サボっていたMastodonのアップデートを行ったのでver.1.4.6になった.
色々嵌った人のことが聞こえていたので若干不安があったものの特に問題なくいけたので安堵.
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色々嵌った人のことが聞こえていたので若干不安があったものの特に問題なくいけたので安堵.
B = Laur. 31.3
http://opac.bmlonline.it/Record.htm?record=692712441099
N = Matrit. gr. 4677
C = Par. gr. 2785
http://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc22964c
P = Par. gr. 2787
http://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc22966v
Pd = Par. gr. 2789
http://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc22968b
V = Marc. gr. 468(653)
X = Laur. 31.2
http://opac.bmlonline.it/Record.htm?record=691712441999
Y = Lugd. Batav. Voss. gr. Q 6
adynaton 無理誇張
ある事柄の不可能性を強調するために,他の不可能な事柄を比較に持ち出す技法.
alta prius retro labentur flumina ponto,
annus et inversas duxerit ante vices,
quam tua sub nostro mutetur pectore cura:
sis quodcumque voles, non aliena tamen. (Prop. 1.15.29-32)
海から深き川が遡り流れ,
一年が逆の順序で過ぎるだろう,
私の胸の内でお前への想いが変わる前に.
何でも望みのものになるがよい,だが他の男のものにはならないでくれ.
figura etymologica
語源的あや,また同族呼応とも言われるものだが,実際に語源的な関係性のない,いわゆる民間語源に基づくケースなどもあるので地口や洒落の類と厳密に区別するのは必ずしも容易ではなさそう.
Hanc propter subterque pedes quos diximus ante
Orioni' iacet leuipes Lepus. (Cic. Arat. 120-121)
これ(=おおいぬ座)の傍,そして先に述べたオーリーオーンの足元に
軽やかな足の兎がいる.
※lepusとleuipesの間に本当の語源的関係はないが,ウァッローによると足の速さと兎の名前の由来を関連づけた人がいたようである(L. Aelius putabat ab eo dictum leporem a celeritudine, quod levipes esset. (cf. Var. RR 3.12.6)).
#rhetorica
ゆるキャン△抱き枕(http://www.curtain-damashii.com/event/c94/#yurucamp )両方ベッドに並べて自分は床で寝るやつやりたい
grammaticalというよりphilologicalな用語だからかもしれない.
ところでobelusについては人文主義者の用例にもobelo confodireという言い方がBeroaldoにあるとRizzo, Il lessico filologico degli umanisti: p.285.
『漢文脈の漱石』こんな本出てたんだ.これは買わなくては.
漱石の漢詩はたしか岩波文庫にも入っていて,日本人の作としては例外的に中国人の鑑賞にもたえる高い水準のものだったはず.
翰林書房 -WEB-
http://kanrin.co.jp/book/02_201803_kanbunmyaku.php
翰林書房 -WEB-
http://kanrin.co.jp/book/02_201803_kanbunmyaku.php
何か,19-20世紀人でありながら古典の言語で詩を書いて,なおかつ只の模倣や継ぎ接ぎにはならず独自の詩的世界を構築する水準まで到達した,というとイタリアの詩人ジョヴァンニ・パスコリ(1855-1912)のラテン語詩なんかも思い浮かべてしまう.
Mahoney, A.(2002), `The Saturnian Lullaby in Pascoli's "Thallusa"', Humanistica Lovaniensia 51: 311-321.
ジョヴァンニ・パスコリ(1855-1912)晩年のラテン語詩『タッルーサ』はキリスト教を主題とする作品.その殆どはhexameterで書かれているが,詩の最後でタッルーサが歌う子守唄はsaturnianという古い時代の韻律で書かれている.現存しているこの詩形のラテン語作品(紀元前3世紀)とパスコリのそれとの違いの検証を通し,両詩形の対照が元来のローマの信仰とキリスト教徒との衝突・葛藤というこの詩の核心を形成していることを論じる.特に韻律的な不規則・イレギュラーが,パスコリの訂正するつもりであった未推敲箇所ではなく積極的な意味を持つものとして解釈される.
何かこう,宿や列車の予約に代表されるような,やればすぐ終わる作業になかなか着手できずギリギリまで延ばしてしまうの,そういう一瞬で終わる作業はしかしそれが一回限りであるがゆえに日々のルーティンの中にイレギュラーを発生させてしまうという点で自分のような人間には負荷が大きいんだろうな,と思いました.
