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日経新聞は下記の点にちゃんと触れていてえらい。というか、これが当たり前のことなんだけど、当たり前が当たり前でなくなっているところが、深刻な状況。

「2月28日の米ウクライナ首脳会談で、トランプ大統領がゼレンスキー大統領の服装をやゆする場面があった。〔中略〕『親トランプ』の米記者は『なぜ米国最高の執務室でスーツを着ないのか。スーツは持っているか』とからかうようにゼレンスキー氏に質問。〔中略〕トランプ氏支持者の一部には、侵攻したロシアの責任を棚に上げ、米国から支援を受けるウクライナをたたく傾向がある。トランプ氏に接近している実業家のイーロン・マスク氏はTシャツにジャケット姿でたびたび大統領執務室を訪れるが、服装を批判されることはない。」

RT: トランプ氏、ゼレンスキー氏の服装やゆ 米記者も加担 - 日本経済新聞 nikkei.com/article/DGXZQOCB012

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トランプ氏、ゼレンスキー氏の服装やゆ 米記者も加担 - 日本経済新聞
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 『あずまんが大王』が完結してから23年の時を経てkindle版として登場したそうで。kindle unlimitedにも全4巻入っている。購入しても1巻あたり100円みたい。コミックを持っていたのだけど、中津ぱぶり家を閉じるときに処分しちゃったかしら。なんだかそんな気がする。

 あずまきよひこさんって『よつばと!』と同じ作者なんだなあ。こっちは読んだことないけど。

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 ネーゲルの『利他主義の可能性』って昨年翻訳が出ていたんだったか。こういうのって書誌情報で訳者の名前もちゃんと出すべきだと思うんだよなあ。ネットで検索すれば訳者が個人で業績として公表しているものはちらほら見つかるけど、出版社や書籍の販売をしているサイトを確認しても訳者はわからない。

RT: トマス・ネーゲル(蔵田伸雄監訳)『利他主義の可能性(双書現代倫理学 8)』勁草書房、2024年 amzn.to/3DeB7NG

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 今日もカフェにやってきて仕事。

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スクラップ。

RT: 久々の新薬承認に早期発見への研究… 難病ALS治療の最新事情 | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20250301/

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久々の新薬承認に早期発見への研究… 難病ALS治療の最新事情 | 毎日新聞
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 こないだはあくまで清風堂書店についての投稿だったので、そこがぼやけないようにあえて書かなかったけど、あのあと、今月の文学カフェで語り合う

・オルガ・トカルチュク(小椋彩訳)『昼の家、夜の家』白水社、2010年

を探しに堂島のジュンク堂書店に行き、残ながらその本は在庫がなかったのだけど、ついでに下記の2冊を買って帰った。

・藤井太洋『マン・カインド』早川書房、2024年(清風堂書店で探したけど見つからず)
・山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年

 『フェイクニュースを哲学する』はとても気になっていたのだけど、みんなが感じていることをきちんと言語化して整理してくれていて、まさに哲学者の仕事という感じ。まだ最初の方しか読んでいないけどすごくいい本。このあと続けるけど、まずは報道特集のアフタートークを聴いてもらいたい。時間のない人は日下部正樹キャスターの8分18秒からの話を聴くといい。

RT: Ep.9 兵庫県知事選で拡散した誹謗中傷 “オールドメディア”の課題とは【報道特集】ホウトクノート youtu.be/MdpPHMe8h8Q

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 昼ごはんを食べにいったん帰るべし。「いたん帰る」と言うか、昼ごはんを食べたあとは家で仕事する。

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 山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』の次の箇所なんかはいままさに兵庫県で起こっていることだし、世界で起こっていることよね。

「このようなでたらめなフェイクニュースの典型例は、2016年のアメリカ合国大統領選挙の前にマケドニアのティーンエイジャーたちが流した情報にみることができる。その情報のほとんどは虚偽であったが、のちのインタビューのなかで彼らは、自分たちの報道が真実であるか、虚偽であるかには何の関心も抱いていなかったことを明らかにした。彼らは結果として多くの偽なる情報を発信していたが、その目的は閲覧者や視聴者を欺くことではなかった。人々にできるだけそのサイトを多くクリックさせ、広告収入によって多くのお金を生み出すことであった。彼らにとっては、情報が正しいかどうか、それによって人々が何をじることになるかは、どうでもよいことであった。」(4-5頁)

 フェイクニュースに対処するためには、フェイクニュースを流す人たちがどういう理由、どういう意図でフェイクニュースを流すのかをきちんと分析して把握しておかないとね。

amzn.to/4bpvlWn

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』を片手で広げているところ。
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 「誰それって不倫してたんでしょ?!」とか「クーデターを起こそうとしていたんでしょ?!」みたいな下世話なゴシップに飛びつく人間に対しては、その情報が真実であるかどうかなんて関係ないし、それがデマやフェイクニュースであるかどうかも、悪意のある発信者が発信したものかどうかも重要ではないのよね、結局のところ。そもそもこうした下世話なものに飛びつかない精神というのか知性というのか感性というのかを養う必要があるのだろうけど、それができていたら苦労しないわよね。ほんま、頭が痛い話だわ。

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 山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年を読んでいる。

 7頁、フェイクニュースの定義が困難だという文脈でウィトゲンシュタインの家族的類似性が出てきた。いかにも哲学者らしい。

 8頁では直接の言及はないもののサールの間接発話行為ないしオースティンの発話内行為について。『枕草子』で中宮定子が清少納言に「香炉峰の雪いかならむ」と言ったら清少納言が御簾を上げるというやつやね。

amzn.to/4bpvlWn

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 山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年を読んでいる。

 9-13頁でフェイクニュースの何が問題なのかについて4つの指摘。すなわち、(1)「真実ではない情報が広まることで、実際の被害が生じる」こと、(2)「他者への信頼、とりわけ従来の知的権威への信頼が損なわれる」こと、(3)民主的な社会における意思決定の正当性が損なわれてしまう」こと、そして(4)「人々が真理への関心を失っていく」こと。

 で、「嘘をつく人とでたらめをいう言う人では、後者のほうがより問題が大きい」(12頁)と。なぜなら、嘘をつく人はそれがばれそうになると取り繕うけど、でたらめを言う人はそんなこと気にもかけないから。つまり同じゲームの土俵に乗っておらず〈無敵状態〉だと。

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 16-18頁でなぜ私たちが真理を気にかけるべきなのかについて。著者の言い方としては「真理を気にかけることの価値」なんだけど、マイケル・リンチという科学論の専門家による知的な真摯さ(intellectual integrity)と知的な徳(intellectual virtue)をという概念を手がかりに説明される。

 正直、私は徳の話には心が動かされないし、でたらめを言う人やそれに向かう人が知的な徳に魅力を感じるとも思えないんだけどなあ。とりあえず、ここまで序文。

Michael P. Lynch, "True To Life: Why Truth Matters", Bradford Books, 2004.
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 3月8日(土)11時から17時まで、大阪府猪名川町の畑で菊芋掘りのイベントをやります。また、4月から畑を一緒にやりたいという人を募集しています(イベントも4月からの畑も全部無料です)。

 菊芋掘りイベントの参加だけでもいいですし、畑をやることに興味があると言う方はその下見も兼ねていかがでしょうか?

