あたし魔女のキキ!こっちはVMのディスクを別SSDに移動しまくってたらAPI応答が無くなったProxmox VE
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「植物に知性はあるか」という問いって、答えがあるかどうかというよりゴールポストを動かそうっていう話なんですよね。自分たちは知性というものを知っているように考えているけど、じっさいにはなにが知的な振る舞いなのかって定義できないので、自分たちが「知的な振る舞いだ」と認知しているものに知性があると認知している(おかしい)。そうすると「知性がある」という問題は「知性があるという認知」という問題にすりかわる(そもそもこれがチューリングテストだとおもう)。知性があるという定義を知性があるという認知の問題にすりかえるのが、知的に不誠実だということになるならば、知性とはなにかについて定義する必要がある(一休さんみたいな)。
知性がそのまま定義できないなら操作的に定義できるようにしちゃえ!みたいな。
こういうケースで私は外延的に性質を追究する傾向があって、たとえば「私は植物に知性がある/ないと思う、なぜならhogeのような感覚/類似事例があるからだ。故に知性があるという状態とはfugaという性質を満たしていると考えるのが自然であると主張したい」みたいなことを考える。
ただこれは「strict で exact な定義をできないことを前提として共有したうえで、議論の参加者がどこまでを知性の可能性があるとして同意する/認識するか、領域を狭めたり広めたりする」ということで、言ってみれば最初から “正解” を諦めた撤退戦の次善策ではあるよね。それが納得いかないという人もいるのだろうとは思う。
せめてこれは撤退戦であろうという、その次元での共通認識を持っていないと、おそらく建設的にはならない
別の言い方をすると、ある主張について、そうであると考える理由とそうでないと考える理由を集めて、自分がどれに説得力を感じるかを確認することで、自分の価値観において重点が置かれているのがどこなのかを把握するという内的な模索こそが、この形での議論の本質だと思うのよね
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489739031804728
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ソフトウェアエミュレーションしてたやつを最新ハードの実機で動かしにいくの、アツすぎる
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カナリアスキップ @ フリーBGM DOVA-SYNDROME OFFICIAL YouTube CHANNEL https://youtu.be/Ul-ZPV_9jPw @YouTubeより
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GPT-3には思考がある/ないかと問うより、それはどういう学習プロセスであり、それに対して人間はどういう学習プロセスであるか、という問いをたてるほうがたぶん実りがある
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あー、クオリアと哲学的ゾンビは言われてみるとそうか。というか、この概念こそ、まさにAI研究の流れから活力を与えられている概念だとおもう。たぶん、カントの時代に「クオリアはあるか」とか哲学的ゾンビという概念をもちだしても、誰もその問いの意味を理解できないとおもう。
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「中国語の部屋」がイメージしているものは、哲学的ゾンビなわけだろうし。
「植物も “悲鳴” をあげる」云々とかいろいろ胡散臭い言葉遣いの話はあるけど、結局のところそれも意識の構造というかクオリアみたいなところに帰着するのだと思っていて
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人間の精神が神秘なのではなく、人間が精神を神秘のままにしたがっているのかもしれない
「分解しないでください」というシールとして精神に神聖性を貼り付けている
であれば、人間の行動のメカニズムを暴いたり内心や価値観を解剖していく行為は、人間から人間性を剥奪する行為としてレッテルを貼られる危険性がある
だいたい人間の特殊性の話への個人的な感想がこれに帰着するので †人間性† のオワをいつも感じている
人権概念は尊重しようとは思っているが、それはそれとして人間を神秘的で神聖なものであるとは捉えていないので、しばしば一般的な価値観との摩擦を感じる
Introducing #MozillaAI : A startup — and a community — building a trustworthy, independent, and #OpenSource AI ecosystem.
https://blog.mozilla.org/en/mozilla/introducing-mozilla-ai-investing-in-trustworthy-ai/
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自由意思は政治的な問題を避けては語れないので、複雑性のみを論点にして出す例としてはちょっと雑念が入りすぎるよなぁ。社会性を破棄して考えるなら言いたいことはまったくよくわかるが。
同じ物理法則に従って粛々と変化しているのに、我々が水素分子や電子計算機に権利を与えず人間に与えるのは何故なのか。その本質的差異は何なのか。その基底にある必然性のない信念、信仰。
他人に制御されることのリスクを嫌うがゆえ人間に権利を与えたがり、その裏付けとして人間や精神に神聖性を与える、その基盤として自由意思を存在するものとする前提を設定している。
人間の自由意思を持っていてそれを尊重すべきだから社会が権利を与えているわけではなく、社会が権利を与えるべきとする言い訳に、ある時代には創作の歴史による神聖性を使ったり、また別の時代には自由意思があるというイデオロギーを使ったりしている。
生命を “神秘” 扱いして分析と解剖を拒む限り、人間が実在と肉体に伴う根本的な苦痛や問題を乗り越えることはできないんですよね。
現状の「人としての尊厳」の説得力は得てして神秘性に依拠しているところがあるので、まずは人権などの拠り所を “神秘” ではない何かに挿げ替える必要があって、本当の問題解決はその後のフェーズになると思っている
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人間の生誕や成長のあらゆる過程は物理法則によって決定論的に縛られているのであって、意思というのもまた体内での化学反応の帰結に過ぎないのだから、すべては人個人が生まれる前の物理的な状態から必然の帰結として起きてしまうものであって、そのような事前の環境の束縛から脱する真の “自由意思” は存在しない、という世界観は合理的ではあると思う
ただまあ、実際に社会をより苦痛の少ない形で運用しようとすると、人間には自由意思があるゆえに犯罪で個々人が罰せられると人々が信じている方が都合が良いわけだけど。倫理的にどうなのかはさておいて。
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「4つのなぜ」を感じる (<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%81%AE4%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%9C>)
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あの出来のゲームを作っといて公式でこういうグッズを出して笑い者にするのはあまりにコンテンツ作りに対してのスタンスがアレでは、と思ったけど、一応企画はサードパーティで開発元はライセンス認定だけしたという感じなのかな。たぶんそうだよなぁ
これを笑い者にしていないというのであれば企画立案側のプロ意識か相当の能力がないということになるし、いずれにせよダメっぽい
まあ第三者がお祭りをする分には、まあそういうものだよねという感じがある (そこは割と寛容に見ている)
言語化が難しいけど、何事もそれなりの規模があればピンキリであることは避け難いし、そのどちらの端について騒ぎ立てる行為であってもエコシステム全体を盛り上げる試みの一環として対等に見ている、という感じ?
つまり対象がエコシステムになるか制作行為になるかという点で、当事者であるかそうでないかというのはかなり大きな違いになっているというか
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自由意志も思考も、自分の近代哲学理解では「存在するもの」ではなく「存在すべきもの(当為)」なんだよな。(思考は実在するかはちょっと難しいのでいったんおく)自由意志は、それがないとある行為の責任というものを帰属させる先がなくなるので、法律が無意味になってしまう。
自由意志は実在するかどうかって実在のレイヤーで問うてしまうとどうやっても答がでない問題で、自分がここで書き込んでいるのも神のおぼしめしなのか悪い悪魔のたぶらかしなのか、外形的にはなにも言えない。けど、実在ではなく当為の領域の問題としてあつかうことではじめて、「いま自分にはこのようなことが為し得る」ということに意味がある。客観的に云々する問題としては、どうやっても意味がある問いを構成できない。
自分には自由意志が存在するからこれこれのことを為し得る、ということではなく、これこれのことを為し得るためには自分には自由意志がなければならない。