
12:45:10
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 ここでも書いたけど「誰かの実在の著作物と見間違えるような本当に酷似するもの」でもない限り、単にいかにもジブリっぽいとかワンピースっぽいというだけでは著作権侵害にならないということ。

 つまり、多くの人が「ネコバス」と見間違うかネコバスそのものが自分の直作物であるとして公表されれば著作権侵害になるおそれがあるけど、たんにジブリっぽい雰囲気の動物をモチーフとした幼稚園バスの絵が自分の著作物として公表されたとしても、それは何らジブリの著作権を侵害することにはならないということ。

 そもそもこれを否定することは文化・芸術を否定することにほかならないわけで、キュビズムもなければ未来派もなく、未来派がなければマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体No.2」も生まれなかっただろう。デュシャンは未来派の影響を否定しているけど。

 美術史との連関でこの問題を考えてみるのもおもしろいよね。美学ももちろん。

 そういえば、モンロー・ビアズリーの"Aesthetics"をかなり訳していたのだけど、もうどこかにいってしまった。

mstdn.mrmts.com/deck/@mrmts/11

14:44:10
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 そういえば、本の整理・処分をしていて、横田一さんの本が出てきた。この本を所有していることについては記憶していたが、この本の著者があの横ピンさんという認識はなかったのでびっくりした。結局読まずじまいで本棚の肥やしになっていたのでぱらぱらとめくって処分するつもりでいたのだけど、いま改めてぱらぱらめくってみた結果、さらっと読んでから処分することにした。

横田一『介護と裁判 よりよい施設ケアのために』を木目のある机の上に平に置いてあるところ。
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15:27:02
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 先月末に自転車を買って以来、ちょこちょこ自転車に乗って出かけているのだけど、自転車の鍵って私が子どものころからほとんどまったく進化していないんだなあと。

 私が小中学生のころ(1980年代中頃から90年代前半にかけて)は、フロントフォークから前輪に対して横向きに棒がつき出してスポークが引っかかる形で自転車をロックするタイプの鍵と、サドルの後方下のフレームから後輪を金属製の輪で挟むようにしてスポークが引っかかる形で自転車をロックするタイプの鍵が混在していたように記憶している。

 前者の鍵は、確か、鍵そのものを固定しているフロントフォークのところで力をかければ鍵が回転してロックを回避できてしまうという弱点があったように思うし、後者の鍵はそうした回避をできないけど両者ともジャンプ傘のボタン部分の金具で鍵を開けられてしまうという弱点があった。

 現在、鍵の形状そのものは後者のものにほぼ統一されているようで、鍵穴と鍵がやや精巧になって素人では適合する鍵なしには開けられなくなったと理解。だけど鍵の形そのものは私が子どものころから進化していないのよね、っていう話。