いくつかのテキストを読みなおして、マティスのなかで晩年のロザリオ礼拝堂とか切り絵とかを礼賛するむきがあるのは好きじゃないな。初期のほうが断然いい。
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
いくつかのテキストを読みなおして、マティスのなかで晩年のロザリオ礼拝堂とか切り絵とかを礼賛するむきがあるのは好きじゃないな。初期のほうが断然いい。
羅小黒戦記は「かわいいね」とか「よかったね」となるものじゃ最初からないのでは。ある種の後味の悪さがあり、そこがよい作品でしょう。
あとみんな言ってるけど電車の中ね。関係ない他人が声かけるシーン。あそこに感心する人多いよね。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
①人気作品の②ファンダムは③すべてクソですよ。知らないけどそう決めつけて生きてるし、おおよそ間違ってないと思う。
これは作品が悪いとかじゃなくて、多くの人に愛好されるてことは多数のダメな人にまで届くということなので。世の中そんなに賢い人間、味のわかる人間、自分の誤りを認められる人間ばかりではないから。
BTSの評論してた人が「非公式で批評するな」と攻撃されてた問題とか、ハートストッパーでキット・コナーがアウティング強制された問題とか、「そのレベルの良心的コンテンツ、優良ファンも多数いるコンテンツでそれ??」って。
そもそも「ファンダムです!」って自認してる時点で、私みたいな人間からしたら「消費スタイルとしてどうなの?」って感じだし。
コンテンツなんて「おもしろい」か「おもしろくない」か「楽しむ」か「楽しまない」かだけのところを、コミュニティ機能を求めて、他の個人と特定コンテンツのもと一体化しよう、してもそのことに疑問を感じないって時点で「そういう人たち」だと自分は思ってる。
うろ覚えだけど、羅小黒戦記、確か公式が风息の木がその後どうなったか、定期的に発表を続けていたりしてたんじゃなかったかな。コンテンツでそれでもまだ楽しむんかって言われたらそうだけど「後味の悪さをずっと持ち続ける」みたいなことに作品後もこだわっているんだと思う。
This account is not set to public on notestock.
特定の作品に対して一人の愛好者として番を張ればいいんであって。「公式」やコンテンツと過度に一体化するような態度に暴力性がないわけがない。
それでも熱心なファンダム文化がおもしろいのは、あまりの思い入れの強さ、距離ゼロの愛情が「批評を超える」瞬間があるからなわけで。
This account is not set to public on notestock.
Threadsに行ったけど、一瞬出戻ってきた。これから可能性あると自分は思っているけれど、今はとにかく使いにくくてストレスのほうが先に来てしまう。
あ、Threadsのアカウントは
https://www.threads.net/@eyehatesns
です。フォローしといてくだせえ。
SNS上で語られる言葉は「近代的」なのに、その発生原理は「ポストモダン的」な言葉のほうが説明がつくし理解がしやすいっていう「もうほとんど99.9%は移行が完成しちゃってる過渡期」が今なのだけれど、そこで「近代的」な言葉を常日頃から発している人たちに、近代的な原理を説いても、まーーーーったく通じないことが多々あって、そのことに自分はいつも衝撃を受けている。
人権とか差別とか民主主義とか。そういう言葉だけはご立派に「近代的」なんだけど、肝心な近代原理についてはまったくすっぽ抜けてて、話をしても「すっぽ抜けてる」ことが言葉として通じてすらいない感覚。
「本当にポストモダンというやつがやってきてしまうのであれば、「文学」の終わりややり直しについて話すことの意味もまたなくなる。たぶん、この本そのものがもはや存在する意味がない。「感情労働」だけでなく私たちの「私」や「感情」はAIにすべて代行される。そうやって「感情」化社会を終らせる術さえある。なんだかそう書いた瞬間、ひどくぼくは心地良い。そのとき、ああ、ぼくは「文学」に関しては心底、ポストモダニストだったのだな、と思う。」
大塚英志. 感情化する社会 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3084-3089). Kindle 版.
昔、カール・ポパーって人が、科学の営みを「反証可能性」から説明していたが、今の日本の「科学的」とやらは「そういうことによって反論を一切させない」ために問答無用で持ち出されている。意味は「お上に逆らうな」。それ以上でも以下でもない。
いちいち否定的にだけ言及してくる人、初手が「否定」の人って(オンラインに限った話ではなくオフラインでも)いるけれど、主張の前に、そうした行動をドライブさせてる感情や、ディスポジションのほうが気になっちゃって頭入ってこないな。
This account is not set to public on notestock.
