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数年前にステーションギャラリーでやってたディスカバージャパンの図録は買っておけばよかった...
24色のペン:元慰安婦碑の撤去を巡る「公共美術」論争=堀山明子(外信部) - 毎日新聞ニュース
https://mainichi.jp/articles/20230909/k00/00m/030/256000c
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『略称・連続射殺魔』は、連続ピストル射殺魔の永山則夫が訪れた土地を辿りながら撮影することを通じて、いまや日本全体が「総東京化」して均質な風景に覆われていると告発した、のちの郊外論の先駆けと言い得るフィルムです。そこでは、各地の風景をカメラで切り取って編集し、80分ほどの時間に圧縮するという操作が行なわれています。要するに、風景=ショットをヘテロトピックに混在させる映画の方法と、ヘテロトピックな風景として語られる郊外的なイメージを同期させているわけですが、その場合、撮影対象となった場所自体に混在性が備わっているのではなく、映画というメディア自体の条件が混在性の印象をつくりあげているのではないかという疑問が生じますよね。
永山が引っ越しを繰り返し一つの場所に居着かないことは、場所から主体が疎外されている、それによってあらゆる場所は場所の固有性を欠いたものとしての「風景」として立ち現れる。けど、外からカメラをもった人間がきて短時間だけ滞在してその場所を見る「撮影」という行為が、典型的にそのような疎外を生みだす行為である。自己を疎外するものとしての「風景」が、撮影によって立ち現れるものなのか、永山の居着かなさによって現れるものなのか、映画からは区別をつけることができない。
みたいなことを思った。
ていうか、柄谷行人の「風景の発見」ってもっと後だと思うけど、安達/松田らの語る「風景」が主体の不安定さに由来する疎外の経験であるのに対して、柄谷の「風景」では主体の確立こそが「風景」の発見になっている。柄谷が知らなかったはずはないと思うけど、文脈を塗り替える意図はよくわからない。
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SNSにおける炎上、個人として受けちゃうからほんとによくないな。「自分の意見を持っている人間 対 世間」みたいな認識にかんたんに酔ってしまう。
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BT 最近も似た論調のテキストを読んだおぼえがあり、えーまたか眉唾だなとおもったけど、読みすすめていくと案外説得力がなくもないとおもったのがあるけど、なんだっけおもいだせない...
まったく納得しない人いそうだけど。
>「さまざまなシミュラクル、すなわち原型(オリジナル)なき複製(コピー)の技術上の基底をなすのは、マイクロエレクトロニクスである」(ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』p.317)
これは文字通りの意味でそうで、コンピュータ登場以前の複製技術には「版(plate)」が必要だった。いまでも書籍の印刷では刷版がつくられるけど、ふつうのコピー機やオンデマンド印刷とかに版は存在していない。 版をもたない複製技術が登場したのはコンピュータ以降の特徴。
ハラウェイはボードリヤールについて参照して言ってるんだろうけど、ボードリヤールとか読んだのが昔すぎて、「版」の問題についてなにか言っていたかどうかまったくおぼえていない。
近代的な複製技術と現代的な複製技術では、版の有無という決定的な違いがあるんだけど、ベンヤミンには当然この区別がない。そこからいろいろ見直せるとおもうんだけど、あんまりやっている人がいなそうに思う(自分が知らないだけで実はいる?)。
原版から複製を作るという技術構造が形成したものが中央集権的システムで、たとえばお金はまさにそうで版を国家が管理することに意味がある。版をもっている主体が複製を作ることができるのは、出版業も同じで、版の観念をベースにさまざまな法体系が構築されている。
現代の技術構造では複製には版が不要で、複製はむしろ分散システムを形成する。ここ Fediverse じたいもそうで、この投稿は別のサーバーにコピーが送信され、それが参照される。この投稿のURLが pleroma.tenjuu.net のドメインにホストされているものと、他のサーバーにホストされているものと、どちらがオリジナルであるかという問いには意味がない。
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ジャニヲタ、被害そのものの存在を疑う陰謀論へまっしぐらに進んでいてすごい。
「慰安婦問題とおなじ」と発言するネトウヨとジャニヲタがすでに悪魔合体している。
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ハラウェイの「サイボーグ宣言」、難解な文章だけど、ジェイムズ・クリフォードの『文化の窮状』とかなり響く内容だった。
先日、大学の学部生と軽く話す機会があり、「中学から高校にかけてTwitterが全盛だった、東日本大震災のときは小学生だったからTwitterはやっていなかった」という話だった。Twitter、思っているよりずっとたくさん中学生とかがいたんだろうな。
しばらく前に『在日朝鮮人ってどんなひと?』がTLでおすすめされていたのを買って放置していたましたが、昨日から読みはじめました。
https://www.heibonsha.co.jp/book/b162734.html
