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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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違国日記、なんか途中から鼻白んじゃったんだよな。なんか「東京のお話」って感じで。上手く言えないんだけれど、リアル成分が少ないというか……。
ほんとしつこいけど、でも言ってしまうんだが、『怪物』と『違国日記』、テーマは割と同じなんだよな。「他人のことを簡単にわかってしまってはならない」「他人のの把握しきれてない部分にはセクシャリティだってあるし、他のことだってある」っていう。それを悲劇的な話として描くか、コージーな陽だまりのような光のもとで描くかって違いはあるので、前者が苦手って人がいるのはわかるけど、でも、テーマは同じと見ることもできる。
『違国日記』はみんな絶賛するんだけど、でも、映画に即してきちんと根拠を持って語るのではなく、『怪物』をボロカスに言うの、それ、違国日記で否定的に描かれるような「少し知っただけで他者をわかった気になる」態度とどこが違うのかと。
実は、異国日記あまり面白くなかったって言う人も結構いるんだけれど、なんとなく今のヤマシタトモコって悪く言いにくい空気がある。 作品について、ポジティブには言及しやすいんだけれども、何か面白くなかったと言うには少し勇気がいる感じ。
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違国日記、別に嫌いではないんだけれど。ヤマシタトモコも自分は大好きだし。期待しすぎてるだけなのかも。ただ「実はあまり好きじゃないんだよね」と言うと、割とあちこちに「私も!」って人はいて。あー、やっぱり「言いにくい空気」はできてるんだなあと思ったりもする。
なまじ「よい」作品なだけに「何が」おもしろくないのか、自分には刺さらないのか、あるいは気になってしまうのかを考えてる。なんでなんだろうね。なんか物事のポジティブでハッピーな表象ってのが、逆にこちらの、この現実の温度感に合わない、みたいなところは、作品の是非とは別にあると思う。
よく「マイノリティに対してもっとポジティブな表象を」と言われる。自分もまったくそこに異論はないのだけれど、落ち込んでるときとか「この世はクソ」とか思ってるときに、あまりにもポジティブだったりコージーな世界観は見るのも辛いというか、入っていけないことはある。
「ものすごくネガティブでひどい描写が続くダークな作品」みたいなのを落ち込んでるときに見て元気になる、みたいな人は結構いるみたいだし。まきおちゃんも朝も、まぶしすぎた。
「日記」と言ってるから、それでいいんだけれど、日記的な、作家やクリエイターたちの、ちょっとした懊悩を見せられてる感じというか。あまりにもサイバラ成分少なくないか?みたいな感じ? 「地方に住んでる自分らの世界の周りにいるような人間は一人も出てこないぞ?」みたいな。
ハートストッパーも違国日記も、私設図書館に置いてみんなに読んでもらいたいので、紙でわざわざ買ったんだけど、まあ、地方だし、全然読まれないよね......。それなのに紙で買っちゃったもんだから、すぐ手にとって内容を確認したり、参照してメモとったりができず、しくじったなって感じ。
『三角窓』も序盤は「おおお!!!」と興奮したんだけど、中盤はなんかよくわからず、このままいくのかなあ.....って思ってたら最終巻あたりで、ものすごくいい着地点に着地した感じで「よかった!」ってなったので違国日記もそうなってる可能性も。自分は9巻まで読んで「なんか違う」となって購入止まってる。紙で......もう本買う習慣がどんどんなくなってる。
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自分もこれ、非常によくわかるのだけれど、金持ちだからって幸福とは限らないし、そこらへん、言語化しようとしても上手くやらないと「どっちのほうが不幸か勝負」みたいになって、やってることが女性差別を無効化しようと躍起になるインセルと変わらなくなり、結果「勝者、『地元最高』!」みたいになってしまうからな。
違国日記、登場人物が精神的に余裕ある感じに見えてしまうんだよな。それは必ずしも悪いことではないけれど、余裕ある人がぼちぼちあれこれ悩んでるけど、でも、全員基本的にはものすごく倫理観も教育水準も知的水準も高いので、ディスコミュニケーションはたまにあるけれど、解決不能ではないし、解決不能だとしても、全員がそれを受け入れても大丈夫といった.....要するに、あれは現実ではなく、ある種の再構築されたファンタジーで、そのおかげでエンパワメントされる部分があるから、私が言ってることはあんみつ味のところてんに「なぜ酢醤油じゃないのか」というイチャモンのような気がしないでもないのだが、現実、みんなこの1/10もコミュニケーション能力がない感じがしてしまい......。
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というか、東京住んでるだけで「一軍」だしな。カネ云々だけではなく。もちろん「一軍」には「一軍」なりの悩みも辛さもなんなら地獄だってあるので、それを否定したいわけではないのだけれど、それが「鼻じらむ」というパースペクティブが、作品内ではほとんど出てきてないのではないか?
