『Vivaldia2』の最終ステージ(15)は、
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大迷宮!
 これまではひたすら右へ進むだけで良かったが、このステージには大きな分岐がいくつもあり、全体が見通せない。これはマッピング必須か……。
 難易度も高い。これまでは、目の前の状況を見れば何をすればいいか判断できたのだが、対処法が見えづらい。
 プレイヤーキャラは当たり判定が大きいため、ぎりぎりの回避をしたつもりでもダメージを受けてしまう。これもつらい。残機無限でようやくここまで来たが、これはいよいよ大変だな……。

ステージ15のスクリーンショットです。溶岩溜まり+溶岩噴出+ノコギリ往復+焼夷弾の4要素複合攻撃がきつい。
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同じく、スクショです。左右からの火炎放射を避けながら、狭い通路をひたすら登っていくと……何があるんだろう?
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同じくスクショ。移動床のシーン。
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ステージ15の最初の方のシーンです。青と赤の鍵を取ってくる必要がある?
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まあ、『ロックマン』などのレトロアクションゲームでも、下が針山や奈落で、落ちたら即死のステージはあるけど。
 なかでも『悪魔城ドラキュラ』(のどれかしらの作品)のシャンデリア渡りは、実に格好良かった。左右にギシギシ揺れる巨大シャンデリア群を3つ、4つと跳び渡っていくという派手なマップ。ただし、下は奈落なので、落ちたら即死。

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私はプレイしながらスクショを撮っているので、マップ把握とルート構築はそれで賄えているけど、別解や別ルートがいろいろあるのでかなり厄介。

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移動床は、移動経路を示す索(ロープ)があるので、死にながら少しずつルートを把握していけば、素人でもいずれ進めていけると思うけど……。どうなることやら。
 開発チーム「Pocelain Fortress」には、オールクリアできた方もいるんだろうなあ(※テストプレイをして、正常にクリアできるかどうか確認している筈なので)。

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現在公開されているのは「お試し版」とのことなので、正式版のリリースまで寝かせておこう、そうしよう、それでもいいよね。(逃避)

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ちなみに残タイムが0になっても、デメリットは無い(つまり、キャラが死んだりはしない)。
単なるクリアタイムボーナスなので、スコアアタックする人だけが気にすればよい。

『Vivaldia2』をステージ12まで進めてみたが、ここらが限界かも。
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この手のアクションゲームにありがちな移動床が出てきたが、
・複数の床移動が、縦横に絡まってかなり複雑に見える
・索が細くなっているところは床が閉じてしまう(乗っていられないので他に跳び移る)
・画面先が見通せないので、移動目標が分からないし、瞬時の判断が求められるし、予想外のミスを生じやすい。
・途中で落ちたら、またスタート地点から。
 これは本格的にきつい……。

 ちなみに、例えば『ロックマン』シリーズだと、
・先が見通しやすいレイアウトになっている
・移動床は基本的に2つまで、しかも直線的な移動が大半だし、落ちても死なない
・移動床が閉じてしまうことは無い(※出没する固定ブロックはあるけど)
・代替的な移動手段も使える(エネルギー消費と引き換えに、強引に渡っていける)
このように、甘めの難易度にしているのだが。Vivaldiさん、容赦無いな……。

『Vivaldi2』ステージ12のスタート地点のスクリーンショットです。
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(つづき:)当人が正しいものとして奉じるある特定の議論、ある主張、ある観念、ある枠組について、その妥当性をより強く信じ、その妥当範囲をいよいよ広く見積もっていくと、
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・何に対しても同じ結論だけを返す、平板な自動機械のようになってしまうか、
・異論を受け入れる余地の無い、一面的なものへと先鋭化してしまうか、
・あらゆる対象をその観点によって支配しようとする独裁/独断/独善に陥ってしまう。
とりわけ政治的/社会的な議論に際しては、そういった危険性が大きい。もちろん、人権や社会的公正に代表されるような、いかなる議論においてもゆるがせにすべきでない基本的価値は存在するが、それらとても、個々の問題や政策判断の中で具体化する際には、様々な考慮をも掬い取れる余地を持たなければ、議論の健全な強度と実効性は保てないだろう。

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とはいえ、こうした状況から「全ては政治なのだ、無害なエンタメも無責任なノンポリも存在し得ないのだ」と結論づける主張――を見かける――に対しては、それはそれで警戒せざるを得ない。それは、個人のあらゆる私的領域に政治が侵入し、生活のあらゆる局面が(大文字の)政治によって包摂されて、政治という尺度の下にその意義や価値や正しさを判定される社会であることを肯定するものであり、あまりにも危険だからだ。

一部ファンの強硬化は、「推し」文化の弊害でもあるように思える。
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「好き」というだけならば、その対象を「好きになったり」「大好きになったり」「あんまり好きじゃなくなったり」することは比較的容易だ。そういったグラデーションの余地や、向き合い方の変化に開かれている。
 しかし、「推し/推す」という捉え方をしてそれを対外的にも表明することは、対象に対する自分の態度と評価を固定化してしまうのではないか。そこでは、「あのアイドルさんは素敵だと思うけど、○○なところは変えてほしいな」といった是々非々の留保を入れることが難しく、全面的な支持と応援だけになってしまいやすいように見受けられる。さらに「○○総選挙」のような競争的アリーナがそれを助長する。
 アイドル個人に愛着を持つだけでなく、その所属事務所まで丸呑みに支持するような――私には誤った過大包摂に思える――姿勢は、そういうところから来ているのではないかなあ。
 言い換えれば、かれらファンはけっして「愚か」なわけではないし、「ファンである自分に酔っているエゴイスト」というのでもない。「推し」産業に取り込まれた被害者なのかもしれない。

音楽と主観についてごにょごにょ。
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ベタに言えば、例えばスコットランドやイタリアを訪れた際の印象を基にした交響曲とか、異性に寄せる思いを仮託した「ないしょの手紙」の弦楽四重奏曲といった話になるのだろうけど、そういった個人史的エピソードが楽曲構造の解釈に対してどのような影響を持ちうるかというと、(素人的に)まったく分からないのよ……。例えば、現地の民族舞踊的リズムをきちんと反映させるような解釈(演奏)になったとして、しかし、それは主観の反映というよりは形式の次元で処理されているように思えるし……。
 逆に古典派の作品についても、例えば作曲者個人を巡る音楽的影響史などのバックグラウンドを踏まえてそれを解釈に取り込むことは当然ある筈だし。そのあたりの違いが(、あるいは、違いがあるのかどうかが)、よく分からない。