 みなさんの都合のいい時間に参加してもらえたら大丈夫です。私は13時から15じぐらいのあいだに畑に行こうかなと思っています。初めての方で畑までたどり着けるかどうか不安という方は、時間を合わせられるようでしたら日生中央駅から一緒に歩いて行きましょう。Googleマップによると徒歩17分です。

 詳細は下記Facebookページにありますが、私に直接尋ねていただいても結構です。わからないことや興味があるという方は、お気軽にコメントなりDMなりでご連絡下さい。

fb.me/e/5mo4CfwVp

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 第1章。リアルとネットとどっちの情報が信頼できるんやろねという話からスタート。

 ネットの情報は信頼できないっていう人がいるけど、そんなリアルの情報も信用できるんかなあと。母数が大きいからどっちがどっちとかわからんよねと。ほんで、私たちは知覚はそれなりに信頼してるよねと。まあ、それも疑うデカルトとかっていう哲学者もおったりするんやけどと。以上が20-23頁ぐらい。

 23頁からは不可謬主義とか可謬主義の話。証言の認識論が24頁で出てきて、25頁から還元主義、26頁から29頁までは非還元主義の話。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 30頁、カントの自分で考えなあかんよって話から、子どもはそうはいかんよねと。じゃあ大人はやっぱり自分の頭で考えなあかんのかていうと、そうでない考え方もできるよねと、行きつ戻りつ。ちゃんと確認もせんと人のことを信じるのは軽信(gullibility)とのそしりを免れませぬぞっというのが、31-32頁。

 証言を信じるための条件について、26頁で紹介された一致条件とは別にふたつの条件がエリザベス・フリッカーを手がかりに紹介され、ひとつは誠実性条件、いまひとつは能力条件。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 36-40頁、ネット空間の人格の同一性について。そもそも人格の同一性とはってところから、デレク・パーフィットの「心理的連結性」が紹介され、ジョン・ロックについても触れられる。ネットではそうした意味で連続性を担保することが難しいよねと。

 この直前、34-35頁でモニタリングの話が出ていたのだけど、それもネット空間では難しい。そこで動機を考えましょうというのが40頁からの話。

 動機については、政治的な動機、経済的な動機、面白がらせたいという動機について説明される。

 ちなみに、モニタリングについてはあえて取り上げなかったけど、リアル空間でもあてにならないからね。「挙動不審であやしいからこいつが犯人に違いない」とかいって罪のない人を捕まえてえん罪を生み出すのも、自信満々に話すほら吹きを信じてしまうのも、「ひとりぼっちでしたあ」とか言いながらお辞儀をする人を「こんなお辞儀がきれいな人が嘘をつくはずはない、悪いことをするはずはない」という信念を形成するのも、ぜんぶモニタリンングをふまえてのことだからね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年

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 先の動機についての記述が40-43頁。44頁で「評価可能な能力条件」とは何かについて説明。その人の経歴とか所属はあてになるよねと。でも、ネットだとそんなのわからないし、本人がそう偽っているだけかもしれないし、本人の発言がもっともらしくても、誰かの言ったこと書いたことを転載しているだけかもしれないし、検証にも限界があるよねと。

 次のところは少し長くなるので、いったんここで区切る。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

2025-03-02 21:27:56 kmiuraの投稿 kmiura@toot.blue
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 今日は朝から神戸の病院で、いま診察が終わったところ。今日はお薬を受け取ってお会計が済むのは15時前になるかなあ。家に帰ったら夕方で1日がかり。

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ということで、IKEA神戸で昼飲み。

ミートボール、マッシュポテト、グリーンピース、いちごジャムがメインディッシュ、右手に赤ワインのハーフボトル、左手に空のグラス
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 斎藤元彦氏、折田楓氏に対する本格的な捜査は、ふつうに考えたら百条委員会の報告書が公表されてからだろうし、もうちょっと言えば第三者委員会も立ち上がっているからその報告書が公表されてからよね。みんなじりじりしているだろうけど、現状の世の中の仕組みというのはそういうもの。いいか悪いかは別として。

 いきなりの斎藤氏の逮捕は難しかろうから、大きな流れがどうなるかの1つ目の分岐点は、折田氏の捜査がどこまで進んでいるかによるよね。すでに世間的にも明らかになっている程度のことであれば、書類送検からの起訴で、前にも書いたとおり最高裁まで引っ張られて知事の座に居座られるという可能性が高い。そのあいだの兵庫県政は文字どおり地獄だろう。

 まあ、百条委員会の調査結果が報告されれば、議会は普通に考えれば再度の不信任案を出さないというわけにはいかないだろうけど、問題は維新。まずは岸口実県議と増山誠県議の辞職勧告が先で、その先にどうなるかが大きな鍵を握ることになる。

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 直前の案内になって恐縮ですが、次回の古典ギリシア語読書会、プルタルコス『モラリア』の『食卓歓談集』は、本日、2025年3月3日(月)20時からZoomにて。範囲は613D、 "εκεῖναι μὲν γὰρ αὐτὸν" から。

 興味のある方はお気軽にご連絡ください。今は社会人3人で細々と亀の歩みでやっています。学生も社会人もどなたでも歓迎です。

 4月からはラテン語文法の勉強会も予定しています。テキストは泉井久之助『ラテン広文典』です。こちらも、興味のある方はお気軽にご連絡ください。

amzn.to/4htHqMh

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 次回の古典ギリシア語読書会、プルタルコス『モラリア』の『食卓歓談集』は、2025年3月10日(月)20時からZoomにて。範囲は613F、 "οὕτω δὴ καὶ φιλόσοφος ἀνὴρ" から。

 興味のある方はお気軽にご連絡ください。今は社会人3人で細々と亀の歩みでやっています。学生も社会人もどなたでも歓迎です。

 4月からはラテン語文法の勉強会も予定しています。テキストは泉井久之助『ラテン広文典』です。こちらも、興味のある方はお気軽にご連絡ください。

amzn.to/4htHqMh

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 地方では駅の無人化がかなり進んでいるけど、都市部でも駅員の数がかなり減ってきているのを肌身で感じるよね。

 JRも私鉄もそうだし、大阪メトロなんかもそう。いままで複数の改札口に駅員がいたものが、今では1つの改札口にしか駅員がいないとか、その1つですら普段はガラス扉とカーテンが閉められていて、呼び出さないと出てこない状態。トラブルで駅員を呼んでも「トラブルには慣れてます!焦りません、走りません!」ばりに、背筋を伸ばしてゆっくり歩いて現場に向かってくる駅員も見かけるよね。

 JR大阪駅でさえ御堂筋南口はシャッター下ろして無人だしね(何年か前までは改札機の向こう側にある御堂筋北口が閉じていたのだけど、いまはそっちが開いてて南口が閉まっている)。ほんま、終わってると思うわ。

mastodon.social/@741CE/1140986

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741(浮世を忍ぶ仮の名) (@741CE@mastodon.social)
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 昨年末に買って年明けに飲んだ「原田清流 Smooth & Light 純米吟醸」をみたまり酒店で先週金曜日に再度購入していま飲んでいる。

 おいしいのはおいしいのだけど、1回目に購入して飲んだときのような感動がない。たんに新鮮さがなくなっただけなのかなあとも思ったけど、今回撮影したラベルを1月に撮影したラベルと見比べてみたら、製造年月が違うのでやっぱり2024年4月製造のものが神ボトルだったのかな。まあ、今回買ったものもふつうにうまいけど。

amzn.to/3DfrkqG

2025年2月28日に買った原田清流 Smooth & Light 純米吟醸の裏ラベル。製造年月に2025年1月とある。
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2024年12月末に買った原田清流 Smooth & Light 純米吟醸の裏ラベル。製造年月に2024年4月とある。
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@Panda まあ、日本酒はだいたいそんなもんですよ。酒米を酒蔵が目の前の畑で作っていたりもしますし、ワインみたいにどこの畑の酒米で作ったお酒なのかということで「テロワール」を称して出しているものなんかもあったりします。

