成田商店 https://scrapbox.io/eyehatesns/%E6%88%90%E7%94%B0%E5%95%86%E5%BA%97
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
この変化に驚いてるし、すっごく重要な変化だと思うのだけど、もうすでにとっくに「変化」とすら感じてない人が大半の世の中になってるなと。
1人以上2人未満 https://scrapbox.io/eyehatesns/1%E4%BA%BA%E4%BB%A5%E4%B8%8A%EF%BC%92%E4%BA%BA%E6%9C%AA%E6%BA%80
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ずっといろいろ松本人志について書いてきたのをまとめた。松本の才能によって可能になってるのが上納システムなのだから、その才能を適切に認めることからしか問題について論じることはできないと思う。
松本人志 https://scrapbox.io/eyehatesns/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%BF%97
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このように、従来の行の一切から見離された凡夫の自覚こそが、本願念仏を見出したのである。さきに本願念仏という救済原理があって、そのために凡夫の自覚が必要になるのではない。凡夫の私という自覚がまずあって、このような凡夫を救いとってくれる教えはないものか、と悲痛な叫びをあげてはじめて、阿弥陀仏の本願が仰がれてくるのだ。この順序は、浄土教にとっては、大変大切な点である。法然は、そのことを口をきわめて説いている。
阿満利麿. 法然の衝撃 ──日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (p.68). 筑摩書房. Kindle 版.
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そもそもマンガ原作のドラマ化を喜ぶ人の気持ちがさっぱりわからん。「作者にたくさんお金がいきますように」以上の意味ないでしょ。(極論)
法然は本当にすごい。凡夫としては阿弥陀仏の本願念仏を唱えるだけで救われると言われると、信じたくなるが、でも凡夫だから「いや、なんで阿弥陀仏にすがれば浄土に行けるのかロジックが納得できない」とか「本当に阿弥陀仏が実在してなかったらどないするん」とか思ってしまうのだが、それは逆で、要するにそんなことを思ってしまうのは、阿弥陀仏を信じるしかないほどの必要性をまだ認識できていない、すなわち「自分が凡夫だとまだ理解できていない」「自分が凡夫だとの認識が不十分」ということなのだ。
キリスト教だって同じだろう。イエスのおかげで罪が.....なのだが、そういう因果の順番(時間軸)とは別にロジックの順番が大事で。それくらいのことがないと救われないほどの凡夫の自覚があるのかどうか。
思えば、凡夫の自覚もまた、凡夫にはむつかしい。なぜなら、凡夫とは、最終的には、なにごとにつけても自己に執着し、自己の快楽を求めて生きる、自己本位の人間のことであり、その人間が、自らの自己本位の悪に気づくのは、よほどの自己凝視がないと不可能だからである。自己本位の人間であればあるほど、自己凝視は苦手となる。とりわけ、知識人や政治家等、あるいは努力家といった、自負心の大きな人々は、凡夫であることの自覚がもちにくい。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.68-69). 筑摩書房. Kindle 版.
「ちから及ばず」とは、法然の思考の特徴をよく示している表現だと思う。たとえば、津戸三郎への手紙では、念仏を信じない人になんとかして念仏の教えを信じさせようとすることはさけたほうがよい、と書いている。なぜなら、不信のものを信じさせることは、阿弥陀仏でも力及ばないことなのだから。なぜ、阿弥陀仏でも不可能なのか。それは、「縁」が熟していないからである。本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない。 本人に阿弥陀仏を求める心が生じるか生じないかは、その人間の「業」による。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.69-70). 筑摩書房. Kindle 版.
「本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない」とはとんでもない思想だ.....。
念仏さえ唱えれば救われるというと、こんなイージーな救済もない。そう思われるかもしれないが、縁が熟さなければ不信を信に変えることは阿弥陀仏ですら絶対にできない。その阿弥陀仏にすら絶対にできないことをしないと救われない。
では、どうすれば縁は熟すのか。阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫に阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫であるという自覚をするという、ハンター任務達成難易度トリプルSレベルの任務を凡夫が達成しなければならない。でも、それは言い換えると「眠い時は仕方ないから寝たらいいよ。眠くないときに念仏を唱えたらいい」なんだよね。法然、すごすぎる。
自分が今一番おもしろいと思うことが法然だったりトマスアクィナスだったりするのだが、ひょっとしてかなり変なのか?