長く書けるのが利点のSNSなのに、いちいち隠すの、意味がないと思ってるよ。嫌ならフォロー外せばいいだけだし。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
SNSはそれがTwitterであれMastodonであれ「テレビ」じゃないので。
テレビごしにタレントに対して文句言ってるかのようなマインドで誰かをネタにして遊んだり、「批判」して自尊心満たしたりしてるつもりなら、重いっきりボコられ返されてもまったく文句言えないですからね。ご注意ください。
私は別に真摯な批判や、真面目な反論について何か言ってるんじゃないんです。ただ、私に「やり返してもいい」と思わせてほしくないなって思います。
また、昨日あたりからどうも調子がよくないようで。ケンカ腰のつもりがなくても、どちらかというとすぐ「あ?」ってなりがちなマインドになっております。こちらも気をつけますが、そっとしておいてあげてください。
今回は三宅芳夫もいないので.....。
This account is not set to public on notestock.
「地元最高!」、面食いで惚れっぽいちひろちゃんの百合漫画として(意思の力で)読んではいるけどアレ本来は貧困&スラム不良文化×女の子のガワのマッシュアップの「擬・女の子化漫画」であって中身は男だと思ってる 売春描写が一個も出てこないし(だから安心して純暴力を楽しめている)
オタクの実録風漫画作者自身が女性表象として描かれがち問題に感覚として近い usagi氏の好き飛べ氏の薬物体験レポ漫画もまんまこれだったから地元最高!もその延長だと思ってた
usagi氏が知名度上げたそもそものアートスタイルからしてヒップホップと大麻カルチャー×平成女子高生プリ画文化のマッシュアップだし ガワと題材とのギャップやあり得なさにおかしみを打ち出しているタイプの創作
#マストドンポモドーロ部 つくるので興味ある方はFocus to do ってアプリを入れてお待ちください。
This account is not set to public on notestock.
報酬は出ないけど経歴にはなるから......。「どこそこで何人!!研修!!した!!!」とか。それを「報酬」としろってことでは。もう無茶苦茶すぎるけれど。
This account is not set to public on notestock.
電動キックボードがエコなわけないじゃんな。そんなにエコがいいなら自転車に乗るのが一番だし、シェアするにしても自転車シェアすればいいじゃんね。
This account is not set to public on notestock.
和田秀樹の役目は年寄りに向かって「まだまだ若いことしてええんやで!」って言うことなのかなって思った。
別に全然いいけれど、ローマとかムハンマドとかの話をしていて、特に発達障害の話はしていない。
This account is not set to public on notestock.
重なってるやつ、正直ヤバいでしょ。そういう人たちはおそらく「おもしろいがわからない」のだと思う。だから「正しい」かどうかでしか作品をジャッジできない。
「おもしろい」作品が「正しい」とは限らないし、おもしろいけれど正しくない作品を評価しないことはあるが、それはまた別の話。
「正しさ」しか話できないのは批評でもなんでもないって思ってる。もちろん「正しさ」の話もできない批評も論外。
ポリコレによる作品「読解」なんてほんと簡単でしょ。コードを見てそれにマッチしてるかどうかチェックするだけ。だから作品の「よしあし」わかんない人でも簡単に「作品を論じる」ことが「できて」しまう。
その割に周囲の人の顔色、「空気」見て、ポリコレ的に褒めるか貶すか決めてたりするじゃん。
This account is not set to public on notestock.
