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松田政男読んだけど、松田の語る「風景」は、映画(メディア)によって産出される風景なのか、都市化による均質化された風景なのかがあいまいなところがネックだとおもう。両方重要だけど。中平が松田の議論をひきとって、メディアによって産出される「風景」の批判をしているのはかなり重要で、 provoke のアレブレボケみたいなスタイルがディスカバージャパンに流用されたことも含め、メディア論的な問題として理解・批判していくのが筋ではないかとおもう。
あとは柄谷行人の「風景の発見」での、制度化された文学によって主体が確立されると同時に「風景」が確立されたという議論も、なんかアクロバティックな操作をしたら接続できそうな気はする。
柄谷のばあいは、主体の確立が風景を産出していると論じるけど、松田は逆に生産された風景に疎外される主体(永山則夫など)を論じている。これは単純に社会運動的な背景の後退を読むことはできるけど、柄谷が意図的だとすると、柄谷は社会運動の基礎をどこに置くつもりなのさというのは思う。
あと松田政男の本でイージーライダーもアメリカにおける風景映画だと論じていたところは興味深かった。あれもアメリカの「風景」から疎外されて旅をする映画だと言われれば、なんか納得はできる。
松田の論じる旅は故郷喪失者の旅で、この旅において旅人はつねに均質な「風景」に疎外される。旅人はどこにも居着くことができなくて、最終的に風景を切り裂くために銃弾を発する。この居場所のない主体が、松田にとってはあらたな革命の主体として把握されている。
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これはたしかに風景論以降だ
https://www.elabo-mag.com/article/20210514-03
現代で風景論を考えるとしたら、デモとストリートだとおもう
「風景論以降」で今井祝雄の信号を撮影した映像がおもしろかったんだけど、「信号を待つ」映像を立ってじっと見るしかないのだが、「信号を待つ」ことも「美術館で立って映像を見る」ことも、すでに空間を規制する制度を内面化している。そのうえ信号が青になってみても、わたしたちは向こうに渡ることができない(=イメージから疎外されている)。
この信号の映像について話していて、ランニングしていたときに歩道ではなく車道の端を走っていたら後ろから来た自転車に「歩道走れよばかやろー」とか言われてむかついたことをおもいだした。「道」は「歩道」や「車道」に分割されているが、いったいなにによって分割されるのだろうか。法の定めもあるわけだが、人工物のデザインによって、法の内面化が進行する。路側帯なんてものがない道なんていまだにいくらでもある。空間に対する内面化された規制は、倫理として受けとられる。
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あと、「風景論以降」を見て、数年前にステーションギャラリーでやってた「ディスカバー、ディスカバージャパン 遠くへ行きたい」展と繋げて考えるとおもしろいだろうなとおもったけど、図録を買っていないのであった(図録が高い...)。