社会階層が高すぎて、全体的に「いいひと」しか出てこなくて「それ、どこの国の話?」ってなるんだよな。って、「違国の日記」ってのはそういう意味か?
違国日記、とか文句言いつつ、新刊を買いたいのだけど、さて、これ、紙で買う?電子?ってなる。もう紙の漫画って「ゴミ」に近い気すらしてる。電子かなあ.....。
漫画は特に「紙」にするとボリュームあるし、Retinaディスプレイとかで読むほうが圧倒的に「絵がいい」ので、紙で買うメリットが「人に貸す」くらいしか本当にないんだよな。でも、もうみんな「紙の本を読む」習慣から忘れかけてるような人が「人から本を借りる」ような人には多いし、あんなボリュームあるもの貸されても.....ってなるし、どうせしばらくすると「無料公開中!」「半額セール!」などやるので、マジで紙、なんなん?ってなる。
もちろん電子書籍は所有ではなく、単に「アクセス権」を一時的に供与されてるだけ、それこそプラットフォームにすべてを握られてる世界なのだけど、でも、これだけ地球の異常気象、災害が続くと「紙で自宅に持っていても水害地震津波竜巻火災で紛失するリスク」のほうが圧倒的に高くなってしまう。そしてわしにはもう、残された時間がそんなにないのじゃ。読み返すなら新しいものは追えない。新しいもの追うなら読み返さない。
@16kz_8s 冗談で正直、通知がウザかったに一票入れておきました。ぶっちゃけ気にならないですよ。あんまり編集する人もそこまでおらんので。
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万年筆の話題になるとまずは安価なモデルで入門って話になりやすいけど、見た目が気に入ったりして懐に余裕があるのであればいきなり高い万年筆を買ってもぜんぜん問題ないと思う。まあ筆圧強い人は安価なものから入った方が安心かもだけど。
Zガンダム、心理描写ヘタクソすぎ。アムロ、あれだけモビルスーツに乗れなかった、乗ろうとしなかったのに、フラウに「子どもには戻れないって覚えてて」って言われただけで、カツ引き連れて参戦。カツをパイロットにすることにフラウは反対してたのにそれだけで行かせるフラウ。そして、一年戦争でのララアのトラウマからモビルスーツに乗れず悶々としていたアムロ、ベルトーチカがいきなりキスしてきただけで、それで発奮してリックディアスに乗り込む。いつの間にか、ベルトーチカとアムロ、長年の恋人みたいになってる。「アムロは単に女好き」。それだけ仮定すれば一応辻褄はあうのだが.....。
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お前の性格がクソとか言われそうだけど、朝を見てるとイライラし、マキオを見てるとさらにイライラするっていう。なんなんだろうな。優しいようでいて、まったく優しくない感じというか、決して「こちら」を見てないような感じがする。
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電子書籍になると「既にお金を払ってすぐに読める状態にしているけれど常時Amazonの書庫でAmazonに保管してもらってる」状態と、「まだお金を払ってないけれど払えばすぐに読める状態でAmazonの書庫でAmazonに保管してもらってる」状態に、ほとんど差がなくなってくる。読むときに買えばいい。だから「積読」の意味が変わってくる。私は初回にお金を払いさえすればいつでも読むことができる状態で「Amazon倉庫」に積読してある、という言い方だってできてしまう。
紙の本なら売ることができるのは確かなのだけど、きちんとした本をきちんとした古書店で買い取っていただくか、あるいは自分で直接話題書をメルカリで売るとかでなければ、おそらくは二束三文なので手間を考えると現実的じゃない。電子書籍は「別に今買わなくてもいい」ってことと「いらなくなった本を売ることができない」という自身の弱点をよく知っていて、だから頻繁に「セール」をやってるので、電子書籍のほうが結果めちゃくちゃ安くついてしまう。
