今日見たなかでは、英一蝶の絵がすごいよかったな。江戸初期(元禄ころ)の絵師で、自身も吉原の幇間だけど、すごく素朴なリアリティをもとに風俗画を描いている感じ。菱川師宣もおなじような素朴さがありよかった。
天明・寛政期の歌麿とか以降が、いかに華美で過度に装飾的な表現をしているか思いしらされるのだけど、この歌麿あたりを頂点とした美術史を構築したのが藤懸静也で、展示のパースペクティブはこの藤懸史観から一歩もでていない。
今日見たなかでは、英一蝶の絵がすごいよかったな。江戸初期(元禄ころ)の絵師で、自身も吉原の幇間だけど、すごく素朴なリアリティをもとに風俗画を描いている感じ。菱川師宣もおなじような素朴さがありよかった。
天明・寛政期の歌麿とか以降が、いかに華美で過度に装飾的な表現をしているか思いしらされるのだけど、この歌麿あたりを頂点とした美術史を構築したのが藤懸静也で、展示のパースペクティブはこの藤懸史観から一歩もでていない。
元禄期の絵と、天明・寛政期の絵で、華美さの度合いがめちゃくちゃ違っていて、元禄期の絵は歌麿らと比べると質素とすら言える。元禄期は肉筆中心で、天明・寛政期には版画のほうが中心となっている。メディアの発達と切り離せないし、次第に絵が社会のなかで果たす役割も変化しているからこそ、技術基盤が変わっている。元禄期と天明寛政期で、おなじ「吉原」とか「浮世絵」と括ることができないくらい違うなとおもう。
展示の問題を述べると、「吉原」というものを、始まりがあり終わりがあるものとして語っていることにある。それは、江戸初期に申請によってでき、明治になって芸娼妓解放令とともに終わるような、閉じた歴史として語られている。だから、かつて人権侵害的な制度があった、と過去形で語っている。現在とは切れている、無関係な歴史だと見做しているからそういう見方になる。
大吉原展の図録、田中優子の文章の冒頭がこんな感じで、戦争がない=平和って江戸時代なんだとおもってんだ。飢饉とか暴動とかめちゃくちゃあるでしょ。
江戸時代は二七〇年間にわたり、内外ともに戦争の無い時代を実現した。それはそれで見事なことだ。かくの如き完璧に近い治世とは平和ではあるが、その一方で「治める」ためのさまざまな秩序と統制が行き届き、緩むことを許されない社会でもあった
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天明3年の米の作柄は弘前藩は皆無作に陥るなど惨憺たるもので、結局東北地方の太平洋側と現在の青森県では、天明3年から4年にかけて数十万人と推定される餓死者が発生した
天明3年はちょうど歌麿のデビューくらいの時期。それで、この Wikipedia にも書いてあることだけど、米価が高騰して打ち毀しがおこり、それが略奪になる。書いてあるとおりで、江戸の中期から後期にかけて政権はこういう暴動をコントロールできなくなっている。「完璧に近い治世」ってなんだよ…。
「このような遊女の状況、近現代で言えば人権侵害こそが、吉原が現代につながらなかった理由である」
まるで現代は人権を守っているから吉原は衰退したみたいな言い方じゃないですか。貧困が相対的に解消されたから衰退したんでしょ。因果関係の理解がおかしすぎるんよ...。
田中優子、どうやら本当に貧困が身売りの原因だという理解がないらしい...。これはさすがに遊廓の専門化という肩書を「自称」にしてほしいレベルで問題がある。
吉原展の古田亮は「展覧会に現代的なメッセージを加えるのは違和感がある」としていて、田中優子と対立があるのか...。
https://twitter.com/K3DI7LAaAVx1CYP/status/1772977816226717881/photo/1
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たしかに「アップデート」というイメージはOS更新みたいな外から強制的におこなわれるという感じで言っているのかもしれない。他罰的な言動も、他人を「アップデート」しようとしているのかもしれない。
倫理を主体的な判断にもとづくものであるとすれば、こういう判断の外在化にはだいぶ問題があるようには思う。
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安土桃山ころだとかぶき者は男性が主なんだろうとおもいますが(チンピラみたいなイメージつよい)、江戸開府のころの出雲阿国がはじめた阿国かぶきがその後のながれとして、たぶん重要だと想定しています(まだあまり調べていない)。
阿国かぶきは、おそらく性秩序壊乱的な演劇だったのではないかとおもうのですが(遊女屋を通じて全国に広まる)、この阿国かぶきの幕府による取締と公許遊廓と芝居町の形成がセットではないかと考えています(吉原が1617年、遊女歌舞伎の禁止が1629年)。幕府のやろうとしていることは、性秩序のアナーキーな場を解体し、男性の芝居町と女性の遊廓に分離し、性による職能分離を進めているように見える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD
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web3.0ってセマンティックウェブのことですよね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96
web3、WWWが乗っている技術基盤ではないからバージョンっぽい用法をつかっている意味がわからない
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漸進的な進化可能性という考えはREST論考(ロイ・フィールディング)でWWWの重要な特性とみなされていた気がするから(たしか)、ティム・バーナーズ=リーがweb2.0とか3.0とかのバージョニングをするのは下位互換を維持したまま進化するシステムというイメージで言っているはずだとおもう。
フィールディング論文だとこのへんか
https://ics.uci.edu/~fielding/pubs/dissertation/web_arch_domain.htm
この章けっこうすごいこと書いてるな
展示見た段階では、古田亮もどうしようもないかとおもったけど、図録を読みながらこっちはぜんぜんマシな認識だとわかった。田中優子はひどい。
清瀬市の図書館が6館から2館に削減するという話について、野党系の市議の人が記事を書いている。
https://miyahararie.jp/information/533.html
とりあえず6館ある図書館を2館に削減する理由としては、来館利用率が低いという点にあり、市民が使いやすいように代替として宅配サービスを導入する予定だが、予算が足りないので館を縮小して予算を捻出する、という経緯であるらしい。
性急すぎると書いてある通りで、賛成する理由がないとおもう。
代替サービスとしての宅配利用によって利用率が上がるという確証がまったくないまま、先に館の縮小を決定するのが、順序としてダメだと思う。この廃館予定という議題さえ市民に周知できていなかったわけで、宅配サービスが利用しやすくなるような周知のしかたができるとおもえない。
「来館利用率が低い」ってことが問題なのではなく、今使っている人たちや、今後使いそうな人たちの想定ユースケースがどういうものなのかの検討が必要なんだとおもうけど、この記事からそういうのが検討されたようにもおもえないなぁ。
宅配サービスを一部地域とかで低予算で試験的にはじめてみて、その利用率を測るとか、利用しやすい環境を整えてから廃館にする、というのが筋ですよね。
システムを一気にリプレイスしたい!とか、全部作りなおしたい!みたいなのがだいたいうまくいかないのと同じ感じがする。