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「新しい資本主義」がロクでもないことはほぼ確信したけど、山田太郎の動画なんかを見てしまった。 「民間の給料があがるかどうか」がキモなのは間違いなく、しかしまだほとんど議論もされておらず不透明である。「岸田さんがいろいろやっているけど、これに失敗したら(=給料あがらなかったら)この先があるのかな」と山田太郎が言ってしまう始末。 国会内でも議員間でも「新しい資本主義」というものがなにかわかっておらず、今から議論するらしい。 https://www.youtube.com/live/YR8sELtSQe8?feature=shared
岸田さんは、何十年と政治家をやっているとおもうのだが、総理になってすでに2年、いまから「新しい資本主義」の中身を考えるらしく、まあなんかすごい。この人ずっと検討すんのかな。
「新しい資本主義」というものの中身がころころ変わって無茶苦茶なのも、そりゃそうだ。中身がないのだから、あとから擦り寄ってくる連中の話がそのまま入って、分裂的なパッケージになる。グランドデザインなどまったくない。最初に「分配なくして成長なし」を「成長なくして分配なし」に言い変えたときからなにも進んでなかった。アベノミクスのほうが分かりやすかったよ。
キャリア途上の人間をリ・スキリングして余剰労働力が労働力不足の業界とマッチさせるって、どんな手品を使ったらそんなことできるんだ。
いやていうか全体の給料上昇しないのも労組の弱体化に問題があるのであって、「生産性が低い」から給料が上がらないわけじゃない。どこもIT業界みたいに利益率高い商売やっているわけでもあるまいに。
この「基礎資料」は酷かったけど、販売価格/コストの比(マークアップ率)をほぼ「生産性」と同一視し、「生産性の高い労働者」と「生産性の低い労働者」の区別をする議論が、まじでバブル崩壊後のアレを思いださせる。「生産性の低い労働者」を、キャリアチェンジして別業界に行かせて、給料があがる理由がどこにもない。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai24/gijisidai.html
新しい資本主義のリスキリングに関連する箇所、リスキリングで別産業に移動といってるのがヤバいんだな。なんで同一社内でリスキリングじゃないのか。自社内で別スキルを獲得して生産性向上に貢献するので何の問題もない。別産業移行などして高い給料で雇う会社がいるはずない。
いろんな思惑が悪魔合体していて異常パッケージになりつつあり、日本の労働環境は本当に終わるのではないかと思わせるものがある。
2021年のこの資料(経産省)も基本的に転職や業種変更というものを考えていない。社内人材にIT技術を獲得させていろいろ業務改善させようという話で、それは普通に必要。この文脈で「DXやAIによってホワイトカラーの労働需要が減るからブルーカラーに移行する必要がある」なんて異常論理がでてくるはずがない。
https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/digital_jinzai/pdf/002_02_02.pdf
個別の要素としてはそれなりに筋が通っているのに、全体をパッケージ化したときに異常なキメラが誕生する、それが新しい資本主義。これ実施していったらたぶんすごいことになる予感しかない。
全体のビジョンを語る人がいないとこうなるんだな...。アーキテクトってだいじだね。
官僚の資料読んでたら「大宗」という語がでてきたけど知らないよこれ。「概ね」の誤字では?みたいなあれ。
https://salon.mainichi-kotoba.jp/archives/2423
心理学系統の「メンタルモデル」と認知科学の「メンタルモデル」はおなじ内容を指すのかな。
後者は、「AさんはBさんより背が高い」「BさんはCさんより背が高い」という二つの文が与えられたとき、人間は「A>B, B>C, 故にA>C」みたいな論理式操作をぜんぜんやっていなくて、頭にまずAさんとBさんを並べ、それからCさんを並べる。文から論理を取り出すのではなくイメージに変換して判断している、みたいな話だった気がする。
認知科学方面でこういう話しだしたのは、言語を理解するAIをつくるときに言語を論理と結びつけても上手くいかなかったからで、ニューラルネットワークが主流になるまえのAI研究のころの話(1970〜80年代だっけ?)
