「GNU 臭そう」って何事かと思ってしまったけど古臭そうだった
「正式な日本語」とかいうのが翻訳語の問題にすぎないのがめちゃくちゃ日本って感じするな
ゴダール「アワーミュージック」を見た。イスラエル・パレスチナ問題やサラエヴォ紛争を軸にしながら、映画の自己言及的な構造を作っていて、難解だけど見てよかった。ユダヤ系フランス人の女性がパレスチナの詩人にインタビューするのは緊張感があった(パレスチナ詩人マフムード・ダルウィーシュは役ではなく実在の詩人本人)。
詩人へのインタビューのシーン、むかしの現代思想のサイード特集で、イスラエルのインタビュアーがサイードにインタビューしているのが収録されているのがあるけど、それを思い出した
@on1000mark
リマスター版出るらしいのでぜひ
アワーミュージック ジャン=リュック・ゴダール デジタルリマスター版 Blu-ray https://amzn.asia/d/hSHV4s2
今日友人に紹介されたこのゲームめっちゃおもしろそう
社会運動の視点から「スナフキン:ムーミン谷のメロディ」をレビュー。警察への抵抗から公共空間の模索,ジェントリフィケーションまで
https://www.4gamer.net/games/617/G061758/20240321056/
twitter スペースのリマインドをオンにして、その予定時間に twitter 通知欄を確認できない場合、「通知」に消せない通知ができあがるらしい。
@polidog Googleマップによれば徒歩7日くらいで行けるらしいですよ
宮内庁がSNSやるとかキナ臭いからやめてほしいけど、天皇がSNSやったらフォローする
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政治の話は興味持っていない人には届かないんじゃないかな...。ミュートとかブロックとか。
なので、最初から聞く気がある人たちに届ける形になって、エコーチェンバーになる。
というか、政治的な態度の親近性が、エコーチェンバーの境界になっているという意味では他のSNSとはあまり変わらない。Twitterのような直接的なぶつかりあいが少ないだけで。
真面目に考えないと、相互フォロー以外からされて嫌なのは「引用」ではなく「通知付きの言及」なのか「任意の言及」なのかそれとも「任意の通知」なのか、そういうところの解像度が下がっていってしまうわけですね
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SNSの情報流通みたいなものってやっぱり都市と似ている感じするなぁ。
Fediverse はやっぱり村とか、せいぜい地方都市レベルだけど、Twitterは人口密度が大都市っぽさがある。
インスタグラムほぼやっていなかったからあまり気付かなかったけど、ストーリーズはすごい仕組みだなとおもった(いまさら)。揮発性の投稿と、DMのやりとりだけで繋がるから、公開のタイムラインみたいな形態がなく、ほんとうに内輪だけでのコミュニケーションが成立している。開かれていないインターネット。これもたしかに一つの方向としてあるな〜と感じたけど、Mastodonが引用RTを実装しない理由と近い気はする(Fediverseが全体として内輪志向というわけではないとおもう)。
だからSNSでの「政治」はどうしても「やった気」になりがちだと思う。似た考えの人をエンパワメントするのにはいいと思うけど、異なる考えの人を説得したり、考えを変えるのにはSNSは向かない。
それとこうした特性があることを理解した上で、むしろ自分が強く信じてる根本信念、デネット言うところの「信念の信念」について絶対視しないようにする、他者への同意や反対ではなく「理解」を心がけるなどすることで、バランスをとりさえすれば、それなりに有効性のあるツールになると思う。
そういう反省なく使ってしまうとエコーチェンバーになる。
@nibushibu @polidog 徒歩7日、たぶん24時間一定のペースで歩くことによって実現されます
売買春が問題になってる時点でもう厳しいな。問題は人身売買じゃないのかよ。 https://twitter.com/fukushima_n/status/1772132537411743988
エコーチェンバーは開かれたインターネットに対応する概念じゃないかな。2000年台的な思想というか。
売買春は、はっきりいえば自由意志のもとであればどうでもよくて、問題はあからさまな経済格差とか、それが行きすぎた場合の人身売買的構造のほうで、それが売買春において「女性が売る、男性が買う」を生みやすい構造を作りあげているわけで、買う側を処罰したら問題が解決するなんて都合のいい話があるわけがない。
素朴に考えて違法売買春が増えるだけだし、売買春を危険視する人たちの視点はめちゃくちゃ危険だとおもう。
