ある情報を瞬間的に「けがらわしい」と思ってしまうことあるけど、これなんだろうな
ある情報を瞬間的に「けがらわしい」と思ってしまうことあるけど、これなんだろうな
杉本啓さんの本をパラパラ読んでいるけど、これすごそうだな。技術書の空気ではない感じがある。
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そういわれて記事を読んでみて、一貫して「オルタナティブ」とカタカナで表記されているのがめちゃくちゃ和製英語っぽくて「へぇ」ってなった。
たしかに記事中にアメリカ、イギリス、ヨーロッパなどの地域を表す文字がなく、「オルタナ」の本質が「精神性」とされることで、「日本で流行った4つ打ちロック」(唯一書かれた地域)もオルタナに分類される、というレトリックになっていてまたへぇ〜ってなった。
ハイデガーが、ラテン語という共通言語的なものの登場でギリシャ的な意味が捨象されているみたいなのを思いだした。ハイデガーの場合は、ラテン語みたいな超民族的な言語に対する批判をいろいろやっているけど、この記事の場合は英語圏的世界観が日本語で書かれていることに特長があるような感じはする。英語圏文化の影響が強い現在の日本語圏で和製英語的な語がどう機能するか、気になる文章だった。
alternative rock って日本語文中に英語で書くと、たぶん「本場の」みたいなコノテーションがつきますよね。語の出典を詮索してみたり。これがカタカナで表記すれば差異を捨象することになる、みたいな特性がある。日本語文中にカタカナで通じそうな英語をわざわざ導入すれば、差異を強調する効果があり、逆に日本語話者に日本語で書くとこの差異が捨象され、それゆえ「精神性」という抽象をつうじて日本の4つ打ちロックも「オルタナティブロック」に回収される。ここで機能しているレトリックはなんかおもしろいな。
記事に対する感想、「まるで生成AIに書かせたかのような無茶苦茶な代物だった」がおもしろいな。
こういうお粥みたいなレトリックによって消化するみたいなのいろんなジャンルでありそう。
なんていっていいんだこれ...
https://www.pixiv.net/artworks/32945540
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正気とはおもえないな…。「デフレ脱却の表明」がただの政治的カードでしかないのがすごい。「デフレ脱却の恩恵」ってなんだ、給料があがって購買意欲が増加して物価があがる(デフレ脱却)というのがもともと想定しているストーリーなのに、デフレからは脱却したが恩恵はこれからだとか意味がわからなすぎる。
政府が物価の上昇傾向を受け「デフレ脱却」を表明する検討に入った
デフレ脱却の恩恵を幅広い世代や所得層に行き渡らせる政策が問われそうだ
てかデフレ脱却のイメージがおかしすぎるだろ笑
物価上昇したら企業収益が自動的に改善するとでもおもってんのか
物価はここ十年くらいは国民の購買力がどれだけ上がったかを測る指標として追いかけられてきたはずだが、この記事で岸田首相がばらまいているらしい図では、物価上昇を原因として企業収益が改善し、その後賃金に反映されるとかいうまったく機序のわからないものになっている。この図じたいが、購買力変わってないのに物価高が訪れていることを示していて、どうやっても理屈に合わないよこんなもの。KPIを達成しようとする企業みたいだ。
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@hhvm これはクリーンアーキテクチャですね。クリーンアーキテクチャもどうでもいいものですが...。
ひさしぶりに「クリーンアーキテクチャ」でも検索したらまだ人気あるのにびっくりした。
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物理的なオブジェクトに似ていると扱いやすいという話、モノとモノの関係に単純な制約が発見できればあとはそれをどう利用するか、という問題じゃないかなとおもう。制約群のなかで行動可能性がぱっとわかればいい、逆に行動可能性がぱっとわからないようなモノ同士の制約群を提供しているシステムはわかりづらい。
外野手がボールを追いかける話も、このモノ同士の制約関係から導かれる行動可能性を判断しているだけのようにおもえる
脳内には抽象化された形でモノ同士の空間配置があるという感じがする。「部屋にはいって椅子に座る」という行動があるとき、部屋と椅子は抽象的なオブジェクトとして整理されて脳内イメージ(この言葉はたぶん適切ではない)としてあり、「座る」という行動のための地となっているようにおもう。
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> オブジェクトが重ねて置けるかどうか、意味なく離れたところに置けるかどうか
けっこうそういうイメージで書きました。付箋的なUIでは、ボードと付箋の関係は、「ボードに付箋を貼ることができる」「ボードから付箋を剥がすことができる」「付箋の位置を変えることができる」「付箋は重ねることができる」などがありますが、リスト型UIの行データを操作をする場合、行における位置は排他的で重ねることができない。