杉田水脈を「右翼」とか言うとなあ。ドクターナイフを「左翼」とか言われても怒るだろ。、まあ杉田も右翼だけど。
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こういう話ってみんなどれくらい理解してるんだろ。芸能が聖性とともに穢れを持つ被差別性も帯びるって認識すら、昨今の「リベラル」は「基礎素養」として失ってそう。
日本共産党、ついこの間まで原発支持してたし、部落解放同盟とは今でもめっちゃ仲悪いですよって言うと「え??」って結構驚かれる。こういうのもみんなあんまり知らんのとちゃうか。共産党、その功績も過小評価されてるし、その問題点も過小評価されてる感じする。
天皇制についても結論として「否定」というのはわかるし、自分もそうだけれど、じゃあなんでそれでも「天皇陛下万歳」というのか。そういう右翼や保守がいるのか。全然真面目に考えず、「あいつらはバカだから」式で片付けるのとかも、単なる知的怠慢でしかないんだけど、SNSだとそういう意見をほとんど見かけないよね。イージーだよなーって思う。
松本人志の件も、芸能の被差別性や、中でもお笑いの「格の低さ」から、「いや、笑いってすっごい理解するのに知性いりますよ。あなた、だって笑う能力ないじゃないですか(嘲笑)」って笑い【も】投げてくる松本人志が出てきて世界を変えてしまった。変わった世界しか知らない、理解できてない人が「そもそもお笑いというのは強きをくじき弱きを助くものであって」みたいな、犬も食わないしょーーもない話をする。なんていうか言論全体が歪んでるんだよね。
そういう人の世界観では、松本人志やジャニー喜多川のような「イカれた個人」が悪いことをしたから、それを糾弾だけすればいいって話になる。それでいいとか、まあ、あなたは溜飲下がるだろうし正義でいられてキモチよすぎるんだろうけど、ほんと単に不誠実じゃないですかね。
私は理性を信じてるし進歩も信じてるし、真理も信じてる。けれども、その限界や「進歩が退化を生む」「真理が虚偽に権力を付与する」「理性が非理性という形で抑圧を生む」といった逆説についても深い反省がなければ、それこそ20世紀の歴史を踏まえてないし、人間に進歩がないってことになってしまう。理性には限界がある。人間の理性はその限界を理解することにも使えるはずだ。
みんな誰かのウェブ記事や、他の人のSNS投稿をベースに「思考」してるらしいんだけど、自分はもう最近、他の人の投稿とかほとんど見なくなってしまったんだよね。くだらないから。くだらなというか、全然考えてない。答えの引き写し。で、なんか言った気になっちゃう。似たような答えを出してしまったり、その中心となる投稿やウェブ記事に沿ったことをこちらも言っていると解釈してしまう。だからいくら何を言っても言論がこちらの望む通りに流通していかない。流通させたければ、SNSの言説流通を逆算してこちらも球を投げなくちゃいけないらしいんだけど、もうそういうことをすることに何の意味もないってさすがにわかってしまっているからな......。
一応言っておくと、私は別に芸能の被差別性をもって松本人志やジャニー喜多川を擁護できるなどとはこれっぽっちも考えてない。むしろ逆なのだが、そういうふうには理解されてないんじゃないかと思う。
松本人志は天才だが、それは別に松本を擁護するためにそう言っておらず、むしろそのことの問題を指摘する上で「外せないポイント」だと思っているので言及しているのだけれど、どうもこれもきちんと伝わってないっぽい。
天才って「世界を変えてしまう」から。変わった世界のあとから見ると「何が天才だったのか」が理解できなくなる。そういう歴史や経緯といった厚みをもったものの見方ができない人たちが天才によって変えられた世界から、変えた天才に向かって「あんなの天才じゃない。なぜなら俺がわかんないから」と言ってしまう。そういう構図自体が非常に問題だと思ってる。
私は松本人志の①「代わりなど誰もいない」と思っているが=それくらい才能あると思っているが、②それで何かが許されることには微塵もならないのは当たり前だと思っているし、③代わりのないそんな才能をもう今の世の中は欲してないと思ってるし、④代わりがなくても、なくても困らないし現に困ってないとも思ってる。これらはすべて独立のことだし、すべて同時に主張してもなんら矛盾はしないと思ってる。一緒にするから話がややこしくなるというかおかしくなると思ってる。
岡田斗司夫が「ホワイト革命」って概念を提唱してる。芸人だから汚いことしてても仕方ないはもう成り立たない。今、たとえば粗品は女癖悪いというイメージはない。でも彼は「芸人なんてポンコツ」のイメージを女遊びではなくギャンブルする自分って見せ方で提示しているのだけれど、これも近い将来「ありえない」になると思う。料理研究家のリュウジも自分の「ダメ人間」アピールに酒好きを使っているのだけど、料理しながら毎回毎回酒を飲む動画、これも近い将来NGになるだろう。アルコール中毒で何人死んでると思ってんねん。
