ネゲヴ…
この1週間のかなりの時間を星川リリィについて考えて過ごしてきたわけだが向こう1週間は二階堂サキについて考えて過ごすことになった
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ふむっ | ローマン体がセリフ書体とは限らない – 世界標準のスペック英語
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今日もマルゲリータと赤ワインで完全勝利してしまった.人間食事でここまで幸せになれるものかというくらい美味い…
この関連は本当によくシンポジウムが行われる|Galeシンポジウム2018「デジタル人文学への誘い」開催のご案内
Kennedy, D.(2000), Making a Text of the Universe: Perspectives on Discursive Order in the De Rerum Natura of Lucretius, in: Sharrock, A. and Morales, H.(edd.), Intratextuality: Greek and Roman Textual Relations, Oxford University Press, 205-225.
『事物の本性について』を,無際限な森羅万象をテクスト内という有限な範囲に描き出そうとする試みとして捉え,ルクレーティウスが宇宙とテクストを類比的な仕方で捉えているとする一連の議論に乗った上で,この作品中で宇宙がテクストとしていかに取り扱われているかを論じる.
原子論の視点からすれば,原子の集成である世界が「意図をもって設計されている」という考え方は受け容れがたい一方で,ルクレーティウスは宇宙を単なる無機的な存在としてではなく,擬人的な(あるいは生命的な)仕方で捉えており,その一端を著者は「自然natura」や原子を呼ぶための語彙「種子semina」「(物)体corpora」に見る.
神(々)による支配という宗教的要素を排除することを眼目としながら,『事物の本性について』にはしかしそうした要素に由来する考え方も備わっていると指摘している.
ルクレーティウスの場合原子と文字の喩えが単なる思い付き的な方便ではなくて,詩によって世界と世界を説明する理論を語るという上位の記述意図と関連しているのは確かだろうけれども,そうすると無目的な原子の集合離散としての世界と意図を持って制作された詩とを重ね合わせうるかという問題が出てくる.
Kennedyの結論は読んでいて必ずしも納得しきれるものではなかったけれども,ルクレーティウスが宇宙を生命的に理解しているらしいという指摘は大事なのだろう.
多分,
(1)文字――詩
(2)原子――世界
というだけではまだ不充分で,後者が「生きた」存在としてひとつの有機的なまとまりを成しているわけだから,前者にもそれを生に準える発想があれば両者を重ね合わせていると考える積極的な論拠になりそう.
そうするとエピクーロス派の哲学者で詩人でもあったガダラのピロデーモスが用いた,人生を書物に準えるという割と新しいらしい考え方を持って来るのはあながち的外れでもないかもしれない.
https://www.stromateis.info/interpr/Philod/Philod_17.html