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@Panda たしかに、ラベルにはあまり書かれてはいないですよね。大手はどうかわかりませんが、全体として見たら多くの酒蔵は地元の酒米を使っているようなイメージを勝手に持っています。

 個人的には山口県のお酒と島根県のお酒はおいしいなと思うものが多いのですが、最近話題になった島根県の赤名酒造しかり、けっこう香ばしいのですよねえ、山口県と島根県の酒造メーカーって。

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 正式な邦題が決まっているわけではなかったけど、そのまま訳すと『ブラック・ボックス・ダイヤリー』ではなくて『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』でした。

mstdn.mrmts.com/@mrmts/1140051

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Seiichi MORIMOTO (@mrmts@mstdn.mrmts.com)
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"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について、備忘録的に関連する記事をスクラップしていく。まだ十分ではないにせよ、ある程度情報が出てきたのと、それにともない特定の論点の特定の立場にだけ立ったものではない記事が出てくるようになったので。

RT: 『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』で交錯する視点──伊藤詩織監督の「表現」と法律家の「倫理」の相克(松谷創一郎)
news.yahoo.co.jp/expert/articl

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『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』で交錯する視点──伊藤詩織監督の「表現」と法律家の「倫理」の相克(松谷創一郎) - エキスパート - Yahoo!ニュース
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"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について。

 森達也さんの意見も知りたいなと思っていたところ、昨日、ようやく記事になっていた。アカデミー賞受賞作品の発表というのもひとつの区切りだったのだろうか。私にとってはひとつの区切りであったのだけど、この記事もそうだったのか、たまたまだったのか。

 ドキュメンタリーとジャーナリズムの混同は本当にそのとおりで、伊藤詩織さんがどうかということだけでなく、彼女やその作品に対していろいろな批判される中で、これらが整理されることなく混同され、ごちゃまぜの状態で何を批判しているのかわからないような批判があふれていたことに私はものすごい違和感と気持ち悪さを感じていたので、そのことをきちんと正面から指摘してくれる人がいてよかったなと。

RT: 「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争に欠けている「本当の問題」 newsweekjapan.jp/stories/cultu

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「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争に欠けている「本当の問題」
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"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)について。

 こちらはミキ・デザキ監督の記事。少し前に読んだものなので、いまこの場で要点をかいつまんで要約することはできないけど、ドキュメンタリーを撮る監督として大事な証言のひとつだなと思ったもの。

RT: 映画『BLACK BOX DIARIES』で今一番争点にすべきポイントは何か – 集英社新書プラス shinsho-plus.shueisha.co.jp/ne

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映画『BLACK BOX DIARIES』で今一番争点にすべきポイントは何か
2025-03-04 10:42:48 HyoYoshikawaの投稿 hyoyoshikawa@toot.blue
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 45頁で「ネットの証言を取り巻く不透明さ」について。具体例として、訪問販売に来た人が言っていること(いわゆる営業トーク)と鉄会社の駅員が言っていること(これはどういう状況の何を想定しているのかは不明だけど)とでは、動機やその人に入手可能な情報とかいろいろ違うし、そういうものとして私たちは受け取るよねと。以下、引用が長くて500字に収まりきらなかったので、もう一度ここで区切る。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/3DfmM3x

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「駅員の証言に対しては「その証言を疑う積極的な理由が存在しない限りは、その証言をまずは信じる」という〈証言だけで十分派〉の態度をとる理由が存在するのに対して、訪問販売員に対しては、「その証言を信じる積極的な理由がない限り、その証言を信じることをまずは留保する」という〈証言だけでは不十分派〉の態度をとる理由が存在する。/しかしネット上の証言の場合は、自分が置かれているのがこのどちらの状況により近いのかが不透明である。それゆえ、まずは証言者と自分を取り巻く状況を一歩引いた視点から確認してみる必要がある。たとえば、大きな選挙を目前に控えていないか、経済的な利益と結びついていないか、フィクションの可能性はないか、等々の状況を見極めたうえで、その情報が間違っていた場合のリスクも勘案しながら、証言を信じるためのハードルをみずから上げ下げする。こうしてその証言を信じてよいかどうかをきめ細かく判断していく必要がある」(45-6頁)

 んー、自分ではそうしているつもりになってデマを真なる情報だと妄信し、拡散する人がいるから困ってるのよなあ。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』

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  46-47頁でS. バーネッカーのニュース断ちについて。ファーストネームの"S"は"Sven"なんだけど「スヴェン」と発音するのかな?本人か本人を知る人に確認しないとわからないよね。

 バーネッカーは哲学者で、こちらの「ニュース断ち」は"news abstinence"の訳なんだけど、ほかにも自己啓発系のビジネス書を出しているロルフ・ドベリの「ニュース断ち」というのもあるらしく、こちらの原語は"news diet"みたい。

 ほんま、私もニュース断ちしたいわ。したいけど、ここが『フェイクニュースを哲学する』でも問題になっている知的な真摯さというのか知的な徳の部分よね。私は徳の話には魅力を感じないし、それを理由として何かを動機づけされることもないけど。

 苦しんでいる人びとがいることに無関心になり自己利益だけを求めるんだったら、それこそニュース断ちをして自己啓発本を読んでたらいいのよね。SNSにでたらめな情報を流して差別とヘイトをばら撒いていたらいいわけで。だって差別をすれば儲かるんだし。でもさすがにそれは私にはできないなあ。

amzn.to/4i3Hoee

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 いま地元の図書館がいつできたんだったか、確か中学校1年生のときだったよなあと思って調べてみたらそのとおりだった。

 1990年8月にコスメイト行橋という複合文化施設が市にできたのだけど、校区外だったし親も本を読む習慣がなかったので、高校を卒業するまで利用することはなかったと思う。

 私が言いたいのはそこではなくて、私が中学1年生になるまで私の生まれ育った街には図書館がなかったということなのよね。いや、この施設に入る前にもどこかにあったのかもしれないけど、少なくとも上記の年月を確認した市のウェブサイトの「行橋市の歴史年表」にはその記述はないし、当時「図書館ができた」という言い方を同級生がしていたのをものすごく印象に覚えているので、きっとこれ以前に図書館はなかったのではないかと思っている。いつか帰省したときに『行橋市史』を確認してみたいとは思うけど(もしTSUTAYA図書館みたいに廃棄処分にされていなかったら)。

RT: 図書館がなくなる…突然の表明、厳しい懐事情 問われる「公共とは」:朝日新聞 asahi.com/articles/AST2X11QHT2

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図書館がなくなる…突然の表明、厳しい懐事情 問われる「公共とは」:朝日新聞
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 ちなみに、コスメイト行橋はいまもあるみたいだけど、図書館は2020年4月に教育文化施設「リブリオ行橋」に移転している。こちら、PFI方式で運営業務に関しては株式会社図書館流通センターと株式会社テノ.サポートが行なっているようだ。

 図書館はちゃんと自治体が責任をもって運営せなあかんよ。

RT: リブリオ行橋「この施設について」 librio.jp/business/

リブリオ行橋
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 ここから第2章「うわさは信じてよいものか」について。

 50頁で取り付け騒ぎに発展した豊川信用金庫事件。51-53頁で本書におけるうわさとデマの定義について。

 うわさはあてにならないと言いたくなる例として54頁からオルポートの実験について。

 56頁からはコーディの反論。参考文献は、『いま何を信じるべきか――現代的問題への認識論の応用』で、翻訳はない。原著は下記。

"What To Believe Now - Applying Epistemology to Contemporary Issues" amzn.to/3D2IYOw