リストUIで行として表現されるようなオブジェクトがあり、それがドラッグできるとし、付箋もおなじようにドラッグできるとしても、両者で移動可能な範囲のイメージがぜんぜん違っている。
モノってなにかしら空間上での排他性をもつとされるけど、付箋UIとリストUIの違いはたぶんリストUIでは一次元の操作が可能だけど付箋UIでは三次元の移動が可能になっていることになるのか。
https://gihyo.jp/magazine/SD/archive/2024/202403
メイン記事はどうでもいいけど、「たとえば「ドラ娘システム」をアプデしてみよう~テックコミュニティとジェンダー~」という題のエッセイ(?)気になるな...。
やっぱりこの記事を読むといちいち話が逆転している感じがするな。
https://u-site.jp/lecture/mental-model-social-acceptability
記事中のやかんの話とか顕著だけど、「システムイメージはユーザサイドで自発的に生成され、メンタルモデルの構築に関わってきたものと考えられる」みたいなのも、そもそも現代的なブラックボックス化しているシステムじゃないんだから、「システムのメンタルモデル」なんてあきらかに不要なのに、それが存在するとしたがる。
おかしな理屈なんだけど、この手の現代のシステム的な語彙がそうでないものに適用される現象はつねに誤った普遍化をともなって、本来の語の適用範囲を不必要に拡大している。
やかんなど、システムイメージのような間接的なものがあって利用法を理解しているのではなく、もっと直接的にイメージのなかに配置されたオブジェクト空間のなかで行動していると言えばいい。そしておそらくこのイメージ上のオブジェクトこそがメンタルモデルと呼ばれるべきだ。
家内制手工業から工場制手工業の展開、けっこう重要だな。資本が直接管理ではなくなり、雇用関係に変化するということか。それまでは「家」での生産だから雇用関係にないということにもなる。
分業じたいは家内制手工業にもあるけど、ビジネス過程が大きくなってくると工場制手工業になって、分業はより機械的な側面が強くなる。生産の「管理」もここで発生するんじゃないかという気がしている。
浮世絵の生産なんかを考えると、版木というモノのなかに「見当」とかのマークがあったり、版下を転写して彫るとかの一種の機械的な過程はあり、直接的にモノのなかに情報が埋め込まれている。
これが、工場制手工業となると資本家の目に見えるように帳簿組織(モノから切り離され外部化された情報構造)が発達するのではないか、というのは思い付きだけど、調べてみたい。
この記事のノーマンの図、デザイナーの概念モデルとシステムイメージとユーザーの概念モデルの三つがあるとしている。デザイナーの概念モデルというのはようするに設計図のなかで使われるような情報になるけど、これが表現されたシステムイメージを通じてユーザーがシステムを概念的に理解する、というのはシステムをブラックボックスのなかに閉じているからメカニズムについての想像が必要となるという話でしかない。システムが全部開示されていれば、「システムイメージ」を通じてシステムを理解しなければならないような間接性からは解放される。自転車はそうだ。
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@NaokiTsuchiya
うーん、というより、ノーマンが述べている「システムイメージ」というものは、デザインされた機械の内部がブラックボックス化していて、内部動作の仕組みがわからないから、その動作機序を説明するためのものとして「システムイメージ」がある。「デザイナーの持つ概念モデル」をユーザーに説明したものが「システムイメージ」になる。
ただ、こういったものが必要なのは、あくまでブラックボックス性を抱える機械についてのことで、UIというものが必要になるのもおなじ理由ですが、こういったブラックボックスシステムでは「このレバーを下げると、内部状態がこのようになり、あれこれこうして状態Bに遷移します」という「内部状態」の説明をする必要がある。
ヤカンなんかは、こういったブラックボックス性がいっさいないわけだから、「システムイメージ」をユーザーがもつわけではない、とおもうのです。ノーマンのいう「システムイメージ」は、ブラックボックスシステムの内部についてユーザーが想像するもの、なわけだから、「ブラックボックスではない道具」についての「システムイメージ」などないとおもいます。
ヤカンは取っ手のついた単純な容器で、その中に水を入れて火にかける、この一連の処理に一切ブラックボックスはなく、状態は開示されている。これが、レンジとかになると話が変わってくるのです。「隱れた状態」(モード)をもった機械の最たるものがコンピュータでもあります。
@NaokiTsuchiya はい、やかんの説明にシステムイメージもメンタルモデルも不要だとおもいます。
やかんは、たんに「取っ手のついて容器状のモノ」であるわけで、古くは縄文土器のような形態のモノがあり、それに取っ手がついていると便利だろう、というモノであるわけですよ。あとは、取っ手を握って水に満たされた容器がどれくらい重さに耐性があるかや、火力への耐性などで、形態および素材を決定できる。つまりここにあるのはモノ同士の関係性で、モノと独立した「メンタルモデル」というものを説明上必要としているわけではないとおもっています。
