アクターネットワーク入門をちょっと読みはじめて、ようやくいろいろ繋がってきた
いまになって、美大ってめちゃくちゃ保守的な教育やってたんだなっておもいかえしている。絵を描くのがいまさら古いとかそういう話じゃなくて、現代社会を理解していくための基礎教育みたいなものが一切なかったな。
カリキュラム組む側も、なにやっていいかわかっていないからそうなっているんだけど、教育というのは価値意識の再生産システムではあり、こうやって古い価値が温存されてきたんだな。
東博も科博も「時間とれたら」行くようなところではなく時間をつくっていかなければ返り討ちにあうところである
https://twitter.com/museum_kahaku/status/1150033270018494464
芸術とか作品とかいった概念も、特定の社会環境のなかに埋めこまれ特定の価値観を伝えるための概念で、中立性などない。その価値観を再生産するためにさまざまな教育装置があり、大学や博物館、メディアなどを通して「芸術」や「作品」という概念には意味があることが伝達される。批評が「作品について論じるべきだ」といった規範性を抱えるのも、言ってみればなんの意味もない、というよりこの概念を抱える社会にとってしか意味がないことである。作品中心主義というような態度は、根拠づけられるような規範性ではないとおもわれる。
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semver の話どこからきたかわかってないけど、semverの問題っていうか大量の依存コンポーネントが外部にあるようなシステムで、アドホックな互換性の維持は可能だけど、全体の互換性を維持できるようなものはなにもない。部分部分で適切に動作していても全体は壊れているみたいな状況が発生することがある。
ハラウェイを読むための補助線としてサンドラ・ハーディングの「科学と社会的不平等」を読みはじめたけど、これけっこうおもしろいな。文化固有の科学なるものがあるとおもっていなかったから科学におけるポスコロとかフェミニズムとか意味がないとおもっていたけど、むしろ「科学は一つしかない」と言って済ますことじたいがどういう作用をもつのかとか、いろんな問いに開かれている。
科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判
https://amzn.asia/d/h32AZ4R
ユク・ホイ「中国における技術への問い」とかが繋がっているなというのと、ほかは、科学コミュニケーションの問題は科学に外在的なことではないのではないか、とか。いろいろ広げられそうな本だ。