一つ一つ「汚いもの」が消えていくこと自体は単純にいいことでは?と思うのだが、それらが進むところまで進んだ世界で、果たしてそもそもが汚い本性を持ったある特定の生物種にとって、そうした世界がユートピアになる保証はない。ディストピアでは?という疑いすら持てない人たちの言うことに価値なんてないと思う。
もっと言えばその才能を才能として評価することと、私がそれが「好ましい」「好き」「気に入ってる」かどうかはまったく別。
「PするなんてXはもう見ない/聞かない/買わない」。不買運動や選択的な購買行動には一定の政治的効果はあるんだろうし、大事なことだとは思うし、自分もそうした選択を意識してすることはある(温室効果ガスや動物倫理の観点から肉食をやめて1ヶ月が経つ)。
が、商品やサービスの購買行動が政治的行為だとみなされていく中で、「政治の商品化」が進むことに疑問も持っている。不買=反対運動、購入=買って応援、支援、エンパワメント。すべてが資本主義の金銭として取り扱われ、政治行動が「商品」になっていく違和感。 その過程で結局、自分たちの「政治運動/商品購買」や「言論/サービス利用」を可能にしているプラットフォーム自体は疑えない、疑わない「知性」が育まれているというか。プラットフォームに対するオルタナティブの可能性を意識すること自体を抑圧してるというか。
利便性や効率、サービスそのものの質で言えば圧倒的なAmazonではなく、「エシカルな」個人商店で何かを購入する。政治的価値という差異があるからだが、機能上は同じサービスや商品を「異なるもの」とすることで欲望を喚起するのが、まさに無限に「商品」を生み出す資本主義のロジック、原理にもなっている。そこに対する反省がどんどん見えなくなっていってしまうっていう。
写真は石川優実らが運営しているフェミカフェで提供されているケーキ。このケーキと機能的にはほぼ等価なケーキはこの社会に無数にあるだろうが、ここに一本「FUCK THE 家父長制」のつまようじフラッグを立てるだけで、そこに差異が生まれ、欲望が喚起され、金銭で交換がなされる「商品」が新しく生まれる。ユーザーの主観的には性差別への反対や、女性蔑視的な社会に抵抗する者たちのエンパワメントになっているのだが(そのことを否定はしない)、それが客観構造的には資本主義の商品増殖のロジックとぴったり重なりあってしまう。
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私は石川らのことは嫌いだし(Twitterで一悶着あったのでw)、現在の彼女の活動をまるっきり評価していないが、でもそういうことを一切抜きにして、このケーキが醜悪に見えてしまう視点があるんだよね。大変おいしそうなチーズケーキなんだけれども。それは上で書いた通り、一時期の思想的潮流にはよくあった「差異が生み出す商品と資本主義」という観点に対する反省的な視点が一切見られないからだと思う。
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恵方巻き、セクハラとかそっち方面ではなく、大量廃棄出るコンビニカルチャーがバカらしいからボイコットしない?
すべてが「正しい」か「正しくない」かだけで決まる感じ、大変息苦しいんだけど、「おもしろい」とか「美しい」とかがわからない人たちからすると、めっちゃ落ち着くんだろうな。余計なこと考えず「正しい」を選んでいけば、ハブられずに済むし、迷わないから。本人たちは自由を求めてると思ってるんだろうけど、それって実は特定の規律に自己を一致させていってるだけだから「自由が怖くて仕方ない」人たちの行動と酷似してく、非常に全体主義的な傾向とも言えるのだけど。
正しい正しくないだけにやたらこだわるなら、特定の事情がないなら、「肉食NG 」が答えになると思うんだけど、みんなやらないよね。自分は「正しい」かどうかで「食べる」まで決めるってことにものすごく抵抗あって今までやってなかったんだけど、いざやりはじめてみたら非常に体調がいいし、料理がどんどん上手くなるので、まだしばらく続けるかも。魚ありのルールなら全然辛くないっす。でも、たまに肉食べたくなったら食べてて、そして気持ち悪くなってます。
恵方巻きに限らず、日本は「食べるもの」を決めすぎ。お雑煮、おせち、七日がゆ、大豆、恵方巻き......土用の鰻に年越し蕎麦。そういうのもじみーーーに「考えない」「みんなと一致させていく」全体主義っぽくて気持ち悪いですけど。
自分が書いた百人一首の解説がめちゃくちゃおもしろい。全然見られてない。見て。おもしろいから。ちなみに自分は書いたそばから書いた内容も歌のことも完全に忘れてるので、自分が書いたものを読んで「そんな読み方するのか」と新鮮に驚いてる。バカなんだか鋭いんだかわかりゃしない。
百人一首 https://scrapbox.io/eyehatesns/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96