紙の本にあるメリットは意外にも「簡単に捨てられる」ところにあると思ってる。電子のほうが簡単に捨てられそうだが、実は「捨てるのが簡単すぎる」かつ「捨てることに別段メリットがない」ためになかなか捨てられない。紙の本はその点あとくされがない。
以前、その日電車に乗る前にブックオフで100円で文庫買って、電車の中で読み、読み終わっても読み終わらなくても帰宅する前にゴミ箱に文庫を捨てて帰るっていう友人がいた。ここまでくるとかっこいい。亡くなってしまったけれど。
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ぼくは新しいテクノロジーが嫌いで、基本「世の中のそういうところはずっと変わらないでいてほしい」と思いがちな、どちらかというと大変保守的な思想の持ち主なのだが、それでも「もう本はほぼすべて電子でいいな」となってしまった。それでも紙で「がんばる」【個人的な】意味がまったく見出せなくなった。Macbook使うようになってからそれが加速。RetinaDisplayで見たほうが文字も読みやすくきれいで目にやさしい(!!)し。
そんな自分でも、なぜか音楽もレコードを買ってしまってる。音質で行くとサブスクで十分っていうかサブスクのほうがいいし、場所しか取らないんだけど。でも、流動的で区切りのない「ザ・ひとつながり」ばかりの世の中に疲れてしまうときがあって、アナログレコードはそんな「ザ・ひとつながり」からの静かな逃避先だったりする。
そして最近MacbookかiPhoneでしか本読まなくなってきてしまったため、Paperwhiteがほとんど解雇寸前状態。嫌いじゃないんだけど、読書に特化しデジタルデバイスとの連携がないだけに(そこがこいつのメリットでもあるのだが)、自分からしたら「ほとんど紙と一緒じゃん」になってきてしまってる。
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はだしのゲン程度で「思想強い」って言うお前のほうが、本当は思想強いし、無色透明からかけ離れてるんだけどな。
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自分も結構それで「小さな穴」、あれこれ掘ってたつもりなんだけど、これがまず「掘っても入ってくれない」んだよね。それくらいマインドが完全に市場に持ってかれちゃってて「市場以外」という想像力から完全に無くなっちゃってる感じ。というのも、フリーミアムの浸透なんかのせいで「無料であることが市場でもフツー」みたいな感覚があったり。なかなかみんなで独自に自治をつくりあげていく、みたいな感覚が共有されにくい。とはいえ、なんかもう全部市場みたいな感じにはすんごく疲れてしまってもいる。
自分は(想像上の、理想化された)グレイトフル・デッド・コミュニティみたいなのに憧れてて。ゆるーくやってるんだけど、なぜか不思議と回っていってしまう、しぶとい楽しさ、みたいなラインにロマン感じてるんだけど、年々その感覚が通じにくくなってると痛感してる。そもそも「楽しい」「楽しさ」みたいな感覚から死滅しちゃってる感じ。
特に徳島のような地方にいると、もうほとんど絶望しかない。ある意味、東京なんかより地方のほうがよっぽど「日本の未来」を先取りしてるんで......。
地方で地元の活動ってなると、コミュニティデザインにも限界がある。タイを釣ろうと水たまりにいくようなものなので......。「コンセプトやデザインでクオリティコントロールしようとすると検索結果「該当しません」になり誰も当てはまらないけれど、当てはまって「成り立つ」ようになるまでコンセプトをゆるめていくと「マルシェで屋台で縁日」程度しか実行可能性がない。それでもそもそも今の時代に「地方の中で」何かすることにこだわる意味がわからないし。
