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「単位にしか興味がないくせに」発言で思ったけど,単位という契機なしにも多数の学生が自分の話を聞きに来てくれるというだけの自信を持っている教員はどれくらいいるんだろう(私は無理です
何の気なしに荻生徂徠の Wikipedia 項目を読んでいたら「『荻生徂徠全集』は、みすず書房と河出書房新社から出版されたが、各・未完結である」とあり「えーっ」となっている
荻生徂徠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
少し思い出してきたが,学部生のときに荻生徂徠の『蘐園随筆』は少しだけ読んだことがあった.むつかしくて「読もうとした」以外のことは何も覚えていないが,今頃になってこういう繋がり方をしてくるというのは何か不思議な思いがする.
当時は古文辞学のコの字も知らず,漱石が漢文としては頼山陽より荻生徂徠のそれを好んだという話で興味を持ったのだが,そのときにもっとよく勉強して読み込んでおればその後どうなったか我ながら気になるところではある.
その漱石が云々というのもたしか吉川幸次郎先生の本から得た話であったはずだから,古典への道筋の少なくない部分は漢文への興味を通して拓かれたわけで,漢文教育が下火になるのはやはり悲しむべきことに感じられる.
しかも今に至るまでの私の研究のやり方は,徂徠的な言語重視のやり方ーー古代の言語に徹底的に習熟して言わば古人そのものに“なる”ことを目指すやり方ーーから意識的に離れたものであったわけで,そのおかげで比較的はやくに論文を仕上げられたとあう面もあろうが,「詩を読むのに自らも詩を作る」道を行かなかった後ろぐらさのようなものがずっと残っている.