エピクーロスは神々の存在を否定することはせず,ただ彼らは不死にして憂なく至福の存在であるから我々人間に対してはいかなる干渉もしないものであると考えた.この「人事に無関心な神々」という考え方は,徹底した無神論にまでは到達しなかったという否定的な意味で捉えられるべきものではなく,むしろその対偶から導かれる,「憂いや心労を払い幸福に到達した人間は神々にも等しい」という命題に至るための大事な役割を担っていると考えるべきなのかもしれない.
エピクーロスは神々の存在を否定することはせず,ただ彼らは不死にして憂なく至福の存在であるから我々人間に対してはいかなる干渉もしないものであると考えた.この「人事に無関心な神々」という考え方は,徹底した無神論にまでは到達しなかったという否定的な意味で捉えられるべきものではなく,むしろその対偶から導かれる,「憂いや心労を払い幸福に到達した人間は神々にも等しい」という命題に至るための大事な役割を担っていると考えるべきなのかもしれない.
「人間を疎外するものとしての宗教を批判すること」と「宗教的感情自体の存在を認めること」とは両立するが,その点を混同していると,たとえばルクレーティウスが人間を虐げる宗教(religio)を攻撃する一方で作中において神話を多分に利用していることとが矛盾しているように思われてしまう.
湖の上を歩くイエスの話はマタイ,マルコ,ヨハネに見えるが(Mt 14.22-33; Mc 6.45-52; J 6.16-21),ペテロがイエスの方へ向かって歩み出し,風に恐れを抱いて溺れかける出来事はマタイ(28-32)にのみある.
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古典の意義とか価値について考えてみようという場合には,単に古典とされているものを読むというだけでなく,それが古典とされ今に伝えられている経緯――言い換えると,古い時代の文物が段々に判らなくなってきて,にもかかわらずそれらを失われるがままにするのは忍びないと思い収集と研究に勤しんだ人々の歴史――を知る必要もある.
ノイゲバウアーの態度は,『古代の精密科学』の中で,ギリシア数学史におけるプラトーンの影響が強く言われていることに対して反対し,
「プラトンやアリストテレスが引用している数学の内容が極端に初歩的なことをみても,テアイテトスやエウドクソスがプラトンから学ぶものがあったという仮説は支持できない.プラトンが研究を『指揮』したとしばしばいわれているのは,幸いなことに事実から出たことではない.彼は観測を思弁でおきかえるように天文学者に忠告したが,(実現されていたら)精密科学に対するギリシア人の最も重要な貢献を台なしにしていたことだろう.たしかにプラトンの教義は,ギリシア科学を現代的に解釈する上で大きく影響を及ぼした.しかし,近代の学者達がプラトンやその後継者に払ったのと同じくらいの関心をガレノスやプトレマイオスにも払っていたならば,全く異なった結論に達していただろうし,いわゆるギリシア精神が,実験や経験的事実に頼ることなく科学的な理論を発展させる驚くべき資質をもっていたなどという神話を生み出すこともなかったであろう」(矢野・斎藤訳pp.139-140)
と言っているところなどにも読み取れる.
京大吉田寮の写真展「百年の光跡」開催、ドキュメンタリー関連企画 - 映画ナタリー
https://natalie.mu/eiga/news/315031
とりあえずまとめてみましたと言われてもTogetterのケバケバしい画面を見たくないというのがあります
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