 オルポートの実験と私たちがうわさを聞く状況との違いについてコーディが指摘する4つの点が紹介される(56-60頁)。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4i3Hoee

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 1つ目は事前知識の有無。じっさいのうわさではうわさを聞く人の側に事前知識があるよってことなんだけど、現実であれネット空間であれ「マスコミは斎藤知事をいじめてた」「百条委員会は斎藤知事を陥れるために組織された」みたいなのが事前知識になる人たちが少なからずいるから、うわさについて「事前知識や常識をもとに、どのくらいありえそうかを判断することは可能であろう」(57頁)とならんよね。

 2つ目はうわさを伝え合う人間同士の関係性。これも「立花さんだから信用できる」ってなるわけで「その人物についての知識をもとにうわさを信頼してよいか考えることもできる」(58頁)というのも疑問。

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 3つ目はうわさの伝え方。オルポートの実験は断定表現が被験者に伝えられていたけど実際に私たちがうわさを聞く状況では「らしい」「本当かどうかはわからないけど」「あくまでも聞いた話だけど」などの表現が使われるので「これらの表現をもとに、その情報がどの程度確からしいのかを判断することができる」(59頁)と。しかしながら、たとえば立花孝志氏なんかはこのまんまの表現を多用するけど、それを受け取る人たちは一次伝達の時点で「この表現がとれて」(58頁)断定として拡散しているので、この点も疑問よね。

 4つ目は、現実の状況では異なる情報源が存在するということ。現実には複数の情報源にあたってうわさの信頼性を確認できるというのだけど、著者自身が「複数の情報」と「複数の情報源」は違うということで説明しているとおり(59-60頁)、上記のようにデマを拡散する人らってこれらを混同して区別をつけられない人らばかりだから、この点も現実の話をするならばあまり意味がないのよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4i3Hoee

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 この「複数の情報」と「複数の情報源」の違い(59-60頁)については、私も授業で必ず説明をするようにしているんだけど、それでも「ただひとつの情報だけを鵜呑みにするのではなくて、いろいろな〈情報〉を調べて自分の頭で考える」みたいなって、ぜんぜん伝わらないのよね。かなりの時間を割いて具体例も交えながら説明しているのだけど。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4i3Hoee

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 60頁の末から判断を留保する意味について。61頁でピュロン派の懐疑主義、正誤の判断を停止することとしてエポケーに言及。

 まあ、これができれば苦労はしないけど、集団や社会としてこれができない人たちが多くいるから問題が生じるのよね。伊藤詩織監督の"Black Box Diaries"(日本語の記事では『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』と報じられている)についての不確か、不十分な情報しかない段階での憶測と断定に基づくうわさや論評もそうだけど、草津町長への虚偽の性被害告発について事実関係が明らかになっていない段階での断定的な非難や誹謗中傷なんかはまさにこれよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4i3Hoee

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 62頁の指摘「うわさが広まっていく過程は、オルポートの実験のような受動的な伝え手によって担われるだけではなく、知的に自律した伝え手が情報を批判的に吟味しながら媒介しうる。その過程を通じて情報の不足や不備が補われ、正確さがより増していくこともありうる。したがって、多くの人があいだに入るという事実はうわさを信頼できないものにするのではなく、むしろうわさの信頼性を増すものだと考えることができる」という指摘は重要な点だと思う。

 ただ、「したがって」の前後は論理的につながらない。「正確さが増していくこともありうる」から「うわさの信頼性を増すものだと考えることができる」は直接は導き出せないから。また、知的に自律した人が少なければどうなるのかって話。

 なお、いくつか前の投稿から『フェイクニュースを哲学する』のつもりで載せていたamazonのリンクがロルフ・ドベリ『NEWS DIET』のリンクに置き換わっていたので、この投稿から元に戻している。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年
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 63頁ではネット空間で「文脈の崩壊(context collapse)」が生じており、「文脈を共有しない者同士のコミュニケーションに様々な認識的な問題が生じる」というK. Frost-Arnoldの指摘を紹介。この問題の1つとして、前提知識が共有されていないことがあると。

 この点は私もことあるごとに悩ましい問題だと感じていて、たとえば「マスゴミは何でこのことを報じないのか」みたいなものにもよく見られるよね。「なぜワクチンが危険なことをマスコミは報じないのか?」とか「なぜ西播磨元県民局長の怪文書が公益通報に当たらないという専門家の意見は紹介しないのか」とか。説明したところで通じないし、それゆえ説明する気も起きないよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年
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 64頁から、人間関係、「伝達者の顔が見えず、不透明になっていることも多い」(64頁)という話、文字数が限られたSNSなどのコミュニケーションでほんらい重要な「各照度を著す留保表現などは真っ先に省略される」(65頁)という話、アテンション・エコノミーの話、異なる情報源の話、コピペ(コピー&ペースト)、再投稿(re-posting)による拡散の話(66頁)などネット空間のうわさについての特徴が述べられている。

 67-68頁で「ワンクリックで伝わる功と罪」という節。内容はそのまんま。68-70頁で「証言の保証説」という立場についての説明。要は、証言するってことは保証するってことで、責任を問われるよねという話。だけど、ネットではなかなかそれを問えない状況がある。ある人の行動としてSNSにおける「いいね」や再投稿が支持を意図しなくても、受け取る側がそのように受け取ってしまうこともある。再投稿におけるこのズレをR・リニが「歪んだ証言」(bent testimony)」と呼んでいるのだとか。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する』
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  70頁は再投稿によって参照先への信頼を「暗示的に伝え」ることになるという話。そして「その情報源の信頼性について誤った信念をもたらすリスクも存在する」(70頁)と。

 確かにそういうこともあるだろうけど、再投稿が情報源の信頼を暗示するかどうかは文脈依存的よね。「大スポ」にこんなことが書いてあったとか、『ムー』にこんなことが書いてあったというとき、世のなかの大半の人は「相変わらずまた大スポが(ムー)がええ加減なこと書いてるのか」と受け取るだろうし。また、一部の人はそれと逆の受け取り方をするだろうし、たんに文脈依存的というだけでなく、再投稿という行為が情報源の信頼性についてどういう意味を成すのかというのは一意には定められないよね。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/3DfmM3x

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 70頁3行目の「その情報の正しさを保証する意図がないのであれば、そのことは明示すべきである」には違和感。ここの「べき」は「そっちの方がトラブルにならなくていいよ」という実践的な意味合いでしかなくて、道徳的・倫理的な規範とするには無理があるよね。71頁6-7行目「ネット上で再投稿をする場合にはこちらのリスクにも気を配る必要がある」と同じぐらいの意味だと理解。とすると、ここで「べき」を使うことに違和感があるよねと。

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 72-74頁は、仮説推論(abduction)について説明した上で理解と納得の違いについて。ぼくらは信じたいものを信じる、信じたいように信じるみたいな話。腑に落ちるかどうか、納得するかどうか、自分のあらかじめ持っている先入見に合致するかどうかみたいなところで判断してるよね。みんなもっと哲学について学ぼう。人文学もだいじにしよう!