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江戸期吉原について調べて、本質的には人身売買が問題で、それも人身売買は人権侵害だから駄目と言って済まされる話ではなく、貧困に対しての対策が全くないから、幕府が人身売買的制度を許可してしまったという歴史がある。明治にはいって、表面的な人身売買の禁止がなされ、それによって売春は女性の自己責任ということになり、構造的にはなにも変わらないのにより過酷な立場になってしまった。
現代では日本国内で相対的に貧困度合いは減ったから望まない売春は減ったとおもうけど、国内でもそれが無くなっているわけではないし、貧困国の人身売買もある。
「買春の禁止」によって日本はクリーンになるかもしれないけど、問題は他所に転嫁しているだけになる。極端な経済格差がありつづけるかぎりこうした人身売買市場は成立してしまうわけだし、「買春の禁止」とは都市計画におけるジェントリフィケーションのようなものでしかないとおもう。
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けっこうやばいことが起こっている
政府は、第三国への輸出について「市場が大きくなり効率化する」などと、販路拡大でコストを安くし、多売により儲けを増やす――まさに「死の商人」の論理を露骨に表明した
次期戦闘機輸出の閣議決定に強く抗議し、撤回を求める│声明・談話・発言│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会 https://www.jcp.or.jp/web_policy/2024/03/post-977.html
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田中優子は売買春が「人権侵害」だと思っていて、人身売買が問題だとは思っていないんだな...
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/28682
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アベノミクスの第三の矢が軍需産業だったとか聞いてないけど(いま思えばまあそうか)、確実にもうかるでしょうね。プライマリーの買い手に自国政府があり、政府が他国の戦争にコミットしますって言えば増産体制もつくることができるし。戦争の需要を誰がどのようにコントロールするか問題だけど。
日本は自国防衛のために防衛費増すという体裁で、そういうポジションを求めていくんだなと。
リファクタリングして10倍くらい早くなったワーイって思ってたら await してないだけだった
この資料、松本重治へのインタビューがあり、インタビュアーは昭和62年当時の美術館次長垂木祐三氏なのかな?以下の箇所が気になる。
平和条約でフランスにあった日本の財産はフランスのものになったといいながら、フランス側は松方さん側が権利を放棄することを明確にしておいてくれということを言っておりまして、昭和三十年に松方三郎さんの名前で文部大臣あてに、松方コレクションについては権利を放棄しますという文書をお出しになっておるようですが。
これはインタビュアー側の質問で、フランスが返還にあたって、松方の権利を放棄させ日本国の財産とさせたのは松方幸次郎の戦争責任を見てのことだろう。 当初敵国財産として押さえはしていても、そもそも民間人の私有財産であるから返還をしようという話があったのが、仏領インドシナで日本軍がフランス人を虐待したとかで反対運動があり、国対国の交渉に切り替わったという話を松本重治がしている。フランスとしては、松方幸次郎の私有財産として返却するのではない、という立場を明確にしているのは、それなりに重要な話であるようにおもう。フランス側が私有財産としては返還しなかったのは、松方の政治的立ち位置を低く見積っていない(ただの民間人とは見做していない)からだとおもわれる。
国立西洋美術館設置の状況 第1巻 関係者にきく https://nmwa.repo.nii.ac.jp/records/766
上記の質問に対して、松本重治が「僕は知らん。」と返しているのが、とぼけているのか、経緯をなにも知らないのかよくわからないな。
松本重治の以下の証言もずいぶん変な話で気になる。
文部省が返還してくるものをいれる美術館を文部省傘下の近代美術館分館とするという決定をするんですよ。それで予算案に入れたんだ。僕はフランスとの約束の条件は、ザ・ミュージアム・オブ・モダン・ウェスタン・アートで、分館と書いたら契約違反になるから独立のミュージアムでなければいかんのだと言った。