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なんかこの方の「対話」っていいこと言ってるふうで、いつもキラキラしてるんだけど、ものすごーーく無責任で「まだ/何も/決めない」常にずっとペンディングしつづけることを「対話」にしてません? そら個別個別の相手との関係性の中で、常に国葬賛成か反対かだけではなく、別の質問からその人の考えを理解したり、その人自身に自分を変えさせる努力をするってのは必要だと思うけれど、それをこんな文脈でこの時代に、こんなふうに一般化して言葉にしてしまう無責任って。それを称揚してしまう人も多くてびっくりしてる。
永井玲衣自身は、私は詳しく存じ上げないのだけれど、国葬には賛成なんだろうか。反対なんだろうか。国葬レベルでも「賛成か反対かではなく」って......そういう立場がいかに現政権に都合がいいか......。そこから対話していかないと理解されないんだろうか。対話していったら理解してくださったり、あるいはこちらが理解できることが何かあるんだろうか。そしてそこでの理解は「次に持ち越し」ていってくれるんだろうか。
対話というのは「どちらにもつかない」。だからどの陣営からも簡単に仕事がいただける。無責任に、でも「対話」「対話」と言っている哲学者にだけは業績が積み上がっていく。ノーリスクでリターンは着実に得られるコスパ戦略みたいに感じる。
私も対話が大事だと思っている。意見をぶつけて戦わせることが常にいいとは考えない。だから、一見差別的な思想であっても、その場では理解をしようと努めるし、理解できなくても、聞くことはできるのでそうする。対個人の間では。でも、それとは別に自分の政治的立場を、たとえば国葬のようなものに対して曖昧にすることはしない。明確に反対だと旗幟は鮮明にする。永井には何か明らかにしているポリシーはあるんだろうか。
先日読書会をした時に、とある方がいらっしゃって。その方は「トランスジェンダーの方は職場にはいるし、ノンバイナリーの友達もいる。アイデンティティを否定しようとは思わない。けれどもどうしても女性専用スペースのあり方を変えてほしくない(トランスは多目的トイレの利用に限定すべき)と思う自分がいる。トランス当事者が書いた本を図書館で何冊か借りてきて今読んでいる」という。私はこの方の考え方に同意はしないしトランスに対する偏見や差別があるとは思う。けれども、そのように物事を捉えていることに、お話を聞いて共感はできたし、理解はできた。そこでは対話を意識した。でも、自分の考え、旗幟は鮮明にした上でそうした。対話をする上でのむしろ最低限のマナーであるとも思う。
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なんかもう読書会とかも、みんな余裕なくなってるんで、昔みたいに集まらない感じあるというか、本、読まなくなったよね。読まないっていうか、なんか「値段も上がったしとてもじゃないが買えない」空気は感じてる。
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RSSリーダー、いいのだけれど、フィードに割と一般的なウェブメディアを登録してしまうと、記事数も多いしつまらない記事が多いから自分には合わないなと毎回気づく。使い方、ここからもっと変えてく必要ある。
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国葬に賛成する人と話すときに、すぐに政治的に断罪するのではなく「話を聞く」「対話を試みる」ってことは大事だと思うけど、そのテーマをそのタイミングで例として出し「すぐに賛成反対と分断を煽るのではなく対話」(ほとんどそういうことでしょ)って言ってしまうことの政治性に気づいてないのだとしたら、相当のマヌケか、かなり悪意のある方だとしか言いようがない。
あんなもん、考えるまでもなく基本「反対」一択でしょ。でも、だからって「賛成」してる人に自論をぶつけたところでしょうがない。それで意見が変わることはまずないので。だから対話が大事だってのはそうだけど、対話というものを、どこまでも「バトル要素のないもの」のように表象してる感じがして、めっちゃ引っかかってしまう。著書は読もうとしたけど、こちらは引っかかるところが一切なく、ツルツルと目が滑ってしまい頭に何も入ってこなかった。