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 74-76頁は私たちの義憤とか公憤みたいな感情の正当化に関係してるよねって話。76-77頁はうわさでコミュニケーションできて人間関係がよくなったり保たれたりするよねって話。

 78頁でJ. S. ミルの紹介。「わいせつ表現、ヘイトスピーチ、プライバシーの侵害」なんかは表現の自由で問題になるけどp、それにはちゃんと根拠があるよねと。で、J. S. ミルの『自由論』と「他者危害の原則」「愚行権」についての説明。

 79-81頁でうわさを楽しむ条件について。ネット空間のうわさは「デジタルタトゥー」として刻まれて残り続けるし、「うわさがデマだと確定したあとでさえも、被害者を苦しめ続けることになる」(80頁)ということと、ネット上のうわさはどこまで影響するか「拡散範囲の予測不可能性」(80頁)があるという説明。

第2章はここまで。メモを投稿しながら読むの、疲れてきた。

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 このスレッドの5つ前の投稿と10個前の投稿に関連する話。案の定、昨日の兵庫県百条委員会で奥谷謙一委員長が読み上げた調査報告書(案)の総括部分「知事のパワーハラスメントについては、パワハラを受けたとの証言はなかった」を取り上げて、嬉々として「パワハラはなかった」とSNSに投稿したりそれを拡散したりしている人たちがいますね。

 省略にもいろいろあるけど、たとえば「パワハラを受けたとの証言はなかった」の「を受けたとの証言」の部分を取り除けば「パワハラはなかった」という表現になる。とはいえ、この2つの意味はまったく違う。

 同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒がひどく迫害されている世の中にあって虚偽の証言したことがわかれば命に関わるような状況で、誰かに「お前は同性愛者か/ユダヤ人か/キリスト教徒か」と問われ「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒であると証言する者はいなかった」場合に「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒はいなかった」ことにはならないように、この2つの意味はまったく違う。

 あまりにも単純明快、明晰判明なこと。またnoteにまとめるけど、ChatGPTに尋ねた結果も載せておく。

ChatGPT 4o 質問: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じですか?もし同じではない場合、前者の前提から後者の結論を妥な推論に基づいてそのまま導き出すことはできますか? ChatGPTの回答: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じではありません。前者は「証言がなかった」という事実を示しているだけであり、それが「パワハラが実際になかった」ことを意味するわけではないからです。 論理的な違い ・「パワハラを受けたとの証言はなかった」 → これは「誰もパワハラを受けたと証言しなかった」 という事実のみを述べており、実際にパワハラがあったかどうかは不明です。証言者がいないだけで、パワハラ自体はあった可能性があります(例えば、被害者が恐れて証言しなかった場合)。 ・「パワハラはなかった」 → これは「実際にパワハラが存在しなかった」という断定的な主張です。証言の有無に関係なく、パワハラが発生しなかったことを意味します。
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2025-03-05 11:16:54 Seiichi MORIMOTOの投稿 mrmts@mstdn.mrmts.com
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 このスレッドの5つ前の投稿と10個前の投稿に関連する話。案の定、昨日の兵庫県百条委員会で奥谷謙一委員長が読み上げた調査報告書(案)の総括部分「知事のパワーハラスメントについては、パワハラを受けたとの証言はなかった」を取り上げて、嬉々として「パワハラはなかった」とSNSに投稿したりそれを拡散したりしている人たちがいますね。

 省略にもいろいろあるけど、たとえば「パワハラを受けたとの証言はなかった」の「を受けたとの証言」の部分を取り除けば「パワハラはなかった」という表現になる。とはいえ、この2つの意味はまったく違う。

 同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒がひどく迫害されている世の中にあって虚偽の証言したことがわかれば命に関わるような状況で、誰かに「お前は同性愛者か/ユダヤ人か/キリスト教徒か」と問われ「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒であると証言する者はいなかった」場合に「同性愛者/ユダヤ人/キリスト教徒はいなかった」ことにはならないように、この2つの意味はまったく違う。

 あまりにも単純明快、明晰判明なこと。またnoteにまとめるけど、ChatGPTに尋ねた結果も載せておく。

ChatGPT 4o 質問: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じですか?もし同じではない場合、前者の前提から後者の結論を妥な推論に基づいてそのまま導き出すことはできますか? ChatGPTの回答: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」ということと、「パワハラはなかった」ということは論理的に同じではありません。前者は「証言がなかった」という事実を示しているだけであり、それが「パワハラが実際になかった」ことを意味するわけではないからです。 論理的な違い ・「パワハラを受けたとの証言はなかった」 → これは「誰もパワハラを受けたと証言しなかった」 という事実のみを述べており、実際にパワハラがあったかどうかは不明です。証言者がいないだけで、パワハラ自体はあった可能性があります(例えば、被害者が恐れて証言しなかった場合)。 ・「パワハラはなかった」 → これは「実際にパワハラが存在しなかった」という断定的な主張です。証言の有無に関係なく、パワハラが発生しなかったことを意味します。
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2025-03-05 12:06:39 おさの投稿 osapon@mstdn.nere9.help
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サーバトラブルのため、notestockの検索と投稿反映が少し止まります。

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 noteに記事を書きました。よければご覧ください。

RT: 「パワハラを受けたとの証言はなかった」は「パワハラはなかった」を意味するのかどうかChatGPTに聞いてみた|mrmts note.com/mrmts/n/n26d095603c0a

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「パワハラを受けたとの証言はなかった」は「パワハラはなかった」を意味するのかどうかChatGPTに聞いてみた|mrmts
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 第3章「どの専門家を信じればよいのか」について。これもだいじなことよね。

 84頁から専門家不信について。その原因の一端でもある御用学者について85頁で言及。行きつく先に地球平面接や地球温暖化否定論(気候変動否定論)があり、「これらの節の信奉者は、それぞれの分野において多くの専門家が言ってきたことや、あるいは既存の科学的な言説そのものを否定する」(85頁)と。

 ここで、専門家を信じる人に対して次のように問われたら何と答えるかという問題提起。

「あなたのほうこそ、『専門家』と呼ばれる人たちを無条件に信じているに過ぎないのではないか。その人たちが言っていることを正しいといえる根拠をもっているのか」(85頁)

 さあ、みなさんなら何と答えるだろう。

 直したつもりになっていたAmazonのリンクが直っていなかった。というか、かなり最初の方から違った商品へのリンクになっていたようだ。今度こそ大丈夫なはず。

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 86頁から「専門知についての3つの困難」という節。まずジョン・ハードウィグの論文を手がかりに「専門家(expert)に対する非専門家の信頼は必然的に無根拠なものにならざるをえない」という指摘を紹介。この論文は無料で読むことができる。

philarchive.org/rec/HARTRO-3

 この点はまあそうだわね。それで3つの困難とは、(1)「専門家が結論を導く際に依拠している前提を非専門家が共有できていないこと」、(2)「専門家の論証を聞いても前提と結論のあいだの支持関係を非専門家が評価できないこと」、(3)「その論証に対する反証(証拠による反論)に非専門家は馴染みがないこと」である。(87頁)

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John Hardwig, The role of trust in knowledge - PhilArchive
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 では、非専門家は自ら専門知を身につけない限り専門家同士の主張が対立する場合にどちらの主張が信頼に足るものなのかどうか判断のしようがないのかといと、そうではないというアルヴィン・ゴールドマンの主張が88頁から紹介される。

 ゴールドマンの論文も、登録さえすれば無料で読める。
philpapers.org/rec/GOLEWO

 1つ目は論証の仕方について。これは私も授業で必ず説明するところ。ただ、90頁でも述べられているとおり、何が正当な根拠や反証なのかということが理解できなければ意味をなさないし、じっさい多くの人がその段階で困難を抱えているので、実感としてほとんど役に立たないのよね。

