大辻清司のやついつでもいけるとおもってたらあと一週間ちょっとか
椹木野衣編集の『日本美術全集19 拡張する戦後美術』、作品を集めている視点があまりに糞だったけど、スーパーフラットやろうとしてその劣化版をつくってしまった感じだな。
本人はスーパーフラットに包括的な枠組みを与えたつもりなんだろうけど、村上隆のようなセンスも言い切りの強さも地道さもまったくない
リトルボーイの図録みてたら、やっぱりパクリといっていいくらいそのまんまだな。"Little Boy The Arts of Japan's Exploding Subculture" で、副題までパクっているが、編集の企図としてこのリトルボーイ展およびその図録への参照があるということわりはない。リトルボーイの図録のほうが芯がとおっている。編年体ではないことはリトルボーイ展にとって重要に見えるが、それはスーパーフラットというコンセプトにとって時系列的な発展みたいな把握をしないからだけど、椹木の『拡張する...』ではびっくりするくらい凡庸な時期での区切りを導入している。時期で区切ってサイクル一周してもとに戻る、みたいなのが「悪い場所」だからそうなんだけど、いざキュレーションさせてみるとこんなに凡庸かってなる。
村上のスーパーフラットは、いくつかの重要な作品が織り成す星座で、作品を並べてみたときに浮き上がってくるものがある。時間みたいなのがすっとばされて結合するのは、それが村上の視座から見えている星座だからだ。椹木が『拡張する...』の論考で、冒頭4ページにわたり作品の話もせずに敗戦とか時代とかそういう話を書き(しかもそれが驚くほど不勉強なのだ)、時系列的な流れを想定する時点で、編集意図としてスーパーフラットを模倣しつつ本質的なものを拾えていないことがわかる。いや全集という編年体的な書物だから制約もあって...という話であれば、最初からスーパーフラットなんて目を向けないほうがよい。
リトルボーイに掲載されている村上隆のテキストめちゃくちゃおもしろい(読んでなかった)。村上隆はオタクだけど、椹木野衣はサブカルおじさんなんだよな。村上はオタクの表象を自虐的に日本のプレゼンテーションとするのが卓越しているけど、椹木は外からの視点が無く、たんに内向的になってしまったからつまらないんだな。
作家としての村上隆が強かったのって、作品をいろいろなものの関係の中に配置しなおしたことにあるんだよな。日本もアメリカとの関係において表象される。モノが自立して見えるのは見かけ上のことでしかない。
永井隆則さんの絵画からデザインへって話、作品に内在的な意味がなく鑑賞者側にとっての作品の意味付けをやってる(肘掛け椅子)ってことではとおもうけど、それデザインって言うんかという感じはある。まあバウハウスとの関連というか並行性はあるいえるとおもうけど。
マティスをデザイン史に位置付けて語るのは可能性あるけど、であればもうちょっと基本的な話をですね...。
セザンヌの「彩られた感覚」と「彩る感覚」は、「視覚を造形的な諸要素に変換する作業」として絵画を位置付けているけど、マティスには「彩る感覚」はあっても「彩られ感覚」がないのでは?みたいなのはわかるな。セザンヌには自然と絵画は並行するふたつの調和で、ふたつのシステムはアナロジカルな関係にあったとおもわれるけど、マティスではすでに自然と絵画のアナロジーが崩れているとおもう。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。