やっぱりこの記事を読むといちいち話が逆転している感じがするな。
https://u-site.jp/lecture/mental-model-social-acceptability
記事中のやかんの話とか顕著だけど、「システムイメージはユーザサイドで自発的に生成され、メンタルモデルの構築に関わってきたものと考えられる」みたいなのも、そもそも現代的なブラックボックス化しているシステムじゃないんだから、「システムのメンタルモデル」なんてあきらかに不要なのに、それが存在するとしたがる。
おかしな理屈なんだけど、この手の現代のシステム的な語彙がそうでないものに適用される現象はつねに誤った普遍化をともなって、本来の語の適用範囲を不必要に拡大している。
@NaokiTsuchiya
うーん、というより、ノーマンが述べている「システムイメージ」というものは、デザインされた機械の内部がブラックボックス化していて、内部動作の仕組みがわからないから、その動作機序を説明するためのものとして「システムイメージ」がある。「デザイナーの持つ概念モデル」をユーザーに説明したものが「システムイメージ」になる。
ただ、こういったものが必要なのは、あくまでブラックボックス性を抱える機械についてのことで、UIというものが必要になるのもおなじ理由ですが、こういったブラックボックスシステムでは「このレバーを下げると、内部状態がこのようになり、あれこれこうして状態Bに遷移します」という「内部状態」の説明をする必要がある。
ヤカンなんかは、こういったブラックボックス性がいっさいないわけだから、「システムイメージ」をユーザーがもつわけではない、とおもうのです。ノーマンのいう「システムイメージ」は、ブラックボックスシステムの内部についてユーザーが想像するもの、なわけだから、「ブラックボックスではない道具」についての「システムイメージ」などないとおもいます。
ヤカンは取っ手のついた単純な容器で、その中に水を入れて火にかける、この一連の処理に一切ブラックボックスはなく、状態は開示されている。これが、レンジとかになると話が変わってくるのです。「隱れた状態」(モード)をもった機械の最たるものがコンピュータでもあります。
@NaokiTsuchiya はい、やかんの説明にシステムイメージもメンタルモデルも不要だとおもいます。
やかんは、たんに「取っ手のついて容器状のモノ」であるわけで、古くは縄文土器のような形態のモノがあり、それに取っ手がついていると便利だろう、というモノであるわけですよ。あとは、取っ手を握って水に満たされた容器がどれくらい重さに耐性があるかや、火力への耐性などで、形態および素材を決定できる。つまりここにあるのはモノ同士の関係性で、モノと独立した「メンタルモデル」というものを説明上必要としているわけではないとおもっています。
「やかん」ってちょうどアレグザンダーが「形の合成に関するノート」で例に出していたはずで、デザイン以前のデザインなんだよな。近代の分業体制のなかで確立した、製造ラインに設計図を描くという意味での「デザイン」ではなく、モノどうしの関係性で自己組織的にでてくるモノである、という。
「自己組織的」というのは「形の合成に関するノート」時点でのアレグザンダーの意見ではないけど、アレグザンダーはこの論考のすぐあとくらいから、「デザイン以前のデザイン」に着目することになるはず。
この「デザイン以前のデザイン」についてアレグザンダーは「デザインの無意識」だと把握している。この「デザインの無意識」というのが、ほとんど物質的関係によって成立するようなモノのデザインみたいなもので、実際にアレグザンダーの説明に、ある金属製の板を水平なものにするには、もうひとつ水平な金属板とすりあわせることによってである、というような説明の仕方をする。
ノーマンの考えるような「デザイナーの概念モデル」とか「システムイメージ」とか「メンタルモデル」というのは、こういうような無意識的・物質的性格はない。むしろ、「意識的におこなわれたデザイン」のプロセスについてのモデル化で、アレグザンダー的にはそれはデザインの最終段階にあたる。
システムイメージとメンタルモデル、みたいなノーマンの利用者の利用のモデル化も、利用者をかなり意識的で理解してモノを使う存在だと見做しているけど、たぶんそんなことはぜんぜんなくて、モノの利用はつねに暗黙知による、といわれたほうがスッキリする。キーボードの入力なんてどういう機序で画面に文字を打っているかなんて考えていない。
@pokarim 受けとりようではありますが、機械工業が発達すればするほど、ある機械に占めるブラックボックスの比率は上がるとおもいます。
@pokarim 「暗黙知」ということになるとおもうのですが、きっとそれだと解凍になっていないということですよね。しかし、身体は典型的なブラックボックスですが、身体についてのシステムイメージがなくても歩くことができ、この領域をマイケル・ポランニーは「暗黙知」と呼んでいます。