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Alvin I. Goldman, Experts: Which ones should you trust? - PhilPapers
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 2つ目は専門家の過去の証言の記録が参考になると言う話。(91-92頁)これは第1章の「一致条件」の専門家版だと。

 ただ、著者も指摘するように、専門家の証言が専門的知識に関わるものであればあるほど「非専門家にはその過去の証言が正しかったのかどうかが判断できなくなっていく」(91頁)という問題があって、でたらめばっかり言ってる専門家がいたときに、証言の記録はものすごく積み上がるけど、これは専門家が信頼できることとは真逆の話よね。

 そこで、専門家による予測とその結果を観察することで非専門家でも専門家の言っていることが信頼できるかどうか判断する材料が得られるという考え方が提示されるけど、ひとつには予測と結果のあいだに時間差があると、予測がでたらめであったとしてもそのことが証言の記録として実質的に積み上がっていかないという問題があるだろうし、もうひとつには、著者も指摘しているように予測と結果が非専門家にとってそんなにわかりやすいものばかりではないよねと。

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2025-03-05 13:14:31 kako(人民kakopon 入管法改悪反対)の投稿 kakopon@mastodon.social
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 92-94頁で利害関心とバイアスについて。いわゆる利益相反(という表現は本書では使われていないけど)の話。御用学者についても言及(93頁)。これは第1章で見た「誠実性条件」の専門家版であると(94頁)。

 この点についても、ほんらいこれらが意味するところと逆に理解ないし逆の使い方をする人が少なからずいるので、効果は疑わしいよね。

 兵庫県百条委員会の調査で言えば、公益通報についての専門家の意見は軽視や無視をして、公益通報の専門家でもなければ斎藤知事を支援していた維新や統一教会と深いつながりのある利害関係者であるところの弁護士の意見をこそ採用すべきだという主張なんかがこれに該当するけど、そんな主張をする人に「利害関心とバイアス」の話をしても通じるはずがない。これはでたらめな情報を流す、内容の真偽はどうでもいい人の話ではなくて、本当に認知的にこういう理解をしている人の話として。

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 同意する専門家の多さについてはどうかというのが94頁から。ゴールドマンのベイズ的アプローチを用いた説明を、のび太と武とスネ夫の例でわかりやすく解説してくれている。まあ、武がリーダー的存在のグルでスネ夫がそのフォロワーだったら、どれだけ武に賛同する人がいたとしてもそれは武の主張の信頼性を高めることにはならないよねって話。

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 97-100頁で「信念形成ルートの独立性」について。これは第1章で言えば「複数の情報」ではなくて「複数の情報源」にもつながる話。

 98-99頁で追試についての説明。いわゆる実験と観察、あるいは再現可能性の話。

 専門家のあいだではこれで通じるけど、非専門家にはこのことを説明しても通じなかった具体的な事例がSTAP細胞の事件よね。

 説明のための具体的な事例として「生物の起源を『聖書』の天地創造説に求める創造科学」と進化論が例に挙げられている。わかりやすい。

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 100-101頁でメタ専門家の話。再試をしても同じやり方で確かめるのならその説を信じる根拠にならないよねという問題提起から。

 これは、どうなんだろう。科学的実験の理論負荷性みたいな話にも関係思想なところだけど、まあ厳密に言えばその通りなんだけど、ここでの議論でそこまで厳密にこだわる実践的な意味があるのかどうかについては正直疑問。でも、まあとりあえずこの点については受け入れたとする。

 そこで出てくるのがメタ専門家の話。同じ領域の専門家は、その筋の専門家の評価をするのに向いているというのだろうか、能力が高いというのだろうか、ともかく著者の言い方であれば「餅は餅屋に」というやつ。

 ただ、この点について、専門家への不信を払しょくするという文脈で言えば効果は無いと私は思っていて、というのも、地球温暖化否定論者(気候変動否定論者)ってまさにそのメタ専門家をあやしんで否定的に評価するわけだから。

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 101-104頁は「他の専門家による査定」について。専門家を自称していたらその人を専門家と見なしてよいのか、ゴールドマンが5つの根拠を挙げていると。

 1つ目は、資格認定や学位。弁護士、医師みたいな資格であったり、博士といった学位であったり。

 このあと「権威に訴える論証」への問い直しがなされる。これは誤謬推論の一種とされるものだけど「専門能力の証しのひとつである資格や学位という権威に訴えて、その分野のその人の発言を信じることには根拠があることになる」(103頁)と。

 私はこれについても懐疑的。だって、その専門家が誠実であるかどうかは私たちにはわからないわけで、じっさい誠実ではないと思われる資格や学位をもった人が、それこそ御用学者のようにふるまう姿を私たちは少なからず目にしているから。

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 もうひとつ。著者は学位と違って大学における職位としての「教授」という肩書は、ここに言う「専門家」とは異なると指摘する。それは、確かに大学が教員を採用するにあたっては「メタ専門家による査定が行なわれている場合も多いが、必ずしもそれは必要条件にはなってない」(104頁)からだと。

 この指摘はそのとおりだと私も同意するのだけど、だとすると先ほどの資格や学位はどうなのかってことにも同様のことは言えるわけで、たとえば弁護士だって司法試験を経由せずになることができるし、学位だってその質がどこまで担保されているのかかなりあやしいものである。

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 104頁からは査読について。学位といっても、それだけでは専門分野はわからないよねという話から、研究業績が参考になると。じゃあ研究業績って何でもありかと言えばそうではなくて、査読が学問の世界で確立されてきたんだよと。

 査読も疑えるよねと。ここでSTAP細胞の話、ソーカル事件、不満研究事件についての言及。ただ、査読も完ぺきではないけど、それが間違っていたとなったら撤回されたり訂正されたりすると。そうやって信頼を気づいてきているんだみたいな話。

 ここまでのところでフェイクニュースやデマとの絡みで言うならば、一般の人にそもそも査読なんてことなかなか通じないよなあと。査読と言ってもいろいろだし、専門分野にもよるところも大きいし。

 そもそも、専門家不振で査読の有効性を認めない人にはこの話は通用しないよね。

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 107-108頁は「認識の基礎としての制度」という節。けっきょく、資格、学位、査読と言った査定で「ある人の証言を信じるとすれば、それは単にその証言者を信頼しているだけでなく、その背景に存在し証言者の能力にお墨付きを与えている専門家集団やその差t芸制度をも信頼していることになる」(107頁)と。

 これってでも、専門家に不信を抱いている人はまさにその専門家集団をこそ信用していないわけで、これはあまり意味のある主張のようには見えないのだけど、それは私が何か誤解をしているか見落としをしているのかな、きっと。

 後半は社会認識論の話。

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 108-111頁でここまでのまとめとそれを受けてどう考えるのかという話。

 まず、これまで提示されたものが完璧でなくてもいいよねと。ぼくらは不可謬主義に立つのではなくて可謬主義に立つのだからと。

 そう、ぼくらはそう。だけど、陰謀論者やうわさを信じてデマやフェイクニュースを流してしまう人、専門家に不信を抱いている人たちはどうなんだろう。

 査読論文がたくさんある人とそうでない人、どちらも医学部の教授だけど、健康被害のリスクの疫学的研究を行ったことがない教授がタバコの副流煙についての害はないという主張と、この分野の研究を専門に行ってきた研究者による害はあるという主張のどちらがより信用できるかという話。

 この109-111頁の記述は本当にその通りなんだけど、これが通用しない人がいるというか、これと全く逆のものを「より信頼がおける」と信じてやまない人がいるから困っているのよね。そうした人に対して、上記のようなことを説明しても効果は無いわけで。