mstdn.jpあたりでよく言われてた話なので、他のサーバの人とか関係ないし、なんなら.jpでも好きにやればいいしね。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
どんだけポリコレ的に正しい作品でも、つまらないものはアクビが出るし、そういう作品を見せられた読まされた聞かされたときのイライラや怒りは、ポリコレ的に正しくない作品に触れたときの怒りと、そこまで遠くないですよ。
Mastodonに来てもTwitterと同じで「割とまともな意見」はバカにはわからないので拡散していかないし、シェアしてしまうと、バカに絡まれるリスクをシェア元に押し付けることになりかねないので、最近は遠慮してしまったりする。
あと、ポリコレの「道徳性」が硬直化したとき、ある種のマイノリティやその生存に抑圧的に働く可能性についても理解がないとマズいでしょ。
自分はNeedy Girl Overdoseってゲームを結構楽しんでプレイしてしまったんだよね。「メンヘラ」の「好きピ」であるプレイヤーが「プロデューサー」になって動画配信のてっぺん目指すっていうゲームで。UIやシステム、「バッドエンディングをすべて集める」というシステムもおもしろかったし、ゲームとしては非常によくできていると思ったのだが、先日「精神疾患や女性に対して大変差別的」との指摘を受けた。言われてみればなんで気にしなかったのかってくらいド直球のポリコレ抵触なわけだが、ただそのゲームで癒されてしまった自分がいたんですよね。「どの道通っても詰んでる」お付き合い。それを笑いながら追体験させてくれるところに「癒し」があった。
https://store.steampowered.com/app/1451940/NEEDY_GIRL_OVERDOSE/?l=japanese
「地雷系女子」(公式の表現をあえてそのまま使う)を好きになったり付き合う経験は、主観的には「特殊なもの」「代替不可能なもの」のように捉えがちなのだけど、この作品をプレイしているとそんわけがないということを徹底的につきつけられる。
エミュレートしてエンタテイメントに作り変えられるくらいパターン化し一般化されたものなのだ。そのことでその手のお付き合いは「個人的なこと」ではなく「政治的なこと」ではないか?とすら思わされる。その「つきつけられる」ことで癒されるというか、笑ってしまうというか。
「あの時こうしていれば」「そう言っていれば」傷つけなかったのかな/傷つかなかったのかなという「if」を、リプレイしバッドエンディングを集めることで潰していく快感。ゲーム内の「女の子」に魅かれてるのではなく、メタに「楽しむ」システムにきっちり批評性は、ある。
とはいえ、そのことと制作スタッフ(この場合は主に脚本のにゃるらですかね)の倫理が問われることは矛盾しないし、特定の表象の問題を正確に批判するためにも、プレイ体験やその「おもしろさ」について理解することは決して無駄なことではないと思う。
しょーもない絡みはTwitterでやって。そっちの方が人がたくさんいるし、すぐ相手してくれる人ばっかりでしょ。
排水の話題をするとやたら「科学的!」と言いたがるアホがMastodonですら(笑)わくことが「この話題が単に科学的なものではない」ことを思いっきり証明してしまってるんだよね。
This account is not set to public on notestock.
話してたらなんだか急にゲームがやりたくなり、her storyとcelesteやってる。celesteは自分には難しすぎる。
もう「使い分け」がめんどくさいので、自分の非公開用のScrapboxをそのまま公開しようと思ったのだが、読み直したら、作家や漫画家、評論家への辛辣な評が多く「これをこのまま出すのか......」と臆してしまった。人って「誰も見てない」ところだと思ったことを素直に書くのだな。
李琴峰の作品をボロクソに貶しまくってる......。とはいえ、熱心に読んだみたいで、主要な作品はだいたい読破してたみたい。一部作品は楽しんだみたいだけど。
作品の評価は好みもあるし、なんなら自分で自分の評を読みおわっても「そんな作品読んだ記憶ないんだが」レベルなので、正直「他人による評価」のような気がしないでもないレベルなのだけれど、こういう作品の評価もSNS上ではストレートにできなかったんだな.....と。いかにSNSが言論や批評をつぶしているかを再確認する作業になっている。
政治的スタンスと作品の良し悪しと自分の好き嫌いはすべて独立なのに「悪い」と言っただけで政治的な加害になったり、嫌ってることになってしまう感じ。
川上未映子のこともボロックソに言ってる......。読むと川上も李も、作品ごとにいい悪い言ってるし、あくまで素直な感想を書いてるだけなんだけど。川上の「わたくし率イン歯ー、または世界」を酷評、『ヘヴン』は良作という評価みたい。「みたい」ってほとんど記憶がないから、自分の評を「へー」と思って見てるところがある。
This account is not set to public on notestock.