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真正性と偽物性、「アヴァンギャルドとキッチュ」(クレメント・グリーンバーグ)をおもいだしてました
グリーンバーグはにとって、キッチュは大衆時代の芸術の代替物でファシズムの道具だが、アヴァンギャルドはボヘミアンなユートピアだったけど、茂木健一郎はこの図式を反復しているとおもった。
彼はどうみてもベンヤミンの「アウラ」を読み間違えているんだけど、クオリアという私秘的な場に囲い込んでいる。こういうことやると「私がほんものと言うからほんもの」にしかならない。こういう私秘性は真贋判定の権威としてしか機能していなくて、小林秀雄の骨董みたいなものになっている(小林秀雄のほうがぜんぜんマシだけど)。
「アート作品は、それを目の前にして経験しないと、本質的なことは何も言えない。クオリア、あるいはベンヤミンの言う「アウラ」は、実物でないとわからない」とか。そもそも実物と複製の区別をもとに経験の違いを仮定することこそ、アウラ喪失後に発生した事態ですよね。
https://twitter.com/search?q=from%3Akenichiromogi%20%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9&src=typed_query
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クオリアから対象の真偽性を判定するための装置が、茂木にとってのアウラですね。
南米の労働者が万感の思いをもってボブ・マーリーを聴くことと、日本の脳科学者がボブ・マーリーを聴いてほんものとか教養とかいうことの間に、経験の共通性はあるんだろうか
日本の脳科学者にとってはモーツァルトもビートルズもボブ・マーリーも同じように「ほんもの」で教養だけど、ジャマイカの人にとってボブ・マーリーこそが「ほんもの」で、ほかはリアリティに圧倒的な濃度の違いがある(「ジャマイカの人」とか十把一絡げに言えないけど)
自分は、モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーが並んで平気らしいことに一番ギョッとしたけど、こういうのこそがスーパーフラットな感性ではないかとおもう。村上隆的にはスーパーフラットは過剰な消費文化のなかでいろんなものの価値が等価に見えることだと思うけど、モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーという並びは消費文化というか、iPod的なものであるように思う。
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@on1000mark webfinger が fediverse 上のアカウントの検索で、 on1000mark.club@on1000mark.club を検索したら on1000mark@on1000mark.club になっている
たぶん user account と blog account どっちの話しているか確認しよう、というのは、 user account → fediverse 上のアカウント、 blog account → WordPress上のアカウントのことでどっちの話か確認したい
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これ、動画が見れなくなってるな。おもしろかったのに。
http://it2550.net/news/181228_alankay_keynote_j/
読みおわった。すごく良い本だったのでいろいろな人に読んでほしい。
Amazonのレビューを見ると案の定賛否あるというか、否定的なレビューを書く人は、著者が感情的で攻撃的だと感じるらしく、そこから否定的な評価として著者の記述は「主観的」であるとするものが多い。
自分は著者が攻撃的な書き方をしているとはまったく感じず、むしろ日本の歴史について(恥ずかしながら)知らなかったことが多くあり、またその無知が現在の言論状況に与える影響について学ぶところがありました。
こういう声が聞こえるようになるまで、自分は40年もかかってしまった。
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やっぱり pleroma からはWordPressのActivityPub見えていないな
読んでいる本に「「温泉」マーク尽き広告」という文字列が出現して困惑してしまった
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プーチンは何とは言わないが何らかのプロ!了解!
>ルカシェンコ大統領はロシアのプーチン大統領は今回の墜落事故とは無関係と指摘。「プーチン氏がやったとは思えない。あまりにもお粗末でプロとは言えない仕事だ」とした。
https://jp.reuters.com/article/russia-crash-belarus-idJPKBN3001NU
前田愛よりインパクトあったわけではないけど、この人の本はほかも読みたいな
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大島渚の「東京戦争戦後秘話」プライムにあるやん
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07C66MLKT/ref=atv_dp_share_cu_r
鈴木秀尚個展「鳥と鏡」/ Hidetaka Suzuki “Bird and Mirror” - biscuit gallery
https://biscuitgallery.com/hidetaka-suzuki_solo-exhibition/