キッチンローアルコールドランカー。アヒージョ。今日は創味のシャンタンを入れてみた。うまみが出て悪くはないのだけど、でもこれはアヒージョに似て非なるものだよなあ。なんか違う。
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https://mrmts.com
2025年断酒・ストレッチ記録
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1i8IDRQNzp7hGpoYc1VZwCccrA5GHUimhU0sD_ejkZpA/edit?usp=sharing
この本で生殖補助医療の倫理学について書いています。https://amzn.to/3Z0JZfo
近年は小児の身体拘束について研究しています。
キッチンローアルコールドランカー。アヒージョ。今日は創味のシャンタンを入れてみた。うまみが出て悪くはないのだけど、でもこれはアヒージョに似て非なるものだよなあ。なんか違う。
ちょっと咳がひどくなってきたので、まだ眠くはないのだけど寝る。やるべき仕事がたくさんあるのに、つらい。
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しかも内閣の支持率が下がりまくって過去最低の10%台を記録している内閣が改憲をやろうとしているのだから、民主主義の精神に反することは言うまでもなく、そんな政党、政権、首相に改憲なんて進めさせたらどうなるかってことを考えると末恐ろしいわ。
まさか雑魚みたいな国会議員を2人やそこら逮捕して立件し、幕引きにしようって魂胆じゃあるめえなあ、東京地検特捜部さんよ。東京五輪のときもそうだったけど、黒幕をしっかり押さえないと、根本的な問題は解決しないし、同じ問題は繰り返されるよな。
RT: 安倍派・池田議員と秘書を逮捕 裏金事件で初めて 東京地検特捜部:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS1733HKS16UTIL028.html
自民・安倍派の池田佳隆衆院議員を逮捕…政治資金規正法違反容疑 : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/national/20240107-OYT1T50053/
今年は辰年なんですね。いま初めて認識しました。ということは、昨年は卯年ですね。「う」というのはうさぎでしたっけ?あってるよね?
ここからは、第3章「〈支援〉とはなにか」(77-122頁)について。
冒頭「震災以降とくに苦しかったことは何ですか、と訊かれることがよくある。そういったときには、決まって『震災直後の貧相で窮屈な〈支援〉観』と答えてきた」(77頁)から始まり、能力主義的な判断基準に基づく支援観を批判し「当時、巷でよく耳にした『いま自分にできることをやる』などといった呪文にもにたスローガン的な物言いは、震災という〈出来事〉へのわたしたちの係わり方が〈できる/できない〉といった切り口以外にはイメージすらできないことを皮肉にも物語っていたのではないか」(77頁)と西村先生は書いているのだけど、この節の最後で哲学カフェについて「この時期にこのような問い直しのプロセスに立ち会えたことそれ自体が、被災地で哲学対話という場を拓き続けることもまた何らかの意味で〈支援〉となりうることの証左として、それ以降の活動をつねに力強く後押ししてくれていたように思われる」と言っていて、これが能力主義の支援観ないし「いま自分にできることをやる」と何が違うのかわからず混乱している。
79-87頁は「時間をともにする」という節。
哲学カフェの冒頭で訪問看護を専門とする鳴海幸さんと精神看護を専門とする看護教員の近田真美子さんの対談が行われたようなのだが、そのやりとりの一部が紹介されている。以下は近田さんの発言。