著作権法改正がデジタルアーカイブに与える影響と今後の課題 ~ アーカイブサミット2018-2019第1分科会レポート | HON.jp News Blog https://hon.jp/news/1.0/0/25335
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朝とてつもなく頭が痛くて起きられなかったので9時まで寝る券を発動したから午前中ほとんど何もできていないまま食事を摂りにいく羽目になった
「意見・決定」をギリシア語で言おうとした時に,δόξα, γνώνηあたりで満足だろうけれども,名詞で対応するものを探すだけでなく,例えば「良いと思われたことども」と言い換えてτὰ δόξανταとかを思いつけるかでだいぶ広がりが違う.
語学の授業で生徒が表現に詰まって「これこれのことを言いたいのですが」と日本語で質問した際に教師がもっと簡単に言い直させるというのを一度ならず目にしたことがあるが,言いたいことの論理的な内容を損なわないまま言い換えの手段をどれほど思いつくか,は言語の運用能力の重要な指標の一つと言える.
沖縄科技大学院大「質高い論文」東大上回る 世界10位: 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46718320Y9A620C1TJM000/
悲惨なポスドク…東大博士号でも非正規、40代で就職活動、夢は中国で研究者 | ビジネスジャーナル https://biz-journal.jp/2019/07/post_106707.html
コードネームが映画のようだ
「同警察が2018年から行っていた捜査「天使と悪魔」(コードネーム)で、この犯罪ネットワークの存在が明らかになった」
困窮家庭の子どもを洗脳し里親に売る、町長や福祉関係者ら18人逮捕 イタリア 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News https://www.afpbb.com/articles/-/3232872
論文を読んでいて「いいことが書いてあるなぁ」となるとそれはつまり自分の言いたかったことを先に言われてしまったことなので落胆し,反対に「それは違うんじゃないの」となると論争し筆を執る契機となるので嬉しい,という歪な現象が発生する.
面白かった 仕舞いまで読んでしまった
Vue.jsでアホなジェネレーターを作る勉強会をやると予想以上にガチになる https://dailyportalz.jp/kiji/generator-hands_on-report
主な変更点のひとつに「これまでは、研究成果の公開を「強く奨励する」としていましたが、新方針では「原則公開」としました」とある
「北海道大学オープンアクセス方針」を策定しました – Hokkaido University Library https://www.lib.hokudai.ac.jp/2019/06/28/66463/
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たしかに言われてみると一昨年に建ててすぐの時と比べてもTLにも個人鯖もしくは小規模鯖の人々が増えたなぁと思う
ふむっ
【詳報】立命館大学生1115人が回答《コロナ禍における学生生活実態調査》|立命館大学新聞社 https://ritsumeikanunivpress.com/07/01/4257/
はてブコメがだいたい喜ばれてて草
NAVERまとめ サービス終了のお知らせ : NAVERまとめ公式ブログ
http://navermatome-official.blog.jp/archives/83259956.html
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町田さんの新作だ!
トーチweb 船場センタービルの漫画 【船場センタービルの漫画】 http://to-ti.in/story/semba_center_comic
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betrayは「裏切る」ではなかったっけ,でも今の文脈には嵌らないな…と思って辞書を引きなおしたが,「暴露する,~であることを表す(≒reveal, indicate)」の意味にもなるね.
そういえば今朝のトーチwebの町田さんの漫画に「船はすべての海の名を知っている」が「港はすべての海の名を知っている」に誤植されたのを直さなかった云々という一節があり,調べても出てこないし心当たりもないのでこのための創作であろうかと見受けられるけれども,同種の「偶然の添削」は色々と聞くから高橋輝次編『増補版 誤植読本』を取り出して読み直していた.
昨日のこれ,気になったので調べてきたよ.
『群像』2013年4月号の穂村弘「現代短歌ノート[37]」(pp.331-333)が「『間違い』のある歌・その2」という題で,その冒頭が
あのね,アーサー昔東北で摘んだだろ鬼の脳(なづき)のやうな桑の実
という岡井隆さんの歌を取り上げている.この「鬼」が元々は「兎」だったというお話.