元記事はノーマンが使う用法での「メンタルモデル」となっているから変だとおもいますが、他方でおそらく心理学方面、例えばピアジェなどの「内的モデル」とか「操作モデル」をメンタルモデルと同一視するなら、暗黙知を支配するのはメンタルモデルだ、というややこしい見解は可能になります(ややこしいのは誰の定義による「メンタルモデル」かという語彙の用法の混乱に起因していますが...)。
そもそもピアジェはメンタルモデルなんて言葉使ってたっけ...。操作(operation)をモデル化する、とかはあったはずだけど。
@pokarim どうなのでしょう、というのはわかりませんが、複雑すぎる相互作用システムについて考えると(北京で蝶が飛べばニューヨークで雨が降るような)、関係する因子が多すぎて、ピアジェが言うような意味での「操作 operation」のモデル化はできないだろうなとはおもいます。
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メンタルモデル(艦を女性に擬人化したナノマテリアルによる構成物)
惑星ソラリス…??
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投資投資って、企業が資金を設備投資なり新規事業なりに投資するならいいんですけどね。いま企業の資金需要に供給が足りないわけじゃないですよね。
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あとで読も
飯田豊「マクルーハン、環境芸術、大阪万博 ─60年代日本の美術評論におけるマクルーハン受容」『立命館産業社会論集』第48巻第4号(2013年)
https://x.com/yutakaiida/status/1764633578082828777?s=20
杉本さんの『データモデリングでドメインを駆動する』、昔業務システムっぽいことをちょっとやってた時期に読みたかったな。いま読んでもおもしろいけど。
板橋区美あいかわらずしぶい展示してていいな。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/surrealism-and-japan-report-202403
なにかしらの事情で関東大震災に言及するときに、そこに人種差別による虐殺があったと語らないことは、意図しないことであっても心がとがめることがある。
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日経平均が史上最高値、BTCが1000万円とあわせて国際的な投機資金がどう動いているかというだけで、景気とまったく関係がないのとても悲しい
円がすごく弱いから購買力減っているとおもうんだけど、岸田総理は
と考えているらしい。 https://nordot.app/1136629821038527170
3の賃金上昇は「デフレ脱却の恩恵を幅広い世代や所得層に行き渡らせる政策が問われそうだ」なので、政策次第という留保をつけている。この順序で考えたら、物価上昇と賃金上昇の時間差に、実質賃金の低下期間があるわけだけど、「岸田政権を支持してくれたら3の恩恵を渡すよ!」という話で、どういう馬鹿に吹き込まれたのか。
この図で、企業収益改善するには、賃金上昇が抑制されつつ物価上昇が達成されなければならないという理屈なのだから、物価はあがるが賃金は上がらない期間があり、おそらく永遠に物価上昇に賃金上昇が追いつくことはない。なぜなら賃金上昇は企業収益を悪化させるのだから。
岸田総理は、3 の賃金上昇は「政策パッケージによる」という政府の恣意性による、というメッセージを植えつけたいというかなり悪質な情報発信をしている。
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これな、存在忘れてたけど、たぶん中学生か高校生か、そのくらいで読んで、わかったようなわからなかったような…だったんだけど、結局お腹の底に沈んでいって、オシャレなプロダクツに対してチャラい反応をしそうな自分の重しになってる感じの本。宮下公園オシャレになってよかったじゃん、という大人にはなれなかったわけだね。
「生成AI」と「絵描きは特権階級」ってワードが流れてきて、もっと「生成AIによる雇用喪失はブルジョワの陰謀!万国の労働者よ団結せよ!」みたいな話だとおもってた
これが落とし物扱いにならないの、どういう法解釈なんだろう。
ウーバーイーツ 6日から都内一部地域で自律走行ロボット導入へ | NHK | 東京都
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240305/k10014379891000.html
なるほど
機械が自律的なエージェントであるかどうかが、落とし物かどうかの判別規準にはなりそうだけど、どうやってその機械が自律的エージェントであるか判断できるのかは不明だ
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飯山某が日本保守党から〜みたいな話で知ったけど、例の脳科学者が日本保守党を応援しているとかなんとか
まあ驚かないけど
2022年の報告だけど、内閣府のこの経済レポートはよくできている
https://www5.cao.go.jp/keizai3/2022/0203nk/n22_2_2.html