たかが小説、たかが音楽なんだから、好き勝手に「好き」とか嫌いとか言いたいけれど、それすら自由にならない感じが、最後のほうのTwitterにはあったなー。
みんなが大絶賛してる作品、読んでみてもちっともいいと思えず。ちっともよくないと非公開のScrapboxには書いてあるし、Discordのサーバでも書いてる。サーバでは他の方から「私も......」なんて話は出るものの、SNSだと怖くてそういうこと書けないのよな。この「怖くて」が一体なんなのか、って話。
九段理江、安堂ホセ、遠野遥あたりは絶賛してる。そしてアイン・ランドをボロクソに貶し......。こいつ、ってSNSから見られていないだけの自分だが、正直すぎないか?
てか、すんごい雑なノート、メモレベルとはいえ、これだけ「感想を書いていた」ことにびっくりしてる。
今年に入ってから=コロナに罹患してからの自分はほとんど抜け殻で、何もする気がやばいくらい起きない感じだったので、「もうずっとそんな感じ」だと思っていたけど、そうでもなかったのだな。
「たかが」だからこそ「されど」が生きるし、「されど」ばかりじゃダメなんで「たかが」と言うってことなんだよね。
あと、ネットに公開した言葉が「確定したもの」として受け入れられてってしまう風潮、なんとかならないですかね。
そりゃネットとはいえ、誰にでも見れる=公開されてる言葉ではあるのだけれど、昨今世界は流動化しているわけで。
わざとメモレベルの粗い情報を置いておくんで、そこに思いっきりつっこんでもらったり、「全然この人、作品読めてない」とかツッコミ入れてもらって、それで「なるほど!!」とかで感想が変わってく.....みたいなことやりたくて。そういうことにScrapboxはむちゃむいてると思うんだけど、一般的にオープンにした場合には、そんなふうに流動的なものとして受け入れてもらえないですよね。
そりゃたとえば差別的な言説や思考を「発表」するのは問題だと思うけど、発表するからこそツッコミが入り「なるほど」と学びになるってことがあり。
自分がまったく評価してない作品を【きちんとした論拠をもって】肯定している評とか見ると「なるほどなーー!!」ってなるんですよね。そういうために評論ってあるんでないの?とも思うし。
This account is not set to public on notestock.
しかし去年の自分、なんだかんだ言っても自分の平均的にはたくさん小説読んでるんだな。っていうか、プルーストも読破してるし、えらいな。
ただ、内容は全く覚えてないんだよな。だから、それってこれから何になるの?何をしたいの?って話だったりもする。
去年の自分「ミスチルを一作ずつすべて聴く」とかやっててすごい。意外といい、結構好きと言いつつ、以下のような辛辣な言葉も。
「桜井和寿のこのボーカルもだんだん聞いていて嫌いになってきた。彼の曲の主人公、やたら鏡見てない?そんで「情けない自分」「頼りないぼく」みたいな劣等感を曝け出して歌にするんだが、そもそもそんなに鏡見てることに、言うてもナルシスティックなものを感じてしまい、要するに「鏡見てるぼくを見てよ」「ぼくは鏡見てるようなやつさ。そのことを知ってくれよ」という押し付けがましさでしかない。」
「ミスチルの歌詞って、すぐ鏡みつめたり、窓にうつった自分を見つめたりが気持ち悪いんだけど、「シーラカンス」を歌うとなると、全然違う詩作にもなるので、そういうイヤさが目立たなくなるのもとてもよい。(実際、本作では「mirror」って曲まで入ってる。どんだけ鏡好きやねん)」
言葉は適当だし、論旨は粗いんだけど、本質ズバッと把握してるなあ。いいところはいい!いやなところはいや!すんごい素直で、この書き手は信頼できる(自分)。
勝手に誰かのカテゴライズを踏襲し、いいとか悪いとか頭っから決めてかかってるから、それにマッチしたデータしか得られず、その通りの評を書くんだろう。
自分は心の底からミスチルがどうでもいい。よくてもいいし悪くてもいい。そういう素直な気持ちで聴いたら結構良かったんだよね。結構よいんだけど、なんか引っかかる。その部分をストレートに言葉にしていく。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
というか、子どもに対して間違ってるからって叱りますかと。叱って学ぶなら叱るけど、必ずしもそうだとは......。
もし仮に「あなたの言うことは全部正しい。おっしゃる通りです」ってヘイターに言えば差別が減るなら自分は言いますね。あくまで論理的な思考可能性の話だから現実にはありえなさそうだけど。
ミスチル聴いてみてるけど、私が好きなのはフランクザッパとかREMとかなので。でも、ラブソング好きですよ。いいラブソングってめっちゃいいじゃないですか。問題はそのラブソングのクオリティよ……。木綿のハンカチーフだってラブソングだろうけど、あれ、背後の社会風景(都市と地方、男と女、文化と文明)まで伝わってくるでしょ。
ミスチルのラブソングは「本当に好きなのは相手じゃなくて自分だろう」ということがビシバシ伝わってくるんですよね。その「卑怯」をある種の批評性として見れるかどうか。そこらへんで楽しめるかどうか変わってくると思います。
This account is not set to public on notestock.