これがいまの近美と西美が分かれることになる経緯だけど、「近代美術館分館」だと約束違反だとフランス側が馬鹿げた主張をしたのだろうか。 いったん近美分館という体裁でできた予算案を、松本重治は、ほとんど無理矢理修正させ、「国立西洋美術館」という独立組織を作りだすことになった。この画策には松本重治の意図があるのではないかという気がする。
松本重治は、松方コレクションの交渉について、一貫して「返還」という言葉を使っているけど、フランス側はもはやフランスの国有財産になっているから「寄贈」としている。おそらく、松方幸次郎が軍需産業当事者であったり大政翼賛会議員であったりしたため、松方家への「返還」はできなかったものとおもわれ、「寄贈」という形をとっているとおもわれる。Wikipedia には以下のような記述がある。
国立西洋美術館では「寄贈返還」という言葉を使い、パンフレット等にも「フランス政府から寄贈返還された松方コレクション」と紹介している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
フランス政府が「寄贈」とする理路を、交渉にあたった松本重治が知らないはずがない。松方三郎が権利放棄を文部省宛てに文書で出したというのは、フランス政府からの「寄贈」であることを明示する点で重要な話であり、松本重治が「知らない」というのはとぼけているのだとおもう。松本重治の立場は「返還」であって「寄贈」ではないというものなのだろう。コレクションについて権利放棄している以上は「返還」は通る話ではないのだが、松本重治は松方三郎のコレクションに対する法的立ち位置を低く見積るような発言をする。
「僕は知らん。」と言われたインタビュアーは、「そうですか。松方三郎さんがコレクションについて一番の権利を持っておったのかと思いました。」と聞きなおし、松本は「いや、そんなことはない。権利はなにもない。親類のうちでは一番美術に詳しい。」と返している。松方幸次郎の養子であった松方三郎に「権利はなにもない」はずはないし、権利がないのに権利放棄の文書を提出することもできないのだから、松本重治が松方三郎の動きを承認したくない、と推測するのが妥当だろう。
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高嶋政伸さん本人が「大奥」で娘に性的暴行をするシーンについて書いている。インティマシーコーディネーターという仕事をまったく知らなかったけど、キューブリックの「シャイニング」でもジャック・ニコルソンが斧で襲いかかるシーンなどは別々に撮影していたり子役には20歳になるまで映画を見せないなど、かなり徹底していたらしい。すごい。
https://www.shinchosha.co.jp/nami/tachiyomi/20240327.html
テルアビブでのデモ、参加者がイスラエルが何万人も殺害しておりそれが女性や子供であるという認識を述べていて、こういう認識はどれくらいイスラエル国内に広まっているんだろうか。
https://twitter.com/trtworld/status/1771831824269943171
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松方デフレの「松方」、松方コレクションの松方幸次郎の父の松方正義
https://fedibird.com/@kon_nakayama/112173436340690723
西洋美術館の抗議活動でいろいろ調べはじめて、松方家の歴史はまじで日本史の一部ということを最近知った。
幸次郎の甥で女壻の松本重治は松方コレクション返還運動の主導者だけど、松方三郎と戦時中に中国との和平交渉を画策し、南京傀儡政権を樹立している。松方三郎はこれまたかなりおもしろくて、松方正義の末子だけど幸次郎の養子でもあり、長男巌の跡を継いで松方家3代当主となった。共同通信の設立者の一人。
松方家、何だよこれってなっている。
三郎、けっこう興味深い人物で、マルクス主義に傾倒していたらしい。川崎重工の労働運動にも関わっております、川重が先駆的に労使交渉で8時間労働を獲得したのはどうも三郎の画策によるらしい。
松方一家で、左から右まで両翼を形成しているのが、なんかすごいというか、これは日本に特徴的なのか、他国もそういうものなんだろうか?当時マルクスを読むなんてよほどのインテリでしかないから、左翼運動がブルジョワ層の指導のもとに形成されるのは不思議ではない。
マークダウンを入力としたSSGテンプレートエンジンをつくっていて(なぜ?)、全ページビルドすればいいよねというノリでやっているのを、「更新があったものだけビルドする」という仕組みにしようとして、以下のようなことをやった。
1. ソースとなるmarkdownと、それが埋め込まれるテンプレートのハッシュ値を取っておく