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立ち上がらなければいけないときですら「対話」をするやつがいたら、そんなのアホとしか言いようがないじゃん。
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なんていうか、普段、中立風見鶏許さない!って言ってるリベラルな人でも「てつがくって」ってやられると結構簡単に「うんうん」っていいねしちゃうもんな。日本のデモクラシーの弱さって「そういうとこやぞ」って感じで、批評や哲学の教育が圧倒的に足りてないと逆説的に思うなど。
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これも首がもげそうになるな。杉田俊介のことなっ!(ハイハイ)https://mastodon.social/@comecaML/110870348676946345
マッチョじゃん!とかミソジニーじゃん!とか言って「なんか言った感じになる」「それを言われたらその時点で負け」みたいな言葉のあり方が苦手。
弱者男性論?の某杉田俊介氏、たとえ弱者男性で人生に望みがなくとも弱者を叩くのではなく耐えることこそが弱者男性の矜持.....みたいなこと書いてあったので「それってそれこそ我慢や忍耐っていうマッチョイズムだし、資本主義に都合いいんじゃないか」って著書の感想を述べたらそれだけで「恐ろしいほどナチュラルなマウンティング」「根っからのハラスメント体質」ってTwitterで言われてブロックされたんだよな。
ブロックはいいけれど、著書に対して批判しただけで「それは当たってないですよ」とかではなく、いきなりガチギレして見知らぬ他人に「ハラスメント体質」みたいに言うのが本邦の「批評家」らしくて、悲しすぎて涙出そうになったけど、弱者男性だから歯を食いしばって耐えた。
別に反論とか批判とかそんなのはどーーでもええのよ。読者の感想なり批判なりに対し、言いたいことあるなら言えばいい。でも、それって「根っからのハラスメント体質」みたいな悪口じゃないでしょ。
っていうか、自分の著書に対して批判をされただけで「恐ろしいほどナチュラルなマウンティング」のような対人攻撃までして相手より上位に立とうっていう、その根性こそマウンティングだし、トキシックなマスキュリニティでは......。
この杉田の投稿見て、怒りとかじゃなく、みなでドン引きしたの覚えてる。日本の評論、一部界隈のレベル本当にやばい。
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アウトライナーを試しに使ってる。omnioutliner とworkflowy。どちらも一長一短というか、目的が全然違う。workflowy気に入ったけど、文章作成のためのアウトライナーとしては使いにくいかも。2つアウトライナー使うのもよさそうだけど、ショートカットキーバラバラや。
RSSフィード、Mastodonのアカウントも登録できるので便利です。自分はいまだにできてないけれど、いつかすべてRSSからSNSもチェックできたらと思ってる。
SNSの何がいけないかというと、インプットとアウトプットの位置が近いこと。だからインプットしたものをすぐアウトプットしてしまい、それがまた誰かのインプットになってしまう。インプットとアウトプットの距離を離す。そうしたらどうなるか。タイムラインを見に行くのではなく、RSSフィードを間に噛ませたり、投稿を直接するのではなく、メモアプリを間に一個噛ませたらどうなるか考えてる。
何か縛りのあるMastodonサーバ立てたい。たとえばライフハック関連の投稿しか書いてはいけないサーバとか。個人のウェブサイトやブログを持ってる人が自分が書いた記事を投稿するだけのサーバとか。