ふむっ rperseus | https://github.com/ropensci/rperseus
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優秀な人は兎角そうでない人に厳しいがそのような人のためにはわざわざ「老いによる衰え」という不可避の伏線を用意しておくあたり現世の設計もなかなかに皮肉がきいていて好感が持てる
おおまかな趣旨は再現できるが細かい部分の調整がまだ長い道程という感じ.
註釈部分の高さは左右のページで揃っているほうが実際には読みやすいであろう一方で,右カラムが1行分揃わなくなってるのは何とかして改善したい.
これ(Jebb, R.C., Sophocles: The Plays and Fragments (part 1) https://archive.org/stream/SophoclesThePlaysAndFragmentsPart1/Sophocles_ThePlaysAndFragments_Part1#page/n107/mode/2up )がお手本.
中務先生パウサニアスの翻訳なんかなさってたっけと思ったがヘシオドス『全作品』に入っている証言からの引用だった(p.10).|「ヘシオドスとホメロスの年代については私も極めて詳しく詮索したが,とりわけ当代の叙事詩の権威者たちの口うるさいのを知っているので,それについては書きたくない」
https://twitter.com/__eta/status/1011595691611885571
とても読み応えのある上に立派な記録なので感じ入ってしまった.というか国家権力の圧倒的な暴力に晒されてこう冷静な対応が取れるのはすごい.|サイバー警察に家宅捜索を受けた際の体験談 https://it-giron.com/25
「興味」を誤変換した結果「今日み」になって新しい名詞を得た.「こんにちみ」とでも読んで「物事が今風であること,またその様」のような意味にでも使えそう.
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ガワが美少女ならなんでもいいのかという批判は当たらなくて寧ろそれはおじさんという美的にも機能的にも造物主のやっつけ仕事としか思えない代物の中に宿る魂の可愛さに霞のかかったこの眼を開かせてくれる真理への導き手なんだよな
イタリアの出版者アルド・マヌーツィオの『ネアカデーミアー会則』(Wilson版をDigital Vatican Libraryのインキュナブラとつき合わせながら適宜訂正したギリシア語テクストと翻訳(Mastodon上))
Sergiusについて調べていて9世紀始めの写本BPL 135 foll. 71v-75rにそのテクストの1バージョンがあるというから見てみたら,この前のZetzelの本について書いた際に(https://gnosia.info/@ncrt035/100202125569923750 )危惧していた通り本に掲載されているURLからコンテンツが移動されてしまっていてうーんという感じ.移動後の今はこっち(https://digitalcollections.universiteitleiden.nl/view/item/1616584 )で参照できる.
「本格的な聖書ヘブライ語辞典がコンパクトでお求めやすい価格に!」とあるから0の数を数え直してしまった |
【7/31発売予定】予約:聖書ヘブライ語日本語辞典 聖書アラム語語彙付 | 教文館キリスト教書部
https://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/96383
「修正」と「解釈」って字面だけだとピンと来にくいが対立項目になりうるもので,不可解なものを前にして度し難いとして手直しするか,こちらの理解の幅を調整することで落ち着けるかの選択になる.
法文は,実際に起きる事態の個別性・特殊性を考慮し抽象度を高めて記述してあるわけで,現実の問題に法を適用する場合には,立法者の意図や先例を尊重しつつ類推や敷衍(=解釈)を加えて判断を導き出す必要があり,そこで困難に直面すれば既存の法の改正や(=修正)新しい立法の是非も問われてくる.
この一連のプロセスの中で常に指針となるのは「その判断によって正義が実現されるか」という点であるが,これが「現実への適用」という法解釈学特有の視点であるとすると,翻ってみるに普段我々は古典文献を解釈するのにどのような指針に基づいているものか.