「新しい資本主義」会合で、ホワイトカラーの労働需要が減る可能性なんてあったけど、まあそんなものはやはり書いていない。上記レポートではまだ結論を急ぐべきではないとしつつ、現下に見えているとおり、セルフレジの導入や飲食店の業務フローの変化など、労働の機械化がすすんでいる業務があり、こういうところでは労働需要が減ると同時に収益が改善する。労働のミスマッチは存在するが、それもホワイトカラーのブルーカラー化などではなく、非正規からリスキリングを経て業務を変化させていく、ということが考えられている。
投稿者も引用であることを明示していないのが良くないのだけど、これは田中優子の記事の引用で、ほとんどの人が引用元を全文読んでいない。コミュニティノートも「島薗氏の...という意見は」となっている。twitterという感じだった。
https://twitter.com/Shimazono/status/1764837353368199628
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これは誰が読むんだ?とおもいつつ、しばらく調べていた明治・大正期の「浮世絵」についての記事を書きました(もはやブログではない)。
創作版画の理念の発達によって「浮世絵」という概念が再解釈され、その歴史観が構築されることによって、明治期に浮世絵の系譜を継承した絵師たちの理解が進まなくなっている、というような記事です(誰が読むんだ?)。
https://blog.tenjuu.net/2024/03/ukiyoe
これ本当はちゃんと論文にすべきなんだろうけど、周囲にそういう学術的な環境がないとどうしてよいかもわからず、とりあえず記事にしてしまった。
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「踊るポンポコリン」を聞いて、そういえば「ちんどん屋」という言葉を知ったのはたぶんちびまる子ちゃんからだなとおもった。というかちびまる子ちゃん以外からちんどん屋的なイメージを得ていない気がする。「踊るポンポコリン」もちんどん屋っぽい感じがあるけど、「踊るポンポコリン」がちんどん屋っぽいのか、自分がちんどん屋という語を学習するときに「踊るポンポコリン」がすりこまれたのかわからない。
小学生のころ、クラス内で見ている番組の人気投票があって、ちびまる子ちゃんが1位だったことに、男子がなんでドラゴンボールじゃないんだって憤っていたのをよく覚えている。たぶんそのころ放映していたのはフリーザ編だったとおもう。
ああ〜これは便利だ〜
https://artplatform.go.jp/artists
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鳥山明が世界中から追悼されていて、ほんとうに愛されていたんだなとおもったけど、この記事で、ああそうかと思う。
https://butaco3.hatenablog.com/entry/2021/08/21/190111
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うーん、芸を身につけているかいないかにかかわらず、当時の遊女がどのような主体性をもってどう生きたのか?という点がちょっと物足りない気がする。
「構造的に遊女にさせられた」っていうのはそれはそうなんだけど、であるから当時の遊女たちには主体性がいっさいなかった、とは言えないというか。「当時の彼女たちの自主的は判断で遊女になったのだ」とか言いたいわけではまったくなく、「主体性が奪われた」存在として表象しつづけるのがいいのか?ということに疑問がある。
https://note.com/yuukaku/n/n59ea8cd1e0b7
江戸期の遊女が「主体性を奪われた」存在だったのは間違いないんだけど(「商品」だったわけだから)、だからといっても、誇りを持って生きていた人もいるだろうし、抵抗した人もいるだろう(遊女から妓楼への訴訟がある)。こういうのは(訴訟も含めて)「文化」なんだとおもうんだけど、問題なのは、「吉原の文化」というときにブルジョワ男性の視点からの記述が中心になっていることではないか、と思っている。
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技術的・構造的な差というより、マクルーハンの語るメディア論みたいなもので、本→ブログ→SNSとテキストメディアが移行する際に、その移行の差分は「無意識的に」受容される。そのメディア変遷において無意識が受けとる差分こそ、「メディアはメッセージである」とマクルーハンが言うところ、ではないかとおもう。
ただ、マクルーハンがこういうとき、前提となるのは「ある一時代に支配的なメディアが存在する」「技術は時間的に進歩(もしくは変遷)する」ということで、いわゆる技術進歩史観を前提とすることになってしまう。複数の技術・メディアが併存する状態でもいいやんって最近考えている。
新宿に歩いて行ける街って、長年住んでた家賃の安い風呂なしアパートでしたよ。お風呂屋さんには、独居の貧乏なおばあさんがいっぱい。そういうトーキョーのエアポケットは、もはや大手の不動産屋の開発で駆逐されつつある。