このAさん、Bさん、Cさんを並べるという脳内操作、コンピュータの操作でも、あるファイルが特定のディレクトリに排他的に存在している、というイメージは、モノのありかたから借りてきているとおもう。モノは空間上に排他的に存在している、同じようにファイルもディレクトリ空間のなかで排他的に存在している。
世界の写像として脳内空間があって、その脳内空間内を行動するイメージが人間にはあると言われれば、そうかもしれないと最近はおもう。いやその行動に必要な脳内空間が、世界の「写像」であるかどうかはデカルト的にはわからないのだけど(世界が直接的に知覚に現れることはないのだから、今見ているものと世界が「似ている」かどうか判断しようもない)。
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たぶん、物理的なモデルを考えるほうがUIをつくるときに重要なんだとおもう。「メンタルモデル」という言葉がよくない。モノ同士の制約関係はかならずしも論理と関係がない。むしろ空間的・物質的な制約関係で、それをソフトウェアにいかに反映するかがUIの問題ではないか。
人間が刺激に対して反応するだけの機械だとしたら、視聴覚装置から脳に電気信号が到達するまでの時間があるから、反応は常に現実に遅れるとおもうけど、たぶんそれは予測可能空間内で調整されている(だから世界に対し適切な応答ができる)。道を歩くときにもこの脳内空間内での自分の身体の位置を定位しているはずだし。これがメンタルモデルなんじゃないだろうか。
UIの問題でいえば、自分の身体の空間内定位の問題がすっぽり抜けおちているから、世界内事物をこのように操作したらこうなる、という話になりがちで、どうしてそのようなイメージ上の制約が可能になるかが不明
でもまあ、コンピュータ操作者が、コンピュータが提供する世界に世界内存在として自己を定位するって、マウス操作やキーボード操作などの入力デバイスとディスプレイやらなんやらの表示によって世界がどのように変化するかによって、自己の仮想的身体が定位されるとは思われるが、このときコンピュータ空間上に定位される「仮想的身体」はもはや現実の身体とまったく似ていないだろう。ポインターってなんだ。
コンピュータ操作においては、コンピュータ世界内存在と、いわゆる現実空間内の自己身体とで、身体イメージが二重化しているとかは考えられそうな気がする。
現実に歩くときにはこのような二重性は発生していない、身体が一つであることは自明に受け入れている。そりゃインターフェースが間接的だからだ、というのは当然ありうる議論だけど、それを言うと未来のインターフェースはより直接的なインターフェース(身体の直接的延長)だって話に落ちがちで、本当にそうか?という疑問はある。
むしろいままでの人類の道具群は、コンピュータのような間接的インターフェースとして構築されてこなかったのか?人間は仮想身体の二重化をうまく利用する術をもっているのではないか?など適当なことを考えた(離脱)。
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ああ、自己身体を定位するというよりむしろ自己身体を超脱してしまう、ということがありうるのか。かつてのバロック期の天井画がそう目指していたような世界とも通じるような気がする。
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ちょっと思ったけど、ディスプレイ的経験を記述するのはやっぱり通常の身体動作とのアナロジーでは無理だな。やっぱり、没入みたいな現象があるのもインターフェースの間接性に起因している。コンピュータ上の空間に自己定位するとき、自己身体が現実空間内でもつリアリティと別のリアリティ(操作とルールセットからなる世界)を受け入れる過程がかならずあるはずだ、とおもえる。このリアリティの切り替えが没入の前提としてある。
よし!こんなインターネット抜け出して、二人で海を見に行くぞ!
@tomoki
↓この内務省報告はわりと信頼できる内容ですが、企業にとって自社社員をリ・スキリングすると転職されてしまうリスクがあり及び腰になりがち、という背景が現状であり(つまり社内での技術教育が不足している)、それで政府支援になっているのだとおもいます。これ自体はよくわかる話で、社会全体の労働生産性向上にむけては、社会人になってからの職務技能向上が必要なのはそうだとおもいます(とくに仕事に直接必要ないとおもわれる技能、ブルーカラー労働者が政府支援でプログラミング技術を学ぶなどは有用なものだとおもいます)。
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je23/h03-01.html
なので個人的には政府支援までは反対ではないのですが(これも政府が企業に対して支援のための補助金を出すほうがいいのでは?とおもいますが)、これが「別産業への転職を促す」などの話になると、労働者もそんなモチベーションが沸くはずもなくありえないなとおもっているのですが、現状の「新しい資本主義」会議ではそんなこと話しているようで恐怖しています。
「出産数が足りないから同窓会支援する」、みたいな異常思考と似ていると思いました。
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友人がロボットアニメの系譜について、鉄人28号はリモコン操作で機体が独立、ガンダムとかでは機体のなかに入るがまだ間接的インターフェースを通じて操作する(自動車に近い)、エヴァになると機体のなかで神経接続する、みたいな発展の系譜を言ってたのちょっとおもしろかったな。エヴァの神経接続はテレビへの没入のメタファーである(つまりオタク経験のメタファー)という主張であった。
オタクにとってのディスプレイは目の前にあり没入によって忘れられるものだったが、アニメの設定じたいがそのディスプレイを入れ子状に取り込むことになる。作中人物とディスプレイの関係を、自身とディスプレイの関係のアナロジーとして了解するという仕掛けがある、という分析はけっこうおもしろい。
what you see と what you get が is で結ばれるような経験を提供するインターフェースを持ったものがwysiwygで、だから what you see と what you get が分かれているのが一般的だった、じゃあ what you see って何と言えばディスプレイなんだけど what you get は印刷物のことであって、いまだにこの概念が残ってるのは何
タイプライターや手書きでは what you see と what you get が分離していないのは自明
reveal.js マークダウン管理できるのがよくて前使ってたけど、結局GUIでスライド作るようになってしまったんだよな。
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markdown は非WYSIWYG的なUIに刺さる気がする
実際マークダウンエディタが通常のテキストエディタでプレビューが並列されているのが多いけど、これも WYS と WYG が別
「ユーザーインターフェース」が必要になってしまうのも、この彼我の世界の区別があるからだよな。この区別はまた WYSIWYG の what you see と what you get の区別でもあり、理想的なユーザーインターフェースは WYSIWYG の "is"、つまり what you see と what you get の同一視を許すものとして成立してきた(ダイレクトマニピュレーション)。
この例で言えば、エヴァは「神経接続」という謎テクノロジーによってUIを撤去しているように見えるけど、第2話の使途による初号機攻撃シーンはディスプレイを破壊する攻撃として表現され、このディスプレイ破壊が目の痛みと直結する表現になっている。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AfOnp8IddCqkFxmilU
これマリカーやるときに体が傾く、みたいな話とどう繋っているんだろうとおもいながらよくわからないのでこのまま放置しておこう。
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江戸時代に役者か差別待遇だったというのが、どうしても直感的にわからないなぁ...
