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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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私は「保守化」してるので、保守的な意味での「多様性や寛容こそが保守の美徳」という物言いに一定の理解はあるし、ないリベラルはヤバいと思うけど、問題は保守がきちんと保守じゃない、単に無思考のアマルガムだってことだと思う。
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みんなそんな「多様性」って言葉嫌いなんだ……。言いたいことはわかるし、自分自身、多様性って使うかというとあんまり使ってる記憶ないけれど、なんか特定の言葉使ったらそれはおかしいみたいな話には「問題があるのは確かなのだが、そこか?」となる。
多様性言うても大事だし、「多様性を肯定する」ことと「既にそこに在る」こととは何も矛盾しないし。問題なのは「多様性」という言葉で実は「自分たちが認めた多様性」を、それだけを意味してるからなのでは。
ハッキリ言って「Xという言葉を使うのはダメ」的な話がどんどん積み重なってくと、話がどんどんおかしな方向に行ったりするので、警戒してる。「トロッコ問題はあんなの考えるだけダメなんだ」とか「哲学者様の思考ゲーム乙」みたいなん、少なくともSNSで観測してるかぎりめちゃくちゃ多くて、きちんと物考えたのか?と言いたくなる。
とか言うと、また早急だから、「多様性」って言葉が使われてなぜ嫌かって言ってる人たちのインサイトを否定してるように取られたりするわけでしょ。そんなこと言ってないのに。SNSっていうか、ロゴスが人類には早すぎたのかもしれない。
「多様性」が「お前らが認める多様性」でしかないなら、「人権」だって同じような概念だったりするし、「人間性」だって同じような概念だったりする。言葉には危険性があるのでそれを指摘することは大事だと思う。だけれど、なんかその言葉使ったらもう自動でこれこれ判定みたいなの、SNS的な言説には多すぎて、どんどん思考が不自由になる。
指摘はもっともで元の文脈を理解してれば「そうだよね」なんだけど、それが広がるにつれたとえば「人を殺したらなぜいけないのか、そんなことを考えること自体がそもそもいけない」だとか「多様性って言葉使ったらこれはもう差別への加担」とか極端なってく感じを自分は最近はすごく警戒するようになった。
「哲学者の知的ゲーム」って言い方にもすっごいイラっとしてます。すんごい失礼じゃないですかね。他人の学問や思考を揶揄する目的で「ゲーム」て。
左翼やリベラルってプライオリティつける話をすべて極端に嫌うけれど、現実はプライオリティつけざるを得ない場面ばっかり。その時に直感的な判断だけで場当たり的に決定ばかりしてたら果たしてそれは正しいのか?となる。だから議論しやすいように整理するため、ある種の形に議論を整えて思考実験をするのだけど、「他人をネタにして実験とは何事か」とか言われるわけでしょ。で、そう言う人に「じゃああなたはどっちを選ぶんですか」というと「どっちとかではない!」とか言う。どちらのほうが知的にも倫理的にも誠実なんですかって話だよ。
もちろん思考実験って危険もあって。本来は捨象しちゃいけない設定を論者が自分の価値観に気づかずに都合よく話を切り取ってたりバイアスが反映されたりする。そういう指摘や批判はすっごい大事だけれど、それができるのもきちんと思考実験して立論したからなわけであってさ。
私が言いたいのは伝わってるとは思いますけれど、特定の言葉が特定の誰かにより特定の誰かに使われてくそのあり方への問題や違和感の指摘が、「そっか。この言葉はダメなんだ」といったよくわかんないけれどNGなんだなって感じでSNSを通じてまさにディスクールとして波及してくことの危険性なんですよね。
「人権は疑ったらもうその時点でダメ」とか……。私は人権の有用性は一切否定しないし(当然やろ)特定の文脈で人権なんていらないんだと言われたら声を大にして反対するけれど、「人権って本当に必要なんか」とか「人権である必要あるのか」みたいな疑念はある種の知的探究心からすれば「持たないとおかしい」とすら言えると思ってる。だって人権概念なくても同じことができるみたいな立論や、「人」権であると最初から規定してしまうのはよくないといった考えだってあるはずだから。
でもこういうことは言うだけで危険扱い。「あの人もバグった」とかなーんも考えないでえらそーに「安全に投稿シェアしていい人リスト」から削除したり、ミュートしたりするんだよね。
他方で「安全」な主張だけしてればインプレッションは稼げちゃうし、ソーシャルグラフも安泰なわけでしょ。バカバカしくて。
永井均批判に引っかかってるのも似たような理由。雁林なんかとワイワイやってて「はーあ」となったりもするし他にも引っかかりはめちゃあるけれど、『なぜ人を殺してはいけないのか』みたいな話が、いよいよ哲学的にすらできないような土壌になったらおしまいだろと思ってる。
江戸時代の大飢饉のときの餓死者数、藩で数万人とかですごすぎるな...
どうしてコスパやハックばかりに意識が行き、社会変革へと向かわないのかってのは社会変革されないじゃんって思ってるからだろう。実はそんなこともないのだけれど。
なんかTwitter降りてから、別のSNS使ってるんだけど、同じこと繰り返したくないんだよね。だからなんか別の道ないのかと思って、間違ってもいいから、間違いながら他のルート(とその不可能性)を発見していきたい。既存の自分たちにない言説資源にもきちんとアクセスしていきたい。そういう気持ちで福田恆存とか読んでる。読んだ?
性差別的な話とか平気でしてたりもするので「ケッ」と思いながらも、自分は「なるほど」と思うこと、一部の保守に対してありますけどね。なんか「保守」のイメージがただのネトウヨや杉田水脈にばかり偏りすぎてる気がする。同じことを相手もやってる。一部の「ラディフェミ」(はいはい)がおかしいから左翼はダメだ(?)みたいな意味不明なミラーリング。
他人はなかなか変えられないし、自分ですらなかなか変えられない。だけれど、保守思想の本読んだり、ヴィーガン食してみたり。体験で見え方が変わることって、自分みたいなカチコチの中年でも結構あって、諦めちゃいけないなって思う。
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今、でも「政治思想」が「商品」になってる矛盾があるでしょ。そのことに自分は結構引っかかってる。フェミニズムに貢献するカフェとか、特定の商品を置かない店舗とか、投票行動促す商店とか、検索するだけで海がきれいになる検索エンジンとか。斎藤幸平は「SDGsはアヘン」って言うけど、それならその手の「消費行動による政治」についてはどう言うのか気になる。
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SNSで何か言うとすぐマウンティングになってしまう、されてしまう感じがどうしてもどこかあって、なんかそれもダルかなってきてしまい。だから自分は「全世界に向けた公開ノート」をScrapboxに書いてくのが気に入ってる。Twitterでは17000人フォロワーいたし、よくバズってたけど、その尺で外部で書いたらだーれも読まないんだよね。「そういうことだろ」って思ってる。
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インプレッション報酬型SNSがどういう末路を迎えるかの実例になりそう。
X(旧Twitter)からのトラフィックは「大半がボットによる偽の数字」であるとの調査データ、Instagramの1%未満に対してXは30%超から期間によっては70%超まで跳ね上がる
最近、読書、スマホでばっかりしてる。以前はスマホは嫌で、KindleかMacbookで見てたんだけど、スマホの文字サイズを大きくしたら俄然見やすくなった。加齢......。