実は引用歌の「鬼」はもともと「兎」だった.ところが,私も参加していた或る互選歌会で,作者が描いたその文字が「鬼」と誤読されたのである.しかも好評を得た.その結果,「兎」が「鬼」に化けた歌はそのまま歌集に収録されることになった.確かに,「鬼の脳」には異様な迫力がある.一方,「兎の脳」は「桑の実」の見立てとしてユニークでありつつ,大きさと形状の類似から納得もしやすい.どちらがいいか,迷うところではないか.だが,作者は「偶然の添削」を受け入れたのだ.その態度に経験や主観や言語感覚よりも自らを覆す不測の事態を信じる詩人の魂を見た思いがした.数年後,「脳と胸書き間違えるおとこいて光らせたい私が神だったら(北山あさひ)」という歌をみたとき,私は反射的に岡井隆のことを連想した.あのとき「『兎』と書いたつもりなんですが……」と呟きながら,どこか嬉しそうだった.そんな彼は「間違い」こそが新たな世界を生み出す契機であることを知る潜在的なアクシデント希求者なのだろう.
「涙が洗ったきみやぼくの苦い指は」が「涙が洗ったきみやぼくの若い指は」に(p.102),「炭竃に手負の猪の倒れけり」が「炭竃に手負の猫の倒れけり」に(p.125),「粟一粒秋三界を蔵しけり」が「栗一粒秋三界を蔵しけり」に(p.145),などは元の詩が偶然に悪しからぬ変身を遂げている例で面白い.
一つ目は長田弘さんの記事で,自作に生じたこの誤植を冒頭に挙げた後しばらくして,「……ワープロがひろく普及したいまでも,自動的な漢字変換によって生じる,たとえば「先頭に立って」が「銭湯煮立って」になってしまうような奇怪な間違いが,やっぱり避けられない.しかし,それがただのまちがいというには惜しいような誤植であることもしばしばあって,むしろそういった意図せぬ誤植こそ,言葉への不感症をぶったたくにはこれ幸いというべき武器の一つ,そういったら,「誤植」というものを手前勝手に擁護しすぎるというそしりを免れないでしょうけれども」(p.107)とある.
3例目は寺田寅彦の句で,これを引いた坪内稔典さんは,私見では「栗」の方がよいとして,「小さなものの代表みたいな粟粒にこの世の全てがあるというのは,理屈が通り過ぎて平凡だ.それに対して,栗の句とすると,理屈よりも栗の存在感そのものを生き生きと表現している」(p.146)と述べ,「粟から栗への変化,それを読者による推敲,あるいは添削と考えたい.俳句は,例えば句会でしばしば直される.直された句はそのまま作者の句になる.それが昔からの俳句の伝統だ.つまり,俳句は作者だけが作るのではなく,作者が作り読者も作るのだ.そういう共同の創作が俳句なのである」(p.146)と書いている.
この,時間を隔てて行われる作者と読者の共同の創作,という考え方は,最近のオウィディウス研究の一部の言説を知っている身からすると面白いですね,となった.
『誤植読本』にも書いてあるけど「メメクラゲ」が「××クラゲ」の誤植だったという話はもっと身近かもしれない.
「空メール」,あるいは「メール送ったと思ったけど実は送ってなかった」みたいなメール周りの思い違いかもしれない
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ホメーロスやウェルギリウスがどんな詩を作ったか,万巻の書物を繰り広げて逐一確認を取りながら考究するのではなく,むしろ巧まずして自ずから口に詩が上るほどに詩聖の言語と文体に習熟し自身が対象そのものになることを通して答えを得るのを目指すべきである,という命題に対して若い日の私が与えた答えは,それは理想ではあるが不可能であり,不可能事をなそうとするよりは対象との隔たりの自覚に基づいて,錯覚的な「習熟」からは意図的に距離を取る方が学的に誠実であろう,というものであったが,それが正しかったのかわからない.
ただこれも「あれかこれか」の問題ではないのですね.「卓越した言語感覚」だけを恃んで生まれるものは往々にして「悪い意味でのユマニスト的修正」の域を出ない.divinatio は必要だがそれは地道な考証に裏付けられた divinatio でなくてはならない.その点で,ティンパナーロの Delle congetture は大変大きな印象を受けた論文であり,今にして思えば学問観そのものをかなりの程度決定づけた重要な一篇であったと言えるかもしれない.
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講読の準備は質問の出そうなところを説明できるようにあらかじめそれなりに準備して出講するんだけど,だいたい予想が外れて「そこかぁ」みたいになりがち.
ある程度回数を重ねると,参加者のそれぞれがどういうところに疑問を感じやすいか見えてきて打率がちょっぴり上がる.