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「広告を一方的に配信する」というのはながらく続いたモデルだけど、今後は「広告を受信する」側からどんな広告を見たいか選択するようなシステムになるだろう、というのはおもしろいしかなり説得的な内容だとおもう。
—— ターゲティング広告はこれからどうなっていくとお考えですか。
高木: おそらく、relevancyの原則に沿ったターゲティング広告しか許されないよう、追い込められていくと思います。そうなると、生き残るのは「広告カスタマイズサービス」のような事業ではないでしょうか。つまり、広告を見る人が自分の見たい広告を指定する仕組みになっている広告システムです。その方が広告の効果も高いように思えるのですが、そのようなシステムが出てこないのは、無法に広告を見せつける現状のシステムの方が儲かるため、生き残れないからではないですかね。EUの規制によって無法広告システムが淘汰されれば、そうした本来の理想的な広告システムが事業として成立する世の中が来るかもしれません。 https://cafe.jilis.org/2022/03/18/160/
UXという用語や体系に、広告をよろこんで受信する主体というものがまぎれこんでいなかったか、検討する価値はじゅうぶんある
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「植物に知性はあるか」という問いって、答えがあるかどうかというよりゴールポストを動かそうっていう話なんですよね。自分たちは知性というものを知っているように考えているけど、じっさいにはなにが知的な振る舞いなのかって定義できないので、自分たちが「知的な振る舞いだ」と認知しているものに知性があると認知している(おかしい)。そうすると「知性がある」という問題は「知性があるという認知」という問題にすりかわる(そもそもこれがチューリングテストだとおもう)。知性があるという定義を知性があるという認知の問題にすりかえるのが、知的に不誠実だということになるならば、知性とはなにかについて定義する必要がある(一休さんみたいな)。
こういうケースで私は外延的に性質を追究する傾向があって、たとえば「私は植物に知性がある/ないと思う、なぜならhogeのような感覚/類似事例があるからだ。故に知性があるという状態とはfugaという性質を満たしていると考えるのが自然であると主張したい」みたいなことを考える。
別の言い方をすると、ある主張について、そうであると考える理由とそうでないと考える理由を集めて、自分がどれに説得力を感じるかを確認することで、自分の価値観において重点が置かれているのがどこなのかを把握するという内的な模索こそが、この形での議論の本質だと思うのよね
@tomoki notion とかがノーコードで簡易データベースアプリみたいなものを作れますが、デプロイしないでいい(あるいは、そういう環境を構築しないでよい)というのは楽だなとおもいました。
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GPT-3には思考がある/ないかと問うより、それはどういう学習プロセスであり、それに対して人間はどういう学習プロセスであるか、という問いをたてるほうがたぶん実りがある
@tomoki たとえば、sshで本番環境にはいってコードを直接編集する、というのとは感覚はかなり違います。サーバーというものやソースコードというものの実体が見えなくて、アプリケーションの上にアプリケーションを構築する、ということになるので。メリットというよりは感覚の違いで、でもこの違いがあると、コードを書くのがめんどくさい手続きに感じられるくらいにはけっこうおおきいとはおもいます。
@tomoki どうなんでしょうね。ものによるというか、かなり制約されよく設計されたDSLがあり、それに対するIDEサポートがあるのであればコードでもという気はしますが、汎用プログラミング言語がWebUI上からいじれるだと、「もうちょっとGUIを作ってくれ〜」の気持ちになるか、「Vimで書きたい...」のどちらかになりそうな気はします。
kintoneでポチポチするのがめんどくさいのは、わかります。自分のばあいは、それをコード表現で記述したいというより、もっとUIを工夫してほしい、みたいなのになります。
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あー、クオリアと哲学的ゾンビは言われてみるとそうか。というか、この概念こそ、まさにAI研究の流れから活力を与えられている概念だとおもう。たぶん、カントの時代に「クオリアはあるか」とか哲学的ゾンビという概念をもちだしても、誰もその問いの意味を理解できないとおもう。
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WBCの大谷vsトラウトみたいなマッチアップ、日本では「漫画かよ」っていう反応だったけど、アメリカでは「これは映画だ」みたいな反応で、まあそれはそうだよなとおもいつつ、似たような反応だけどけっこうイメージするニュアンスは違うんだろうなーとかふつうのことをおもった。
「分解しないでください」というシールとして精神に神聖性を貼り付けている
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自由意志も思考も、自分の近代哲学理解では「存在するもの」ではなく「存在すべきもの(当為)」なんだよな。(思考は実在するかはちょっと難しいのでいったんおく)自由意志は、それがないとある行為の責任というものを帰属させる先がなくなるので、法律が無意味になってしまう。
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人間の生誕や成長のあらゆる過程は物理法則によって決定論的に縛られているのであって、意思というのもまた体内での化学反応の帰結に過ぎないのだから、すべては人個人が生まれる前の物理的な状態から必然の帰結として起きてしまうものであって、そのような事前の環境の束縛から脱する真の “自由意思” は存在しない、という世界観は合理的ではあると思う
ただまあ、実際に社会をより苦痛の少ない形で運用しようとすると、人間には自由意思があるゆえに犯罪で個々人が罰せられると人々が信じている方が都合が良いわけだけど。倫理的にどうなのかはさておいて。
これまさにカントの問いですね。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/ATsNBEdRwswHc1wmhM
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自由意志は実在するかどうかって実在のレイヤーで問うてしまうとどうやっても答がでない問題で、自分がここで書き込んでいるのも神のおぼしめしなのか悪い悪魔のたぶらかしなのか、外形的にはなにも言えない。けど、実在ではなく当為の領域の問題としてあつかうことではじめて、「いま自分にはこのようなことが為し得る」ということに意味がある。客観的に云々する問題としては、どうやっても意味がある問いを構成できない。
自分には自由意志が存在するからこれこれのことを為し得る、ということではなく、これこれのことを為し得るためには自分には自由意志がなければならない。
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一時期のアメリカ精神分析はまさに「故障した機械を叩いて直そうとする」ようなものだったそうな。フロイトの娘かなんかがやっていたはず。