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モネの絵のガラス面に絵の具(?)をつけることだったり、レインボーフラッグを燃やすことだったり、イメージにたいする破壊という行為の、いろいろな文脈差と社会のなかでの読解可能性について、繊細な論点がたくさんありそう。
Rúrí さん、知らなかったけど、アースワーク系の作家なんだな。虹をモチーフにした作品は2つあるっぽいけど、燃やしているやつは、誰も虹を掴むことができない、現象としての性質に関心があるということと、それが抱える文化的な意味の強さ。
https://ruri.is/
今回の件で、興味深くおもったことの一つは、イメージの意味の読み替えで、Rúrí さんの作品は現在の意味でのレインボーフラッグを意味していなかったとおもうけど、それを文脈を変えて別な意味を作りだしている。完全にネガティブな意味に読み替えているし、それを社会で流通する記号として利用している。
この意味の乖離に疑問がでて Rúrí さんの作品をざっとステートメントとか読んでみたけど、そうするとこちらでは、人間がいかにして自然とかかわっているか、虹という記号と虹という現象の関係が問われている。人間が虹を記号として把握する一方で、自然はそこから逃れる。
こういう記号と実在の乖離という関係において作られるメッセージが、環境活動家のアートをターゲットにした活動と構造的に似ているのではないかと感じる。それが、作品そのものの外部でおこなわれていることも含めて。
Rage Against The Machineの1stのジャケットが仏教の攻撃だと読むのかって言っている人いるけど、あれを読みまちがえる人はいない。バンド名(=アルバムタイトル)と写真を合わせて、焼身自殺した僧侶の姿が抵抗の象徴だというのは、見間違えようがない。ここには写真とキャプションの関係が成立している。
今回の場合、そもそもレインボーフラッグ自体が一つの象徴であり、それを燃やすという行為も、象徴への破壊として読むのはある程度一般的である。アルバムジャケットに採用するくらいだから、「レインボーフラッグを燃やす」ことを象徴化していることはわかる。ただ、この象徴化は、キャプションがないため意味が宙吊りされてしまう。
結果的には、本人の言明がキャプションの効果を持ったけど、そのように意味を収斂させていくことは意図していないとおもう。インタビューはあきらかに作品の外部だし。
@BLUE_PANOPTICON まあ、作品外で意図の解説するくらいならレイジみたいにタイトルにしてくれとはなりますね。
今回のイメージ戦略は、一般に知られるネガティブなイメージと、ビジュアル自体の美しさに引き裂かれつつ意味が宙吊りされてしまう、というのが、個人的にはおもしろい戦略だなと思いました。
デザインの対象領域を、建築空間内部(インテリア)、建築空間外部(ストリート)、メディアという領域におおざっはに分類するのは筋が悪くなさそうにおもえる
バウハウスもめちゃくちゃざっくり言ってしまえばファサードの話はもういいやろ、建築内部の必然性からボリューム作ろうやって話だし、家具のデザインに注力していたのも一貫性ある。
ただ、モホイ=ナギみたいなグラフィックデザインの先祖がいて、メディアのデザインにおいても先駆的だったのがバウハウスという運動の性格を難しくしているのはそう。
もう1、2歩踏み込んでほしい
コカ・コーラ社は「知らなかった」でいいのか Mrs.Green Apple『コロンブス』問題 歌詞から推察できるタイアップの問題点(ENCOUNT) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0bcd8e1a456445809e7a154e863b894123de5a7
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CMというものがまさにその過程を捨象して商品を表面的なイメージ・記号に変換していくもので、そういうのか変わってほしい
都美館でやっている「ずれはからずもぶれ」は「移民」をテーマにした展示で、かなり良かったので、見に行ける人はぜひ(入場無料)。
在日韓国人3世で韓国人と結婚して韓国に移住したハ・ジョンナムさんの作品は、和紙と韓紙を重ねた切り紙で、日本語とハングルを配置している。ご本人の説明を聞けておもしろかったけど、日本で習得した韓国語が向こうではかなり訛りがあるように聞こえるというか、教材の作られた時代が古いままで、北朝鮮の語彙に聞こえてしまうようである。「ずれはからずもぶれ」という展示の題をよく表している。
近藤愛助さんの作品は、明治期にアメリカにわたり戦時中は収容所に入れられていた曾祖父についてのもの。曽祖父が撮影した写真をもとに彼が辿った場所を巡る。収容所跡地にはなにもない。「黄禍論」の系譜を整理した映像も、先日から「イエローモンキー」表象が気になっている自分としてはかなりクリティカルなものだった。
ほかにも、ドンバス戦争で帰れなくなった青年(帰ると徴兵されるため)に、自宅のVRを作り体験してもらうアリサ・ベルゲルの作品や、ガザの分離壁や38度線にある海を撮影したイシャイ・ガルバッシュの作品など、どれをとってもいま見る意義があるものでした。
https://zure.baexong.net/index-jpn.html
なんというか、「植民地主義の反省」みたいな文脈ではなく、現にある土地でマイノリティとなる立場の人たちが制作したもので、作品の表面だけ見てもたぶんわからないことが多く、それで説明できるように現地に人を置いているのだとおもう。揺さぶられる展示でした。
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「問題の覚書が何を意味しているかをテクストに即して解釈するという姿勢そのものが、すでに政治的に不適切な行為と見なされる」ってこれ研究者レベルでそうなの?それはすごいな。
「ハイデガーを読むのはやめなさい!」とマルクス・ガブリエルが日本人に警告したにもかかわらず、私たちがハイデガーを読むべき理由 https://gendai.media/articles/-/131410
下らないことで「不穏当発言」として「退席」とか「発言取消」とか動議するのが小池都政なんですね。「誰が答弁するかを決めるのが都知事ではない」が正しいとしても、これで発言削除を求めて賛成多数とか、異常だとおもう。
https://www.youtube.com/watch?v=oN5zpuJ-CdU
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これ、ふつうにその通りだとおもうけど、引用がひどいこと
コロンブスの評価が変わった延長線上で、「征夷大将軍」の評価も変わらざるを得ない筈なのだが。
エスノセントリズム、いろんなところに価値観や語彙のレベルで入りこんでいるから、相対化とか客観視するのなかなか難しい
エスノセントリズムがどのように構築されているかといえば、ある言語や物語が繰り返し語られることによる
我々のいろいろな観念がどれくらい物語の上に成立しているかはけっこう周到な検討が必要
この観念を語る装置は、教科書であったり博物館であったり、通俗詳説であったり、国民的映画であったり、いろいろありますよね
「歴史的事実」というものが「評価」を抜きに存在しているわけではない、みたいなことをE. H. カーの「歴史とは何か」に書いてあった気がするけど、どうだっけ
交通事故があったとして、裁判で弁護人がいくつかの証拠をあつめるとき、彼が語ろうとする話にとって意義のある事実とそうでない事実がある
事実は事実を評価するシステムの内部で「事実」となる
みたいな話
ペースペクティブの変化によってある歴史的事実の歴史的評価が変化するのは常識に属するものだとおもっているのだけど、そうでもないものですか。