誰にも検閲されずに書いたものを公開して、思いっきり検閲されたいという気持ちが。だけど、アホから絡まれたりはしたくないという非常にめんどくさいことを望んでる。
This account is not set to public on notestock.
男性に好きな身体パーツ聞くのはいいとして、「男性は自己嫌悪がすごい」ってこの話、よく聞くんだけど何根拠なんだろ。
自分が最近どんどん「男性」から離れていってる(逃れられてるとは言ってない)のか「男性って」って話されると、まず「データや論拠があるならともかく印象だけで特定の性別がこうだと言うのは非常に危険では」と思うようになった。「女って」なんて話だったら「一つに簡単にまとめんな」になるでしょ。
This account is not set to public on notestock.
以前「バカとエロの大縄跳び」が男性文化だ、みたいな話があったけど、別にじゃあ、自分は吹奏楽部だったんだけど、そこで男子でいっつもエロ話してたかっていうと、もう全然。ほとんどそんな話なくて。してもウケないし。バカ話はしてたけど。対して女性の話聞いてたらとんでもないひっどいエロネタやってたりもして。なんかデータとかあるのかもしらんが、あんまり決めつけもよくないなと思ったんだよね。
This account is not set to public on notestock.
なんか最近、フェミニズムやジェンダー論を知った男たちが「男って」を語りはじめてるの、すんごい気持ち悪いと思って見てるところがある。
それ、そう言っておくと相手の女性に「ウケる」から、優秀なインフォーマント評価ゲットするために口滑らせてない?とか、一部の体験からの一般化が激しくない?とか。
おそらくは有名な都内や関西の私大や国立大を出て、著述までしているような人間に「男って」とか一枚岩の代弁されていいのかよ、それ許すんか?とも思う。
「男って」論(男性に否定的なそれ)は唱えるとSNSでもウケがよくて、一瞬で拡散されていくのに「データや論拠があるなら別として一部の体験を過度に一般化しすぎではないか」みたいな話をしても一切ウケないからね。みんな「男って」「女って」って話が大好き。
「この男は話せる男である」を取りにいってる感じというか。某批評家の本も要するに単なる「最近流行った映画の評論集」みたいな内容だったりするんだけど(それが悪いわけではない)、そこに「弱者男性」みたいなテーマ絡めていくと売れ行きが違いそう。
つーかインターセクショナリティって話はどこいった?っていう。「女」は多様だけど、「男」は一枚岩、ってわけでもあるまいし。
男性性に対する反省能力の有無みたいなところで「ぼくは他の男とそこが違う」っていう卓越性アピールにもなっているところも気になる。もちろん有害な男性性なんてないほうがいいし、そうしたことをどんどんなくしていかなきゃいけないし、できる努力はすべきなんだが、そこだけ割と根性論っつーか、主体的な努力をしろというマッチョイズムになってる感じというか。
男なんて、ある意味では実は主体性をほとんど奪われていて選択の余地もないからね。スーツ一つ、ネクタイ一つ、好きにとったりやめたりできないでしょ。割と主体性構造的にはぎとられていて【だから】女性蔑視を内面化していたりもありそうなんだけど。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
「男はつらいんだ」が言えないのに(男は「女よりつらくない」ので)「なんで男って弱音吐けないの」って言われるし、弱音吐いても評価が下がるだけで何もいいことはなく(お前ら同士で弱音吐いてろ、こっちにくるな!って意味なので)ここらへん、言いたいことは多分間違ってないのだけど、言葉の解像度が低いせいで並べてみると一見矛盾したメッセージみたいに見える。
本当に言いたいのは、一方的に感情介護させるな、ケアさせるなってことなんだよね。相互のケアなら全然アリだし、むしろそうした関係を育むことから「弱音を吐く」は始まっているんだけれど、一足飛びに「弱音吐くのですべて受け止めて」みたいになるので「こっちくんな」になる。
男は辛いんだってもっとガンガンストレートに言っていったほうがいいと思うんだよね。杉田俊介とか寅さんみたいな意味じゃなくて。事実つらい。そういうつらさの認識から「それでもゲタをはかされてる」の意味だってわかるわけだし。
This account is not set to public on notestock.