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 112-114頁は「知的な謙虚さ(intellectual humility)」について。

 まず、私たちの社会が分業化しているということ。専門家も同様だと。

「それぞれの領域の知識を極めた専門家が存在しており、彼らはメタ専門家の査定をクリアして専門家として社会の中で認められている。/したがって、自分のよく知らないこれらの領域の知識に関して専門家に依存することは、正しい認識に至るための正しい方法となる」(112頁)というのは、「したがって」の前からあとにはそのままつながらないように思うのだけど。

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 続いて、「ネットで少し調べて出てきた医学的な情報を信じて、医者の言う禁止事項を破ったり、処方された薬を飲まなかったりしたとすれば、その振舞いは『自分が専門家よりも薬についてよく知っている』と考える知的な傲慢さを表していることになる」として、知的な謙虚さの必要性が説かれる(113頁)。

 知的な謙虚さの必要性には完全に同意だし、私も授業では必ずここに書かれているとおりの意味での知的な謙虚さの必要性について話すのだけど、それが学生に伝わっているかと言えば、ほとんどまったく伝わっていないというのが実感。

 113頁の後半では、知的な謙虚さについてアリストテレスの中庸の徳のような説明。

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 第3章の最期の節は「専門家への信頼は取り戻せるか」(114-116頁)。

 これには驚いた。とてつもなく重要な個所。ここまでの私の疑問にほとんど答えるような内容になっている。さすがの一言。

 115頁で「専門知の死」について言及。書いていることは本当にこのとおりだと思うのだけど(ぜひみなさんも本を買って読んでください)、状況はかなり深刻なところまで来ているよなというところ。著者ももちろんぜんぜん楽観はしていない。

 第3章はここまで。

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 第4章は「マスメディアはネットよりも信じられるのか」というタイトル。内容的にはメディアリテラシーの教科書に書いてあるようなこと。この章はこれまでのように細かくは取り上げないで、いくつかにしぼって引用しコメントを付す。長くなるのでいったんここで区切る。

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 マスメディアのフィルタリング機能と両論併記の意義について。

 次の箇所は、昨日の兵庫県議会で増山誠県議が百条委員会の報告書を採決することに対して行った反対討論にそのまま当てはまること。

「本当に反対の主張をすべて取り上げるべきなのだろうか。たとえば、地球が丸いという主張やナチスによりホロコーストが行われたという主張にさえも、反対意見は存在する。しかし、マスメディアは地球平面説の主張やホロコーストを否定する主張をも十分な時間や紙面を割いて伝えるべきなのだろうか。おそらく、そう考える人は少ないだろう。その理由は、地球球体説やホロコーストの存在はこれまで数多くの証拠によって支持されてきたのに対して、これらの主張はそうではないからである。にもかかわらず、同じだけの時間や紙面を割いてこれらを伝えることは、『その主張はまだ未決着で、同程度の確からしさをもって論争中の立場のひとつである』という間違ったメッセージを暗黙のうちに伝えることになってしまう」(135頁)

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 第4章の最後。146-147頁で「認知バブルに陥らないために」という節。ここまでフィルターバブルやエコーチェンバーについて説明され、それらがネット空間でなくても以前からあったこと、それでもネット空間の特性や固有の問題があることが説明されてきて、これらに伴う問題を「認知バブル」と呼ぶ。

 で、何か解決策とか答えがあるのかと思いきや、お決まりの〈徳〉の話。ここでは「知的に公平な心(intellectual fair-mindedness)」が提示される。第3章もけっきょく「知的な謙虚さ」という徳の話だったんだよね。私も知的な謙虚さを重視する立場ではあるけど、それを徳という文脈の中では捉えたくないし、捉えてもいないのよね。

 結局最後は〈徳〉頼みになるところが、個人的にはいまいちかなあと。

 第4章はここまで。

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 第5章「陰謀論は信じてはいけないのか」について。

 151頁、カール・ポパー「社会の陰謀論」(1972年)とそれに対するチャールズ. ピグデンの批判を紹介。

 陰謀論の定義に「否定的な価値評価」が含まれているよねというコーディの批判(153-154頁)と、その一例としてロブ・ブラザートンの定義(154頁)

 155頁からは科学理論のように、否定的な価値評価を含まない陰謀論の定義の話。これって「仮説」と何が違うのだろう?

 で、ここまでは陰謀論を消極的に擁護するという話だけど、もっと陰謀論の価値を接子y区的に評価しようというのが157頁からの「社会における開放性」という節。陰謀論で明らかになることや社会のチェック機能を果たしているという考え方の紹介。

 それでも陰謀論は魔女狩りに近い状態ということで、コーディがそれをミランダイ・フリッカ―の「認識的不正義(epistemic injustice)」の一次例とみなしているという話。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 このあと160頁から、歴史学と心理学の陰謀論が取り上げられる。歴史学の陰謀論のところでは、呉座勇一氏の説明がしょうかいされるのだけど、「あえてここで呉座氏を出してきたな」という解釈を陰謀論とみなす陰謀論を陰謀論と見なす...みたいなことを考えてしまった。

 心理学の陰謀論は162頁から。疑似科学の話にちかいなと思ったら、170頁以降で反証可能性の話がしっかり出てくる。

 165頁から陰謀論は不合理だというカッサムの批判について。不合理な陰謀論の思弁的、逆張り、秘儀的、アマチュア的、前近代的な特徴についての説明。170頁では、カッサムが付け加える6つ目の特徴、自己封鎖性についても説明。

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 170頁から陰謀論の反証不可能性の話なんだけど、これには理論内在的な意味と「陰謀論を信じると、その人を取り囲む人々との関係性が組み替えられていき、反証可能性が排除されるような社会的環境がつくりだされていく」(172頁)意味があると。

 この後者のメカニズムについて「バウアマンらによる1次的意見と2次的意見の区別」(172頁)が紹介される。この172-174頁の記述はとてつもなく重要。いつか余裕があれば取り上げたいけど、ここはぜひ本書を買って読んでほしいところ。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 第5章の最後は、私たちが陰謀論にどう対処したらよいのかということ。まずはキャス・サンスティーンの「認知的潜入(cognitive infiltration)」に言及。ところがこれには問題があって有効かどうかわからない。そこでカッサムによる3つの対処法、反駁と暴露と教育が紹介される。

 最後の教育は「通常の情報教育のようなものではなく、本書でたびたび言及してきた、より根本的な徳の教育である」(176頁)と。そして「陰謀論に対抗するために有効な徳として」カッサムが挙げているのは「開かれた心(open-mindedness)、批判的な思考(critical thinking)、証拠に対するリスペクトなど」であると。

 開かれた心は「陰謀論を信じるほうへと働く可能性もある」(177頁)。結局どうしたらいいのかってことで「それぞれの徳を切り離して教えるのではなう、『徳の統一』を教育の目標とすることである(Annas 2011)」(177頁)というのが本章の結論。

山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年 amzn.to/4bpvlWn

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 第5章の結論も結局は徳の話か、というのが正直な感想。終章「真偽への関心は失われていくのか」はまとめとふりかえりのようなもの。最後は「即断せずに立ち止まって考えましょうや」といったところ。あとがきは読書案内と謝辞。そのあとに洋書を含めた参考文献がしっかり記されている。

