『平成美術 うたかたと瓦礫』展示は見にいかなかったけど、図録を読んでみて、そんなに男性中心主義とか自民族中心主義とかではない。
まあ「デブリ」というチョイスは、椹木の本来の意図としてはchimpom/カオスラウンジ論なんだろうなとはおもう。
『平成美術 うたかたと瓦礫』展示は見にいかなかったけど、図録を読んでみて、そんなに男性中心主義とか自民族中心主義とかではない。
まあ「デブリ」というチョイスは、椹木の本来の意図としてはchimpom/カオスラウンジ論なんだろうなとはおもう。
村上隆とchimpom/カオスラウンジのあいだの切断にどんな美学的な差があるかということがたぶん椹木的な関心とおもわれ、「デブリ(瓦礫)」としてのchimpomやカオスラの前史を「バブル(うたかた)」と言うわけだ。なので、デブリ以降(カオスラウンジ以降)は把握できているとは言えない。というか記述する概念が「うたかた/瓦礫」がchimpomとカオスラを記述する装置である以上、その後を記述することができない。
村上とかレントゲン的なものをわざわざ後退させて平成を振り返ることには、意義がある。マイクロポップのやりなおしであるともいえるけど(マイクロポップは村上の落とし子だがchimpomやカオスラウンジはマイクロポップ的なところもありつつそれだけでは語れない)、それをデブリとして言うのは重要な認識が提示されているようにはおもう。
これが、フェミニズムやポストコロニアリズムという視点から批判されたことには(これらの批判が妥当であるかどうかはともかく)象徴的な意味はある。
https://www.genron-alpha.com/gb060_02/
https://globe.asahi.com/article/14419015
松井みどりが打ち出したマイクロポップ路線は村上隆の落とし子だが、そもそも村上隆の活動をポストコロニアリズムやフェミニズム的に解釈した展開だとおもう。そこから椹木が「うたかた/瓦礫」に転換するのは、村上隆の引力から脱出するためにおこなわれているようにおもう。チンポムとカオスラウンジも村上隆の落とし子だが、マイクロポップではない。椹木史観からすれば震災がマイクロポップを吹き飛ばして瓦礫にしてしまったというわけで、チンポムやカオスラウンジはもともと瓦礫だったから生き残ったということになる。
椹木の態度にナショナリズムを読み込むのは間違っているし、「突然目の前が開けて」のメンバーをキャリアがたりないと切って捨てる危うい操作をすることにも問題がある。こういう方向での批判ではなく、マイクロポップは震災でほんとうに解体されたのかを問うことには意義があるのではないか。
いやマイクロポップはまあいいか。
どっちかっていうと、結局「瓦礫」以降を把握できていないことと、チンポム/カオスラを「瓦礫」と名指すことで歴史化するという操作になっていることに問題がある。反芸術が芸術という制度に依存していたことにたいして、制度としての芸術が解体されたあとにあらわれるのがマイクロポップと瓦礫ということになるだろうが、椹木の操作は(本人が言説としては非歴史的な態度を主張しているにもかかわらず)歴史を構築するための操作になっている。制度としての芸術は終わっていないし、椹木の歴史化もまた制度的なものになっている。マイクロポップにもおなじ問題がある。
でも「突然、目の前がひらけて」とかは、そもそもうたかたでも瓦礫でもない。むしろより構築的なものなのは間違いない。制度としての美術に回収できるようなものでもない。
読んでおもったけど、いわゆるモダニズム(狭くMOMA的な価値観のことを指すものとする)は、本人たちの意図と無関係に美術の制度化を推し進めたとおもうけど、市場には制度としての美術に数えられないような美術ってたくさんある。いまもたくさんあるし、それこそエコール・ド・パリのころの絵も制度的な美術に回収できるわけではない。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hockney-yoichi-umetsu-review-202309
梅津に問われてしまう主体も制度としての美術の相関物でしかなくて、制度の外には問われるような主体もない。ただ、冒頭にあれこれ書いているように美術メディアの拡張で制度のほうが広がっていると言えなくもないわけで、ここでまんまと梅津のいうとおり「主体」を問いはじめてしまえば、それこそ制度の一部になっていく。
梅津のこのレビューはおもしろいけど、観客がふだん見ていない楽屋を提示し、巨匠にたいする観客という読者の位置付けを崩して、観客でなくなった何者かに「おまえの主体はなんなんだ」って問わせているわけだけど(こんな問いに当然意味があるはずもない)、手札を開示し楽屋を見せホックニーの大衆性を強調すること(これも楽屋から見た視点なのだ)などなど、どれをとっても共犯関係をむすぶための告白で、文章うまいぶん本当に信用ならん書き手だなとおもった。
おかけんが途中で唐突にディスられるが、こういうのも一部の人には効く物言いで、「岡崎って人がいつもすごく偉そうなこと言ってるけど絵はおもしろくないよね」ってそういうのに溜飲を下げる人はいくらでもいる。それこそポピュリズム的な物言いではあるし、こうやってダシにするのは素朴に敬意ないんじゃないのとはおもう。
ちなみに、私見では岡崎作品は制度的な美術というよりマイナーアートとしての良さがあるとずっとおもっている。デカい作品でいいなとおもったことがないけど、小さい作品はだいたい良さがあって、それは制作方法とかなんとかからでてくるというより、感性の問題だったり、岡崎さん自身の器用さに起因しているとおもう。彼の言論活動から来るモダニストとしてのイメージとずいぶん違って、職人の延長みたいなタイプだとおもう。
自分としては岡崎作品についてはこんなイメージだから、梅津が岡崎作品を美術制度的な文脈で読もうとしてつまらないと断言するのは、制度としての美術にくわしすぎてそのようにしか読めなくなっているんだろうなとおもう。
長々とアレだが
「そんなことを繰り返していてわたしたちの「美術」の営みはいったいどこに蓄積され得るのだろうか」このへんの梅津の記述は「悪い場所」(椹木野衣)を踏まえていることがわかるが、梅津の制度的な美術理解を鑑みるに、悪い場所論じたいが制度としての美術と依存関係にあるようにおもわれる。
これは「平成美術」についてのメモ。
https://scrapbox.io/tenjuu99/%E5%B9%B3%E6%88%90%E7%BE%8E%E8%A1%93_%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A8%E7%93%A6%E7%A4%AB
まだ論点が整理できないけど、「悪い場所」は行きつく場所が制度にしかないのではないか。それはカオスラウンジがインターネットカルチャーをアートにアプロプリエーションすることで成り立っていたのと同じことなのではないか。この件はいずれ主題化して考えたい。