「SNSで間違ったことを言ってはならない」規範、あまりにも強く内面化してしまうと、「間違ったこと」を言わないように、人の顔色、すなわち空気ばかり見ていくことになるわけでしょ。SNSでの「正しい」「間違った」なんて、自分と交流あるアカウント(私はこれを「承認資源」と呼ぶ)によるいいねやシェアの多数決でしかないわけだし。
それに人は安心して間違えられる、失敗できる環境において、試行錯誤を繰り返し、適切なタイミングで優良なフィードバックが得られるときに最も効率よく学習ができるんだけれど、その機会が奪われてしまう。
結局「人が正しいと言っていることを自分もそうだそうだと追認するだけの大政空気翼賛臣民」になるだけ。
「差別だと言われるだろうし、おそらくは悪いことだろうし、積極的に言いたい動機もないので言わないようしてるが、いまいちなぜそれが差別になるのか腑に落ちてない」みたいなことって結構あって。でも、そういうことに対して安心して疑問を提示したりフィードバックがもらえる場所じゃあないんだよね、SNSって。
もちろんそんなことを必ずSNSでやらなくちゃいけないかというと、そうでもないので、どうでもいい話なのかもしれないけれど、しかし、みんなようそんな自信持って、あれは差別!これは差別!とかカタカナあてはめて「思考」できるなあ、ってポカンとしてるときがある。
間違ったことを言ってはならないのはある意味で「その通り」なのよ。なんせ間違ってるんだし、別に仕事での多少のミスとかなら間違えてもいいけれど、差別発言とかそういうのは「絶対にしてはならない」こととされているので。①絶対にしてはならないことなので間違えることが許されない。②他方で差別については特定の答えを覚えてそれを機械的に適応するだけではなく、常に問題を考え続け学習を続けていく必要があるのだが、③学習するには安心して間違えられる環境が必要で、④SNSはそのような場所になってないどころか、逆に学習を阻害する要因が強い、っていう。
ある意味では「間違ってはならない」。でもそれを「あまりにも」内面化してしまうとそれも問題っていう。
This account is not set to public on notestock.
どうも「差別をしてはならない」意識以前に「間違えることが怖い」意識が強い人ってのも多々見受けられて。この二つは似てるけど全然違う。
This account is not set to public on notestock.
間違いを許す社会も大切なのだと思うけど、「自分の言明は真実そのものである」と疑わない態度もどうにかならないかな。「xxは科学的に正しい」とかもこの言説の一種だけど。
誤りも時と場合によっては「許される」ことがあってもいいのかもしれないが、それって誤りをした側に「学び」があってこそ報われる話だし、されたほうが必ず「許す」必要もないよなっていう。
ちょうどハートストッパーでベンがチャーリーに謝罪するシーンがあって。ベンは自分がしたことが悪いと認めて謝るんだけど、それを一応は聞いてチャーリーが「それがいかにひどいことだったか」をベンに伝えるんだよね。「過ちを認められたのは結構だし、同じことを他の人にしてほしくないとは思う」「でも、そうやって改心した場を見たいとは思わない」「二度と会いたくない」っていう。
ケースバイケースで判断つって、それが恣意的に働いたらいやだな.....とも少し思ったけど、現実的には過ちをおかしたほうが「人間誰だって間違うんだから」つって「不快な気持ちにさせて」とか言って「だめだ、なんもわかってねえ」ってパターンが残念ながらほとんどな気もする.....。
This account is not set to public on notestock.
吉野源三郎のほうの「君たちはどう生きるか」にもそういう場面があったな。
コペルくんが友人に対して負い目を負うようなことがあって、それに悶々としていたところ、おじさんから友人に許されるかどうかは問題ではない、自分の過ちを認めて謝罪することが重要なんだ、と諭されるところ。
This account is not set to public on notestock.