実際に原著を読んだ人々による紹介や批評といった一定以上信頼できるソースがあって、それに依拠しているかぎり、未読の者が一定の判断をすることは十分可能だし、正当だと思います。私たちが世の中の様々な事件について、自分自身が一人一人現地を訪れて当事者の意見を聞くまでしなくても、十分に確からしい判断をしているのと同じことだと思います。
内容面でも、トランス研究の標準的な理解から逸脱しており、なおかつ調査手法に明らかな問題があると指摘されているならば、疑念/懸念/危惧/批判を投げかけるのは妥当だと思います。
また、原題に対して邦訳タイトルが過度にセンセーショナルであるという一事から、出版社&訳者のスタンスはかなり見て取れます。邦題の選定も、表現者が作品を世に問おうとする際に熟慮する重要な一要素であり、受け手にとっても書籍の社会的な意味づけを判断する際の重要な評価要素たり得ます。
しかも、その内容が現実的に誤った認識を広め、偏見を助長する虞があると考えられる場合には、「出版されるべきでない」という意見を述べることは、公共的言論の範疇として十分正当でしょう。
ましてや、今回の件では、例えば不買運動のようなアクションが起きる前に出版社自身が即座に刊行中止を決定したわけで、今のところ、攻撃的-強制的な出版妨害があったわけではありません。もちろん、公的な「差止」のような強制的禁圧がなされたわけでもありません。
以上のことから、私見では、ヘイトの害悪をもたらしかねない出版(社会的な意義も研究上の新規性も無さそうな翻訳書)について、パブリックな言論を通じて、中止という妥当な結論に収まったと見ていますし、これはまさに自由な言論のフォーラムがポジティヴに機能した事例と言ってもよいと思います。
出版することだけが表現であるわけではなく、一定の理由に基づいて他者の表現に対する評価を表明することもまた当然に表現です。ただの言いっぱなしとしての「自由」だけではなく、そういった表現(者同士)の幅広い交流が為されることこそが、表現の価値だと考えます。
……情勢全体はよく分からないこともあるし、今後の動向がどうなるかは分かりませんが、こんな感じかなあ。