江戸時代初期においては穢多頭の管理下だったようだから、やっぱり賎民視されてたということなのかな
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高木まどか著『近世の遊郭と客』読了。
著者は、「吉原は近世身分制度から独立な公平性がある世界だ」という言説が歴史的に形成されてきたことに対して、遊郭で客として排除されてきた役者、穢多、非人について論じている。「身分制度から独立な公平性」があると言われる遊郭において「排除」されてきた客は遊郭外の身分制度において差別されてきた存在であり、ここに光を当てることで遊郭における「公平」が一部身分の人間にとって都合の良い公平に過ぎないことが明らかになる。著者がそこまで言っているわけではないけど、要するにブルジョワジーである。
著者の資料読解がめちゃくちゃ詳細ですごいけど、資料の性格がそもそもブルジョワ男性=客にとって都合のよい理屈が散りばめられていることが明らかになるのは、かなり読み応えがあった。
一方で、読み終わってよくわからんなあとなったのは浮世絵の存在で、これについては著者は全く触れていないので別な人がやるべき仕事だろうけど、浮世絵を育てたのは遊郭と芝居で、役者絵とか差別されていたのかどうかもよくわからない。
いや、まあ著者は、役者が遊女を買うことへの悪評は遊女評判記作者たちの嫉妬だとしているからそれで説明が済むのかもしれないけど。
しかし、「遊女評判記」のような下世話レビュー媒体と浮世絵は、楼主からすれば同じく広告機能を持つメディアではないかと思われ、一方の媒体(遊女評判記)では役者を蔑み、他方(浮世絵)では役者を称賛するという媒体環境になっている。そのへんが直感的に納得いかないところがあるけど、それはメディアの受け手が違うで済む話かもしれない。メディアの資金源と受け手が誰だったのかを知りたい。
ともあれ、この本を読んでとても良かったのは、近世社会がはっきりブルジョワ社会でブルジョワ文化であると理解できたことだ。浮世絵も、庶民文化というよりこのブルジョワ的性格を前提として理解しなければならない。浮世絵研究の領域ではまだこのブルジョワ的性格の読解は進んでいない気がする。今度の大吉原展とかが試金石となるだろうけど、たぶんそこは期待薄。
遊女評判記などの資料から、客の視点のブルジョワ的性格をこれだけ浮き彫りにできるのだから、浮世絵研究でもこれはできるはずだと思う。やる人がいるのかどうかわからないけど、古田亮氏はそういうのやりそうにないんだよなぁ。
中学一年生、めちゃくちゃすごい
はく製は絶滅したニホンオオカミか 気づいたのは都内の中学生 | NHK | サイエンス
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240227/k10014372671000.html
文化人類学生が、デザインリサーチやってみる~#0 どうしてやろうと思ったの?~|ぷらすけ @PURAsuke_008 #note https://note.com/hatake_kitchen/n/nd2be57e0b077
元国立国会図書館司書の小林昌樹さんのお話から
レファレンスサービスのおはなし、おもしろい
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国会図書館のデジタルコレクションの登場はほんとうにかなり画期的というか、埋もれた歴史をまあまあ掘り返せる、すくなくともヒントを獲得できるまでいける
クリッペンドルフってふつうに社会学者なんだよな。デザイン関連で知ったけど。
こういう話まででてきて、ジェンダーの話はでてこないのがやっぱりちょっと気になるかな〜
情報の声を聞くという話、どれだけ業界慣習がかかわるかみたいな話がけっこう気になるな
業界慣習によって成立する語彙群も、主観の束みたいなものに還元されるわけでもなく、一種のプロトコルみたいなものになっていたりする
情報の客体化ってアーキテクチャの固定化を促すとおもうんだよな。ある種の客観的な正しさがあるのはわかるけど、その固定性がもたらすような問題がある。