武蔵美の図書館は研究者少ないからだろうけど蔵書かなり駄目だな...
ベルグソンをぜんぜん通ってきてなくて一冊も読んでないんだけど、メディアは身体の拡張みたいなことを言っているのか
下層社会に生まれ育った一人の大衆が<流浪>という存在態においてしか自らの階級形成をとげざるをえなかった時、したがって私たちが永山則夫の足跡を線でつなぐことによってもう一つの日本列島を幻視しようと試みたとき、意外というべきか、線分の両端にあるところの点として、風景と呼ぶほかはない共通の因子をも発見することとなったのである。そしてこれは、この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、都市も田舎も、一連の巨大都市としての劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均一な風景であった。私たちスタッフ6人は、1969年の後半、文字通り、風景のみを撮りまくった。撮っては喋り、喋ってはラッシュを見、そして再び風景を撮った。作家と観客と批評家の回路が私たちの内部にできあがり、モーターが唸り、私たちが確かに私たちのまぼろしの日本地図をこの列島の上にあぶり出した時、映画が完成した。それは一種異様なる<風景映画>であった。(松田政男)
均一化した風景がなんでもないものとして目に映る、それは権力の作用によるものだという風景論、新聞や雑誌、書籍販売ネットワークによって国内の言語が均一化していくことと無関係ではありえない。
「記者よ、我々読書子に多くの名著を紹介あれよ。我々は選択に苦るしむ、何故ならば広告文に迷ふて取りよせ内容を読んであまりの価値のないのに涙を出さずに居られないよ」(『読書の友』二巻八号)
明治期、新聞社の読書会の機関誌への、地方の読書過疎地域からの投稿、笑ってしまったけど涙を出さずに居られないよ。
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例えば江戸から明治にかけて存在した錦絵の作業集団とかを考えてもいいし、現代のソフトウェア生産集団を想定してもいい。一定の規準を見たすようなアウトプットを出すために必要なスキルセットが集団的になんとなく共有される。
アウトプットを評価するクライテリアは、なんとなく技能集団内で共有されている。この共有の仕方は、たとえば現代のソフトウェア生産集団だと、ブログや書物を通じての知識の伝達・共有・批判などで共有される(OSSのコードの共有などもなくはないが、その場合でもデザパタのような抽象化がおこなわれなければあまり集団的共有にはなりにくい)。集団的なクライテリアの形成は、錦絵制作集団であれば、他の絵師の出した絵などがだいたい技能者集団で知られているわけで、「芳年の月百姿みたいなのを作りたい」といえばだいたいの評価が共有されている。つまり、アウトプットされたモノとそれを評価するためのクライテリアが、技能者集団で共有されているようにおもわれ、それに身体的なレベルでの「知覚」が共有されるわけではない。
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ふつうに生活しているぶんには、他人と同じ世界に住んでいて、同じものを見ているという確信は崩れることがない。たぶん、それを分断してきたものこそがメディアで、写真を見ることによって共同的な感覚が打ち破られてきた。あるいは、新聞や書物を通じて形成される「日本」という統合性を通じて分断が生じる。メディア上の経験は直接的な経験と異なって、共同体を分割して再統合する。