2. 前回のハッシュ値と同じであればそのmarkdownはビルドしない(ビルド済みのものをそのまま使う)
これで目的にはあっているんだけど、ビルド対象となるページのURLが変更された場合に、他のページからリンクがあればそっちもビルドしなおさなければならない。「前へ」「次へ」みたいなのを実装していると、それが以前のリンクのまま残ってしまう。依存関係を全部トレースして依存があるものごっそりビルドしなおす必要がある。
markdown は変わってないしテンプレートも変わってないから変化なしと見做すのは局所的には正しいんだけど、他が変化することで全体として見たときには正しくない振る舞いになる。この手の問題よく踏んでいる気がするけど、なにか名前があったりするんだろうか。
「山谷のドヤ街と上野のホームレス問題 弓指寛治の展示に見た現代美術の繊細な政治性」東浩紀 | AERA dot. (アエラドット)
https://dot.asahi.com/articles/-/217865?page=1
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@pokarim この事象、局所的に見ればバグではないのですが、感覚として「バグった」という印象がありました。ファイルシステムにはリンク構造がなく、SSGのレンダリングシステムの目的がファイル生成にあると認識するなら、文字通りバグではないのですが、Webにはリンクがあってブラウザで見たときには「ファイル(ドキュメント)間の関係」という抽象化された構造を認知しているんだなとおもいました。SSGのレンダリングシステムの目的を「ドキュメントネットワークを生成すること」と見做すなら、バグと言えるなと。ファイルシステムとドキュメントネットワークの二重の見方をしているんだなと改めておもいました。
Tinderのプロフ写真に「FREE GAZA」って使ってたらアカウント永久凍結された
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もやもやどころじゃなかった。「“沖縄では地元大手メディアが反日左翼的な反戦平和・反米姿勢の報道をしている”と主張。」とか、それこそジャーナリズムではなくイデオロギーだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%96%B0%E5%9F%8E%E8%AA%A0
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このインタビュー、2chとtwitterを「ソーシャルメディア」の特権的なモデルだと暗に見做してしまっていて、その時点でいろいろ見誤っているなとおもう。
https://www.ben54.jp/news/983
自分が最近こういう形のソーシャルメディアもあるんだとおもったのがインスタグラムのストーリーズで、24hで投稿が消え、その投稿にたいするコミュニケーションは公開リプライではなくDMでおこなう。これはもちろん炎上しづらい仕組みとして採用しているんだろうし、オンラインコミュニケーションのとりかたが世代でだいぶ異なっていることも感じる。
記事中で「プラットフォームに一定数以上の人が集まったら、仕様に関係なく、荒れるのは仕方がないと思います。」とあるけど、まさにそれを問題として別な解を求めるアプローチを各所で試みているわけなので、「一つのプラットフォームに人が集まる」ことの内面化、それへの無批判的な享受(「荒れるのは仕方ない」)のほうが気になってしまう。
必要なのは、代替プラットフォームではなくて、代替モデルなんだけど、そこが理解されていないのは厳しい
こういう選択的なもの言いにもかなり問題を感じる。
たとえばツイッターでリベラルな人たちがマイノリティの権利について語り、差別問題についてアテンションを集めたところで、実際に問題が改善されるとは限りません。
「差別問題についてのアテンションをSNSであつめる」という事例を述べ、「ツイッターで差別言説を垂れ流しにする」は取り上げない。それは放置して問題ないのだろうか。それとも、「ネット上で人々がなにに関心を持ったりどんな意見を言ったりするかということと、現実の社会や経済で起こっている問題は、イコールではありません。」というくらいだから、ネット上での誹謗中傷は「現実」ではないのだろうか。すでにSNSでの誹謗中傷によって自殺などが起きている以上、現実を反映した見方ではないとおもうけど。
SNSがひきおこす問題の多くはポジティブフィードバックが発生することで、炎上というのはまさにそれだけど、それはマスメディア登場以降の制御機構の問題だとおもう。