「なるほど、そこでの〈支援〉というのは何か特別なことをしてあげるということではなくて、一緒にいて、もともとあった生活に近いかたちで何かをともにするといったニュアンスのことだとおっしゃるのですね。一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだり、ともに時間を過ごすということ。」(81-82頁)
これって2009年4月25日に応用哲学会(於・京都大学)で私が発表した「臨床哲学の観点から応用哲学について」の中で提唱した「『居る』ことの力」そのものなのよね。これは臨床哲学の提唱者である鷲田清一の「『聴く』ことの力」に対して、ただ一緒に居ることそのものにも力があるということを主張したもので、2007年に私が父を看取った際の経験に基づくもの。
そしてこれは別に「個別の言葉」としてでなくとも「一般的な言葉遣い」として語れたことであり、個別の言葉である必要はないのよね。
そしてこのやりとりについての西村先生の地の文としてはシシリー・ソンダースに言及し「わたしは、お二人の対話を傍らで聴きながら、もともとお二方とも医療(看護)専門職者だからといった思い込みがわたしのなかにあったからか、〈支援〉に関する両者のやりとりの底の部分に、いわゆるケアという営みの根幹に”Be there(ともにあること)”という基本的な構えを据えつけたシシリー・ソンダースの存在を勝手に読み取ったりもしていた」(87-88頁)と「一般的な言葉遣い」に重ねて直前で紹介された対談における支援を見ている。
確か「〈負い目〉の感覚を『サバイバーズ・ギルト』などといった専門用語に置き換えることで何かをわかったような気分になり、考えることそれ自体を止めてしまうような事態だけは絶対に避けなければならない」(34頁)と言っていたはずなんだけど、西村先生は考えることそれ自体をまだ続けられているのだろうか。なぜ、サバイバーズ・ギルトという説明は拒絶してシシリー・ソンダースの"Be there"は受け入れられるんだろう。
93頁から乙武洋匡『希望 ぼくが被災地で考えたこと』を参照しつつ支援についての考察がなされている。以下、孫引きになるが、乙武さんの本から次の文章が引用されている。
「けれど、僕は知っている。一方的に浴びつづける善意は、やがてボディブローのように効いてくることを。相手に『してもらう』ことはありがたいことだが、その関係性があまりに一方的だと、いつしか自分を卑下するようになる。それは、物理的に「してもらう」ことが多かった僕が、小さなころから戦ってきた葛藤でもある。だからこそ――。フリースペースで楽器を演奏する。館内で配布される情報誌にイラストを寄せる。イベント時には写真を撮影する。こちらの方言でもある”おだがいさま”の精神で、『自分にも何かできることを』と探し始めた人々の気持ちが、僕にはよく理解できた」(93-94頁)
さっき「当時、巷でよく耳にした『いま自分にできることをやる』などといった呪文にもにたスローガン的な物言いは」(77頁)と書いていたけど、西村先生はこの被災地から遠く離れた場所にいる〈被災者〉のことは視野に入っていないのかな。被災は距離とか程度とか直接だけじゃないのよね?
96頁でミルトン・メイヤロフ『ケアの本質 生きることの意味』に言及。
一般的な言葉遣いを批判しながら一般的な言葉遣いを頻繁にしていてもうわけがわからない。なんだろう、西村先生自身はご自身が一般的な言葉遣いをしているという自覚をもたずに、自分以外の一般的な言葉遣いだけをそれと認識して批判しているのだろうか。
本当に意味が分からない。一般的な言葉遣いを批判するのなら、ここでメイヤロフの『ケアの本質』への言及は要らないんじゃないだろうか。そんな仕方で自身の主張を権威づけなくてもいいではないか。
「ところで、この『”おだがいさま”』という双方向的な〈支援〉のあり方をさらに深くまで読み解いていくと、そこには、これまでの哲学対話のなかで確認してきたさまざまな〈支援〉の要素、さらにそのいくつものヴァリエーションを貫く原則らしきものが透けて見えてくる」(96頁)って、深くまで読み解くのはいいんだけど、西村先生、個別性を捨象して一般的な原則を透視してしまうの?一般的な言葉遣いへの批判はどこへ行ったんだろう?個別の言葉はどこへ行ったんだろう?