ルクレーティウス『事物の本性について』2巻1049行
et latere ex utroque superque per omne
という写本の読みで韻律が揃わなくなっている箇所の修正としてLachmannがscribendum est supra supterque《supra supterqueと書くべきである》とコメントした案が採用されているがその補いをBaileyが
et latere ex utroque <supra> subterque per omne
と書くのに対してFloresは
et latere ex utroque sup<ra supt>erque per omne
と書いていてこれだとなぜ誤記が発生したのか(=sup(t)-の繰り返しで目が滑った)わかりやすい親切な表記だ.
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・二度寝しない
・おやつを食べない
・昼寝をしない
その他を徹底すれば毎日もっといろんなことができるのではと思いつつ今日も23時がくる
「肯定」の代わりに「対義の否定」を用いてニュアンスを付加するのは修辞学の用語で「緩徐litotes」という.「否定の否定」が時として「強い肯定」になりうるのは自然な現象ではある.|「『Aでないとは言えない』が裁判の判決では『よってAと考えるのは妥当である』という使い方をされてしまう。論理的におかしいのだが法曹の世界ではそうなる。しかし,法律家の言葉遣いのほうが一般社会のそれと近く多くの人は同様の判断をしている。論理的・科学的な物言いが誤解されてしまう。」https://twitter.com/konamih/status/1011762986011127808
アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』からのこの例(https://gnosia.info/@ncrt035/99410657321038417 )は,「ひとつならざるοὐχ ἑνὸς」と言ってるからといって「では二つか三つかな?」というわけではなくて,明らかに夥しい音が響き渡る状況下でそれを敢えて「ひとつならざる」と緩めて表現することで何か凄みのようなものを付加しているケース.
ホメーロスに出てくるτὼ δ᾽οὐκ ἀέκοντε πετέσθην《(馬は)喜び勇んで飛ぶように走り出した》(Il. 10.530; Od. 3.484 etc.)もοὐκ ἀέκοντεは文字どおりには「不本意ではなく」で,では「嫌ということではなく,普通の気分で」かというとそうではなくてやはり「喜び勇んで,嬉々として」という感じ.定型的なので修辞的な意匠が読み取れるかは微妙.#rhetorica
ラテン語もnon invitusを同じように使う.キケロー『友情について』から2例.
Itaque feci non invitus, ut prodessem multis rogatu tuo. (4)
《それなので私は喜んで,あなたの求めに応じて多くの人の役に立つようにしたのです》
quamquam etiam ab istis saepe quaesivi et audivi non invitus equidem (24)
《もちろん私としても自らすすんでそうした人たちに尋ねたり聞いたりしたことは幾度もありますが》
Q.マグロナちゃんゲーム配信もあるし今日はもう仕事終わってもいいよね
A.駄目です♡
Pertusiのヘーシオドス『仕事と日』スコリアを見ていたらἀθετέω, διαγράφω, ὀβελίζωあたりの語彙をLGGIにまだ取り込んでいないことに気づいたのでひとまずメモった.
https://github.com/ncrt035/lexiconGrammaticum/issues/32
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今読んでる本に「ラテン語を学ぼうとする人の数はギリシア語を学ぼうとする人の数より多いのに,ラテン文学の方が翻訳の数も少なく概してとっつきにくいのは何故か」という話が出てきてうーんと考えている.
「ラテン語を学ぼうとする人の数はギリシア語を学ぼうとする人の数より多いのに」の部分はちゃんと数字の裏付けが要るが,直接・間接に把握する範囲では大学でもラテン語の受講者の方が多いのが普通.
どんな言語でも「文法を学ぶこと」と「実際にその言語で書かれたものを読むこと」の間には少なからずギャップがあるものだけれど,ラテン語は特にそれが大きいのかもしれない.
CSS組版・パブリッシング交流会のスライド来てた|https://speakerdeck.com/spring_raining/viola-online-editor-for-printing-and-publishing
買い物行って暑くて体力を奪われ昼寝してたらこの時間なのでなんとも言えない虚無感
さぼってるのでアプデしたいんだけどdocker-compose buildでコケるのでやっぱメモリ不足かしらん