制御機構というのは、民主主義社会における情報配布のシステムについて、情報の健全性がどう担保されうるかということを、法的問題もふくめて考慮すべきものだとおもうけど、そういうのは制度設計の問題で、「根本的な問題を直視して考えていくこと」によってもたらされるようなものではない。
現象学まわり素人なりにしばらく勉強してたわりに、なぜかサルトル一冊も読んでこなかったな。嘔吐すら読んでない
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古い記事だけどおもしろかった
日本を支配する町?「田布施システム」の謎を安田浩一が解き明かす https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57383
たしかに…
これは世界中で誤って使われているが、 is-a 関係という言い方で汎化関係を指すのは言語学的にヘンです。
- インスタンス/クラス関係が is-a のはずだが今となってはさらに誤解を生んでしまう
- サブクラス/スーパークラス関係は ako(a-kind-of) 関係
Wikipedia にもおもいっきり書いてあるな。
知識表現、オブジェクト指向プログラミング、オブジェクト指向設計では、is-aとは、あるクラスBはもう一つのクラスAのサブクラスである(また、AはBのスーパークラスである)という関係である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Is-a
知識表現はたぶん70年代だけど、その時期のパラダイムがめっちゃ残ってしまってるんだな
@polidog
なぜ新しいフレームワークをはじめるんですか!!?LaravelとかCakePHPとかSlimで解決できない問題があるんですか!ahiru を使うとこれらのフレームワークを使うのより何が嬉しいんですか?
https://github.com/polidog/ahiru/issues/4
最悪のエクスキューズがいくつもあるのと、人がいすぎるのに展示見やすくなくてきつい
絵は結構いいんだけどな。展示がちょっとひどすぎるし、人多くて見づらい、それを考慮した展示はしていない、独自の視点もあまりなくてお勉強という感じで、めちゃくちゃ萎えてる。
解説ひどすぎてそれも萎えてる。
抱一の絵2枚に並んで清方が抱一を描いた絵が展示されており、タイトルが「雨華庵風流」なのだけど、「雨華庵」とは抱一の号であることも書いてないし、清方が誰で、なぜ抱一を書いたかとか説明もなく、抱一そのものについての説明に終始している。絵が展示されているのに、絵そのものに注意がまったく促されない。こんなに絵を見せる気がない展示の仕方も珍しい。
絵に本が描かれているからこの遊女の教養が示されていますって、いや教養の高さを演出した絵です、でしょ
大吉原展、絵は見れてよかったやつもまあまああったけど、各所から集めてきたわりには凡庸すぎるキュレーションで、かつあちこちに目配せしているのとか不快ですらあった。遊郭は人権侵害であり許されるものではないとか、単なるエクスキューズでしかなくてキツかった。「かしく遊女いやだ申候」(遊女かしくが東京府に遊女をやめたいと申し出たが認められなかった)の件も展示あって、当初から展示する予定だったと思われるけど、取ってつけたようにしか見えない。
一方に華やかな文化があり、その華やかさの影に隠れる遊女の悲哀がある、という見せ方そのものがどうみても凡庸で、むしろそういう見せ方がどういうパースペクティブに基づいているか批判的に展示してほしかった。
吉原展、公界がどうとか芸能の世界でとか言ってたから網野史観との接続あるとおもっていたら無で、どころか展示解説に「公界」とか一言もなく、高まりすぎて予習しまくったおれの気持を返せ
吉原展のSNSでの評判を見ると、すごい情報量だ充実している云々とあるが、予習しすぎた自分にはスカスカで凡庸であった...。
歌麿のでかいやつとか、菱川師宣の初期肉筆浮世絵、英一蝶とか見れたのはめちゃくちゃよかった。
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公界とか芸能民の話、中世史というか安土桃山時代との接続考えると、かぶき者みたいなのがどう変質して吉原や芝居町に囲い込まれた(押し込まれた)かという調査が必要で、初期吉原の文化の研究とか必要だと思うけど、歴史観そのものがあからさまに途切れている
要するに後世の(天明寛政期の)浮世絵を基準に歴史観が構築されていることが問題で、遡って菱川師宣が祖としてあるまでしかいかない。で、そのおかげもあってやまと絵との関係も捨象されることになり、吉原そのものが都市から孤立した空間とみなされたように、浮世絵は日本文化の流れの中で孤立した特殊な文化現象として把握されてしまう。