 ということで、山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年を読了。

 来年度の教科書に指定したいなと思って猪田だけど、シラバスの入稿には間に合わなかった。もう少し早くに読めていたらよかtたのだけど、残念。とてもすばらしい本だった。

 高校生や大学生にはぜひ読んでもらいたい1冊。もちろん、大人にも。余裕があれば、これまで書き散らしてきたことを整理してnoteか何かにまとめられたらなと。ま、こういう場合たいてい、そんな〈余裕〉はないのだけど。

amzn.to/4bpvlWn

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 これまで書き散らしてきた『フェイクニュースを哲学する』についての読書メモを、noteにまとめました。とおしで読むことができますので、よければご覧ください。

RT: 山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年の読書メモ|mrmts note.com/mrmts/n/n0fb90d458d8b

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山田圭一『フェイクニュースを哲学する――何を信じるべきか』岩波新書、2024年の読書メモ|mrmts
2025-03-06 13:50:09 nogajun🍉の投稿 nogajun@mastodon.social
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2025-03-06 14:03:36 Gou☮️🍉🐶🏴🏳️‍🌈:catodon:の投稿 gou@catodon.social
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 成績評価用の表計算、エクセルファイルの改良について。

 結局、データ分析のところにも手を入れている。配列数式を使ってややこしかったところは、Excel2019以降 / Microsoft 365で使えるようになったというスピル配列関数を使ってすっきりさせた。

 また、今回初めてマークシート式の試験問題を作成して試験を実施したのだけど(そうしてほしいという空気があり)、送られてきた採点結果に標本偏差値が採用されていたので(それにもかかわらず、標準偏差の欄には母標準偏差の値が記入されているという謎)、母集団偏差値に加えて標本偏差値も計算して表示するようにした。

 あとはデータ入力をしていないときのエラー表示を回避する処理を行った。ここは成績評価に直接関わらないところなので、いちいい条件分岐で処理したりはしていなかったのだけど、この際だからやってしまった。

2025-03-07 07:20:58 じろりろぽんの投稿 jiroriropom@mastodon.social
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 ここまでしているんだ。すごいなあ。

mastodon.social/@FreeBSDFounda

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FreeBSD Foundation (@FreeBSDFoundation@mastodon.social)
2025-03-07 00:58:26 YokoAoki🌍🕊️#StopGazaGenocideの投稿 blue@toot.blue
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 朝からオンラインで講師会議3時間。オンライン会議中に断続的にネットの接続が途絶え、たびたび退室することに。

 昨日からネット接続の調子が悪いのは確認していたのだけど、J:COMに問い合わせたところ3月5日から建物内で障害が発生していて、本日11時にマンションの緊急メンテナンスを実施したとのこと。

 障害・メンテナンス情報をウェブで確認しても情報はなく、チャットで問い合わせても情報はないと回答され、食い下がって確認すると一昨日から建物で障害が発生していたということと緊急メンテナンスを11時に実施していたということを認めた。なんと不誠実!

 J:COMのネット接続は、昨年11月に契約をして1月下旬に障害があったばかり。そのときにも数日間ネットが使えない状態が続いており、こんな頻繁に障害を起こしネット接続ができなくなるインターネット・サービス・プロバイダーは、これまでISDN、ADSL、光ケーブルと四半世紀のあいだにさまざまなISPと契約してきた中で初めて。

 J:COMのインターネット接続サービスを利用しているみなさんは、ネットの接続が途切れるようなことはありませんか?

  • J:COMと契約したことがない6
  • 接続が途切れることはまずない0
  • 障害が途切れることがある2
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 次の投稿でアンケートを実施しています。よければご協力ください。

質問「J:COMのインターネット接続サービスを利用しているみなさんは、ネットの接続が途切れるようなことはありませんか?」

選択肢1「J:COMと契約したことがない」

選択肢2「接続が途切れることはまずない」

選択肢3「障害が途切れることがある」

mstdn.mrmts.com/@mrmts/1141191

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Seiichi MORIMOTO (@mrmts@mstdn.mrmts.com)
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 また自宅のネット接続ができなくなっているのだけど、正午過ぎに届いた書類を返送さるために大阪駅前第一ビルの福山通運に持ち込んで、いまは大阪メトロ(旧大阪市営地下鉄)東梅田駅から守口駅へ向かっているところ。守口警察署でこないだ更新手続きをした運転免許証を受け取るため。できたら京阪守口市駅近くの尾道ラーメン山長で久しぶりにラーメンを食べたかった。

 結局、J:COMのネット接続は訪問メンテナンスが必要ということになるのだろうけど、そのためにこのあと自宅に直帰するのも、再度問い合わせをするのも、訪問日時の予約をするのも、訪問受け入れのために部屋の掃除をするのも自宅で待機するのもものすごく負担。

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 今日はやんごとなくMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店に行かなければならなかったので、たまたま目に留まった

近藤絢子『就職氷河期世代――データで読み解く所得・家族形成・格差』中公新書、2024年

を買ってきた。冒頭から違う。まえがきの1行目から違うよ。

「1990年代半ばから2000年代前半の、バブル景気崩壊後の経済低迷期に就職した『就職氷河期世代』は、若年期に良好な雇用機会に恵まれなかった結果、中年期に至る今も様々な問題を抱えている」(i頁)

 でも私の読みがおかしいのかなあ。せっかくだからアンケートにしてみる。みなさんはこの文章をどう読みますか?

「バブル景気崩壊後の経済低迷期に就職した」は「就職氷河期世代」に対してどのような連体修飾用法ですか?

  • 限定的名詞修飾(限定用法)0
  • 非限定的名詞修飾(非限定用法)4
  • 何のことかわからない2
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近藤絢子『就職氷河期世代――データで読み解く所得・家族形成・格差』中公新書、2024年について。

 序章まで読んだ。就職氷河期世代の定義とか、これから論じる切り口とかについて書かれていた。読んでおきたい1冊だなと思う。

amzn.to/4kxReGQ

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 近藤絢子『就職氷河期世代――データで読み解く所得・家族形成・格差』中公新書、2024年の読書メモ。

 第1章「労働市場における立ち位置」を読んだ。就職氷河期世代をほかの世代と比較して、労働市場における立ち位置(という表現に私は違和感を覚えるのだけど)が確認される。

 新書では往々にしてあることだけど、グラフが小さくて見づらい。全体をとおして確認されるのは、バブル世代の条件が一番よくて、その次が就職氷河期前期世代、もっとも悪いのが就職氷河期後期世代だけど、これはポスト就職氷河期世代になってもそんなに改善していないという特徴。

 43頁以降、瑕疵効果(Scarring effect)について。読めば読むほど悲しくなってくるけど、ちゃんとデータに基づいて就職氷河期の問題を理解しておかないとなと。

2025-03-08 05:21:05 YokoAoki🌍🕊️#StopGazaGenocideの投稿 blue@toot.blue
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 成績評価用の表計算、エクセルファイルの改良について。

 いちど手を付け始めると、あれもこれもと欲が出てきて、いろいろ機能を実装しようとしている。

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 そらなー、廃業する銭湯も増えるわなあ。

mastodon.social/@zudasueharu/1

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 今日は猪名川町の畑に菊芋を掘りに行くために日生中央を目指して川西能勢口で降りたら、貸切の電車があって何やらイベントめいたことをしている。乗務員か駅員に尋ねると、8000系に関連するイベントとのことで、いま調べたら下記のイベントだった。参加費25,000円とは、かなり強気やなあ。

 「8000系」と「30周年」というキーワードが耳に残っていたけど、これもいま調べたら、8040系製造から30周年ということなのね。

RT: 阪急宝塚線乗務員特別企画!「専用列車で行く8000系車両展示会」
hankyu.co.jp/topics/detail/013

川西能勢口駅のホームに停車する阪急8040系の貸切電車。乗務員が多くいる。
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