97頁。「おだがいさま」から「互い(たがい)」と「違い(たがい)」がどうこうということば遊びがはじまった。ある種の人はこういうの好きなのかもしれないけど、私は受けつけない。もっとまじめに厳密にやろうよと思う。
「両者の〈違い〉を跨ぎ越し、同一視しようとするそのような大それた気構えこそが、逆に、〈支援〉という営みそのものを完全に不可能なものへと貶めてしまう。もし仮にそれが可能であったとしても、他者の苦しみを自身の苦しみとして自らのうちに抱え込もうとする試みにどれほどの精神的な労力が必要とされるか、考えただけでも気が遠くなりそうな話である。あらためて言うまでもなく、その先には、被災者の苦しみに思いを寄せ過ぎることで過度の精神的ストレスを感じてしまう『共感疲労』が待ち構えている。そうならないためにも、それこそ他者への『同情・共感・共同感情』について深く哲学的な考察を展開したマックス・シェーラーの言葉――『他者の苦しみを汝自身の苦しみとみなしたり、それを除去するためにエネルギーを消費するがごときのないようにくれぐれも注意せよ』――を重要な戒めの言葉として自らの胸につよく刻み込んでおく必要がある」(97-98頁)
なお「違い」には「たがい」とのルビが振ってある。
ここで述べられていることに異論はないしシェーラーの引用も適切だと思うけど、西村先生が一般的な言葉遣いを持ち出したらだめでしょ。
これなんかは、いまの日本の政治的状況、ウクライナ、パレスチナ、ウイグル自治区、シリアやそこにいる人びと、能登半島地震で被災された方がたに思いをはせ共感をしようとする中で疲弊している人たちもおおぜいいると思うから、それこそ〈一般的な言葉遣い〉であり、かつそのことばの持つ力というか意義は大きいと思うのよね。
もちろん、個別性はだいじだと思うし一般化することによって削ぎ落されたり捨象されたりすることってのはたくさんある。だけど、一般化したり普遍的にものごとをとらえたり、それを専門家が言語化したりってのは、それはそれで必要なことだし、どちらか一方だけでは不十分で両方必要なことなはずなんだよね。
「いくつものヴァリエーションを貫く原則らしきもの」(96頁)を透かして見たときに、サバイバーズ・ギルトというものが浮かび上がってくるのなら、それを最初に持ち出すかどうかは別として、分析や理解のひとつの道具として用いればいいし、逆にそうしないことが不合理となる場面も中にはあるわけよね。
この投稿は直前の投稿を引用しての投稿にして一連の投稿とは別立てにしようと思ったけど、こちらに書くことにした。
先ほどこちらの投稿がお気に入りに入れられたので気づいたのだけど、もう1か月以上読んでいるのに100頁も読めていないんだ。この本、350頁まであって、某原稿の締め切りは今月末なんだけど。本当にやばい。
99頁でシシリー・ソンダースの似ていない者同士の共同体(a community of the unlike)、ミルトン・メイヤロフの差異のなかの同一性(Identity-in-Difference)が取り上げられる。これもケアないし支援の問題を考える上で重要かつ基本的な概念だと思うし、専門家による「一般的な言葉遣い」にほかならないのだけど。
石川県の馳浩知事は、震災から6日目の1月6日になってようやく非常事態宣言を出したようですね。遅きに失したと言わざるを得ません。
それでは、私が震災当日に投稿したことを振り返っておさらいをしましょう。
自民党とX(旧Twitter)と日本青年会議所は組んでいましたね。
From: @knappertsbuch
https://fedibird.com/@knappertsbuch/111713504925143761
岸田首相にしろ林官房長官にしろ、記者会見のあと被災地に行くわけでも不測の事態に備えて官邸で待機するでもなく、たんにスーツを着てテレビに出演したり忘年会をハシゴしたりするだけなのに、なぜ作業着を着て記者会見をしているんでしょう。
うん、知ってます。実質を伴わないただの見せかけのコスプレで、何もやっていないのにやっている感だけ演出したいという浅ましいことを考えているからです。
みんなも気づいていると思うけど、こういうペテン師に騙される人がひとりでもいなくなるよう、わかっている人には分かりきったことでもぜんぜんわかっていない人もいるので、しっかり指摘していきましょう!
@knappertsbuch そうですね。メディアを支配する者が我々を支配することにつながりますからね。最大限の警戒が必要です。
@heping 安倍も吉村も吉本新喜劇に出ておちゃらけたことやってますからね。それも日本や大阪がたいへんなときに。
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